大河ドラマのキャスティングといえば、お笑い芸人さんを起用するのも毎回話題になります。2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、お笑いトリオ・ロバートの秋山竜次(あきやま りゅうじ)さんが藤原実資(ふじわらの さねすけ)を演じます。
ロバート秋山さんといえばクリエイターズ・ファイルシリーズなどで、いかにもそれっぽい人を演じるコントをしているだけあって、その演技力が期待できますね。
それでは、藤原実資とはどんな人物だったのでしょう。藤原道長との関係も紐解きます。
藤原実資の家系図
藤原実資は、藤原氏の全盛期を築いた藤原道長(ふじわらの みちなが)の又従兄にあたり、実資の方が9歳ほど年上です。
実資は天徳元年(957)、藤原斉敏(なりとし)の3男に生まれますが、祖父・実頼(さねより)の養子となります。そして実頼から始まる「小野宮(おののみや)家」と呼ばれる家を継ぎ、その所領と記録文書を相続しました。
この小野宮家は本来、藤原氏の嫡流なのですが、主導権は兼家・道長一家である「九条(くじょう)家」に移ってしまいます。しかし実資は養父から受け継いだ記録文書を元に故実に詳しい「賢人」としての立場を確立します。そして最終的には日本のNo3である右大臣に上り詰め、「賢人右府(けんじん うふ)」の異名をほしいままにしました。
藤原実資の性格と藤原道長との関係
そんな実資と道長はどんな関係だったかというと……。道長の権力全盛期の時も、実資は「小野宮家の嫡流である」という意識を強く持ち、安易に迎合しなかったことが、実資の日記『小右記(しょうゆうき)』にも書かれています。
例えば長保元年(999)、道長の娘・彰子(あきこ/しょうし)が一条天皇へ入内(じゅだい)する時、和歌を書いた屏風(びょうぶ)を調度とするため、道長は周りの人たちに和歌を贈ってもらおうとしました。一条天皇の先代にあたる花山法皇までが和歌を贈りましたが、実資は拒否しました。
そして一条天皇の次代・三条天皇の時。三条天皇の妻には道長の娘・妍子(きよこ/けんし)と実資の親戚の娘・娍子(すけこ/せいし)がいました。妍子は中宮でしたが子がなく、娍子との間には親王がいます。三条天皇は、娍子を皇后としようとしましたが、道長からの圧を恐れて躊躇していました。けれど道長は娍子を皇后にと進言します。
ここまでは、まぁまぁ良い話なのですが……長和元年(1012)4月27日、立皇后の儀式の当日、道長は出席をドタキャンします。そして他の公家たちも道長に同調してしまいました。この時実資は病気で療養中の身でしたが、この事を聞いて参内し、道長の圧力をものともせず娍子の立皇后の儀式を執り行いました。
このように唯一、道長に対抗・批判できた人物です。かといって、バチバチに対立していたわけではありません。彰子を尊重して「賢后」と呼んだり、道長が有名な「望月の和歌」を詠んだ時は「このような素晴らしい歌に返歌しようがない」と言って、道長の和歌をその場にいた皆でそのまま詠んだというエピソードもあり、立てる時はとことん立てる面もありました。
自らの権力よりも朝廷を重んじて筋を通すことを選ぶ「賢人」の名に相応しい人物だったと言えます。
藤原実資と紫式部
『光る君へ』の主人公である紫式部(むらさきしきぶ)とはどんな関係があるかというと、特に密に接していたわけではありません。しかし『小右記』には、実資やその代理の者が彰子の元を訪れた際に取次ぎをしたのが紫式部であることが書かれています。
藤原実資の魅力
実資は道長よりも年上ですが道長よりもだいぶ長生きし、永承元年(1046)、満年齢89歳の大往生を遂げます。実資の日記『小右記』には欠落した期間はあるものの、63年間に及ぶ記録です。しかも1日の文章量が長く、具体的でわかりやすいだけでなく、実資自身の感想も書かれているため、とても貴重な史料となっています。このことからもとてもまじめな人だったことが伺えますが、『光る君へ』ではお笑い芸人である秋山さんがどう演じるのか楽しみです。
権力者である藤原道長に迎合せず、批判するところはキッチリ批判しつつも、立てるところは立てていた実資。こういうバランス感覚のある先輩がいたからこそ、道長もただの権力欲に溺れた人にならずに、今日まで愛される人物になれたのかもしれませんね。
アイキャッチ画像:菊池容斎著『前賢故実 巻第6 藤原実資』国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献:
小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』
平凡社『世界大百科事典』
赤木志津子『摂関家の諸相』
藤原実資 倉本一宏編『小右記』(角川ソフィア文庫)、
服藤早苗『藤原彰子』(吉川弘文館)