『養老』『野守』『井筒』……世阿弥の能には、水の場面が繰りかえし現れる。あるときは無残な老衰の影。またあるときは零落した遊女の姿。あるいは、恋い慕う想い人の面影が誘惑するように水面にゆらぐ。
流れる水も静止した水も、そこに何かが浮かび上がるとき、物語のかたちをかりて夢想の世界がひろがっていく。存在と非存在の交錯する鏡もまた、幻想の舞台だ。だから水鏡は作家たちの想像をかきたてる。水鏡は覗きこんだ者をしかと捕らえて離さない。まるで魔力が宿っているみたいに。
水鏡を覗くとき、そこにはなにが映っているのだろう。水鏡をとおして、人はいったいなにを見ているのだろう。
〈水鏡の物語〉 夢幻能の傑作『井筒』
ある月の美しい秋の日。
舞台は大和の石上の在原(ありわら)寺。
一人の僧が寺を訪れた。かつて在原寺には在原業平の邸があった。ここは業平が幼友達の紀有常(きのありつね)の娘と暮らした場所であり、娘が他の女のもとへ通う業平の身を案じて歌を詠んだところでもある。いまは荒れ果てた古寺だが、業平を葬った塚があった。思い出の井筒も残っている。
そこに仏にたむける花水を持った里の女が現れる。僧が話しかけると、女は業平との日々を語りだす。二人は井筒の側で背を比べて遊び、井戸の水に互いの姿を映して遊んだという。女は思い出の井筒へ向かい、自分の姿を水面に映す。そこに映るのは、懐かしくも恨めしい業平の面影だった。やがて寺の鐘が鳴り、夜が明けると女の姿も消える。
水という境界
水に映るイメージが幻想的な『井筒』は待つ女の物語だ。僧が目覚めるところで曲は終わり、女の夢もまた曲とともに儚く散ってしまう。ただ、私には女の消えたあとでも水面には異界や妖異を思わせる非日常の気配が波紋のように広がっているように思えてならない。
彼岸たる地中へ深く、深く差しこまれた井戸はまさに彼岸と此岸を行き来する出入り口だ。水はあちらとこちらの境界的な回路となり、怪しく光る。業平とその妻である女、ふたつの影は水鏡で重なりあい、女は水のなかに水が送り返すほかのものを覗く。井筒が、筒によって囲われているということも境界としての作用と無関係ではないだろう。囲うことにより、特定の区間を区切られた空間は、たとえば門戸や神棚に張られたしめ縄のように、その内側に別世界を出現させるからだ。
〈水鏡の物語〉 若返りの霊水『養老』
美濃の国、本巣の郡に不思議な泉が湧くと知り、帝の勅使たちが検分に訪れた。その地で勅使は、霊水を見つけた老人とその息子に出会い養老の滝の謂われを尋ねる。話によると、息子が偶然に見つけた滝の水を飲んだところ、水には心身を癒す不思議な力があったという。さらに息子が汲んで帰った水を年老いた父母に飲ませると、老いが回復したと老人は語る。
老人は勅使に滝の場所を教え、長寿の水にちなんだ酒の徳に関する故事を語って聞かせ、養老の滝から湧く薬の水を讃える。やがて山神が現れ、颯爽と舞い、帝の徳を讃え、天下泰平を祝福する。
水に映る反転した自分
霊泉に立ち寄った老人は袖を浸して水を掬い、水鏡する。「老いの姿も若水と見る」若返りの霊水には、老いた皺だらけの顔も若々しく映ったのだろう。『養老』の水鏡に映るのはおなじ一人の人間だけれど、ここでも複雑な「ひっくり返り」が起きている。水鏡を見る老人は、自分の姿とは対照的な若い姿と向きあっているのだ。
なにせ老いが若さに転覆する水鏡の世界である。いつまでも寿命の尽きることのない、山奥に湧きでる不思議な水は玉のように美しいにちがいない。水面には一晩中、月が映っていたかもしれない。とするなら、老人は月もろとも体のなかへ流し入れてしまったのだろうか。老いを退けてしまう若返りの水は、満ち欠けてもふたたび復活する月の不死信仰とも結びついているかもしれない。
『貫之集』の水鏡
ところで平安時代の歌人・紀貫之の和歌の集大成『貫之集(つらゆきしゅう)』には水鏡にまつわる歌が収められていて、水鏡の織りなすロマンチックな詩的映像を堪能できる。
「手に掬ぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ」と、水に映る月影の様子を描いた歌からは、この作者もまた世阿弥同様に水鏡に強く惹かれていたらしいことが想像できる。しかしそれはあくまでも、いつ消えるか分からない儚い幻想的な光景である。夢の内の奥深くまでは手を伸ばしてはいけない。なぜって、水の中のさらにその先は、境界をまたいだ未知の世界がひろがっているのだ。
水の向こうの世界
鏡をのぞくとき、いつもすこしだけ緊張する。
なにが映るかは承知しているはずなのに、「鏡のなか」のものにいつまでたっても慣れないからだ。揺らめく透明な水面に自分を映すときは、もっと勇気がいる。
水鏡は形あるもの、形ないもの、見えるもの、見えないものをも映しだす。なにかを求めて注意深く覗きこめば、そこに世界そのものを見いだすことだってできるかもしれない。あるいは自分自身のほんとうの姿を見つけるかもしれない。その世界は現実と非現実を行き来し、意識と無意識を浮かび上がらせ、水底には生と死が沈んでいる。人は、水鏡の中でさまざまな形と結びあわされることになる。掴もうとしても逃れ去ってしまう曖昧さ、捉えづらさが唯一無二の魅力となって人びとを惹きつけるのかもしれない。
【参考文献】
『宴の身体 バサラから世阿弥へ』2004年、岩波書店、松岡心平
『無の透視法』1989年、書肆風の薔薇、小林康夫
『うつぼ舟4 世阿弥の恋』2012年、角川学芸出版、梅原猛