織田信長死す……。明智日向守光秀(あけちひゅうがのかみみつひで)が主君の信長を討った本能寺の変からわずか11日後、光秀は羽柴秀吉(はしばひでよし)に敗れ、戦場から落ち延びる途中、農民に討たれたといわれます。しかし一方で、光秀は死んでおらず、後年、徳川家康(とくがわいえやす)のブレーンとなった僧侶・天海上人(てんかいしょうにん)こそが光秀その人である、という不思議な説が存在します。もちろん歴史学者は「取るに足らない俗説」として切り捨てますが、ではなぜ数々の奇妙な伝承が今も語り継がれているのでしょうか。本記事では天海=明智光秀説を検証しつつ、その謎に迫ります。
坂本の明智光秀と天海
比叡山の麓(ふもと)、滋賀県大津市下阪本3丁目。琵琶湖畔に、小さな公園があります。「坂本城址公園」。名前が示す通り、ここには戦国時代、織田信長の重臣・明智光秀が居城とした坂本城がありました。城は湖に突き出した「水城(みずじろ)」で、本丸などの中心部は現在、琵琶湖底に眠っており、渇水した時期などに石組みを確認できます。また坂本城跡から北西に2km余りのところにあるのが、明智光秀ゆかりの西教寺(さいきょうじ)。境内には光秀の正室をはじめ、明智一族の墓が佇(たたず)んでいます。
まさに明智光秀のお膝元ともいうべき坂本ですが、坂本城跡と西教寺のほぼ中間、城跡から1km余りのところに滋賀院(しがいん)という寺があります。寺を開いたのは、慈眼大師(じげんだいし)こと天海僧正。徳川家康のブレーンを務めて「黒衣(こくい)の宰相(さいしょう)と呼ばれた、南光坊(なんこうぼう)天海です。そして滋賀院のすぐ西隣には天海の廟所(びょうしょ、霊を祀る場所)である「慈眼堂」が建ち、さらに西南方向には天海創建の日吉東照宮(ひよしとうしょうぐう)が鎮座します。
「なぜ明智光秀が拠点とした坂本に、天海の廟所があるのか? まるで坂本城落城の際に命を落とした、明智一族や家臣を鎮魂するためのようではないか。天海が明智光秀であるという説は、本当なのか?」
坂本で天海の廟所・慈眼堂を訪れた時に、私はそう思わずにはいられませんでした。明智光秀と天海。2人とも生涯に、謎の部分が少なくないといわれます。果たして、両人が同一人物だったという可能性はあるのか。まずは、光秀の最期の謎から検証してみましょう。
坂本城跡
光秀は天正10年に死んだのか
通説の光秀の死
天正10年(1582)6月13日。本能寺の変から11日後。京都府南部の大山崎町付近で大きな戦いが行われました。山崎の合戦です。本能寺の変を知って、毛利(もうり)軍と対峙していた備中高松(びっちゅうたかまつ)城(岡山市)から急ぎ戻ってきた羽柴秀吉の軍勢と、それを迎え撃った明智光秀軍との戦いでした。この時、秀吉は「信長公は無事である」というニセの情報を広めて、光秀側に軍勢が集まりにくくしたといわれます。結果、山崎の合戦で秀吉に敗れた光秀は、いったん北方の勝龍寺(しょうりゅうじ)城(長岡京市)に入りますが、城の規模が小さく、敵を迎え撃つのが困難なため、その夜、少人数の部隊に分かれ、敵の目をかすめて脱出を図りました。
少数の供回りとともに城を出た光秀は、下鳥羽(しもとば)から山科(やましな)方向に向かいます。おそらく居城である近江(おうみ、現在の滋賀県)の坂本城を目指したのでしょう。ところが山科の小栗栖(おぐるす)の竹やぶの中で、光秀は潜(ひそ)んでいた農民の竹槍に腹を突かれ、致命傷を負います。死を悟った光秀はその場で自刃(じじん)、家臣は首を付近に埋めて、立ち去りました。その後、農民たちが首を見つけて秀吉のもとに持参し、秀吉はそれをさらし首にして、光秀を討ったことを天下にアピールしました。これが光秀の最期について、一般的に語られる通説です。
光秀は小栗栖の竹やぶで討たれたという
数々の疑問点
しかし、この光秀の最期については、いくつかの疑問点があります。
1.なぜ光秀だけが討たれたのか。少数とはいえ大将の光秀直属の部隊であり、選ばれた精鋭が護衛していたはず。にもかかわらず、みすみす大将の光秀が農民に討たれ、一方で光秀以外の武将が討たれた話が伝わっていないのはなぜか。
2.自刃した光秀の首を、重臣の溝尾庄兵衛茂朝(みぞおしょうべえしげとも)が現場近くに埋めて立ち去ったのはなぜか。そもそも家臣が、大切な主君の首を持ち帰らずに、その辺に埋めて立ち去るだろうか。また、農民たちが掘り出して、秀吉のもとに届けることも当然予想できたはずで、溝尾庄兵衛の行動は不審といわざるを得ない。
③農民が持ってきた首を、なぜ秀吉は光秀の首だとすぐに認めたのか。土に埋めてから、どのぐらいの時間が経っていたのかは不明だが、現在の暦で7月初めのこと。首は傷んでいただろう。はたして光秀の首だと判別できたのか。また秀吉は、光秀の首を京都の粟田口、もしくは本能寺でさらし首にしたとされるが、その際、なぜか高い場所に首を置いて、見物人が近寄って確認できないようにしていたといわれるのはなぜか。
④光秀の首塚が京都周辺になぜ複数あるのか。秀吉のもとに渡ったはずの光秀の首だが、なぜか首塚がいくつもある。京都市内の東山区三条通白川橋下ルの首塚、京都府亀岡市の谷性(こくしょう)寺の首塚、そして光秀の娘玉(細川ガラシャ)がいた京都府宮津市の盛林寺にも、玉のもとに届けられた首を葬ったという首塚がある。なぜいくつもあるのか。
⑤光秀が死んでいなかったという伝説が存在する。小栗栖の竹やぶの中で農民に討たれたのは、光秀ではなく影武者を務めていた荒木山城守(あらきやましろのかみ)だった。光秀は故郷の美濃(みの、現在の岐阜県)に帰り、荒深小五郎(あらぶかこごろう)と名を変えて武儀(むぎ)郡中洞(なかぼら)村(現在の山県〈やまがた〉市中洞)に身を潜めた、というものである。光秀は関ヶ原合戦の年にこの地で没したと伝わり、光秀の墓もある。
谷性寺の光秀首塚
光秀が生きていたという仮説
以上の疑問点をまとめると、一つの仮説ができるかもしれません。
「小栗栖の竹やぶで影武者の荒木山城守は、主君光秀を逃がすためにあえて命を落とし、光秀が討たれたと見せかけた。荒木の首は農民に掘り出され、秀吉のもとに届けられた。秀吉はそれが光秀の首でないことに気づくが、かまわず『光秀を討った』とアピールすることで信長の仇をとった殊勲者となり、その後の織田家の後継者争いを有利にした。一方の光秀は、負傷など何らかの事情で坂本城に帰れず、身を隠しながら、もはや再起できないことを悟る。そこで複数の首塚の噂を広めて光秀討死を世間に印象づけるとともに、その後、美濃山中に潜んだまま、失意のうちに生涯を終えた」
こうした伝説が残るのは、当時の人々が信長を討った光秀を、報われなかった「悲運の英雄」と受け止めていたからだ、と考えることもできるでしょう。ただ、これで伝説が完結してしまうと、光秀と天海の接点はない、ということになります。
「黒衣の宰相」天海の実像
諸国遍歴の前半生
次に天海の生涯の概略をご紹介します。天海は天台宗の大僧正で、慈眼大師と称されます。徳川家康の政治的ブレーンを務め、「黒衣の宰相」とも呼ばれました。黒衣は僧侶を意味し、僧侶でありながら政治的影響力を持つ者のこと。ただ前半生は、不明な点が多いようです。
天海は一説に天文5年(1536)頃、陸奥(むつ)大沼郡高田(現在の福島県会津美里町)の土豪・舟木(ふなき)氏の家に生まれます。ちなみに光秀の誕生年は一説に享禄元年(1528)ですので、天海は光秀より8歳年下です。
幼い頃に出家し、随風(ずいふう)と名乗りました。諸国をめぐって仏教、学問を修行し、比叡山で修行中の元亀2年(1571)、35歳頃の時に織田信長の比叡山焼き討ちにあいます。その後、甲斐(かい、現在の山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)に保護され、さらに故郷会津の蘆名(あしな)氏に招かれて、黒川(くろかわ)城(のちの会津若松城)内の稲荷堂別当(いなりどうべっとう)となりました。蘆名氏が滅ぶと、武蔵(むさし)川越(現在の埼玉県川越市)の仙波無量寿寺(せんばむりょうじゅじ)に入り、豪海(ごうかい)に師事して、名を天海に改めました。それが天正18年(1590)、55歳の時で、この年初めて徳川家康に会っています。師匠の豪海が亡くなると跡を継ぎ、無量寿寺を喜多院(きたいん)に改めました。
独創的な宗教者
天海が徳川家康のブレーンとなるのは、関ヶ原合戦の前年、慶長4年(1599)頃からといわれます。家康から信頼され、朝廷との交渉役を託されるとともに、比叡山延暦寺(えんりゃくじ)の再興にあたり、比叡山の南光坊(なんこうぼう)を拠点としたため、「南光坊天海」と呼ばれました。大坂の陣のきっかけとなった方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)事件では、陰で暗躍したといわれます。
元和2年(1616)、家康が没すると、「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」という家康の神号決定に大きな役割を果たしました。また家康の遺体を駿河(するが、現在の静岡県)の久能山(くのうさん)から日光に移し、日光東照宮造営に関わります。さらに江戸上野に寛永寺(かんえいじ)を開き、山号を東の比叡山を意味する「東叡山(とうえいざん)」としました。そして江戸の都市計画にも深く関わり、陰陽道を用いた江戸を守るための呪術的な仕掛けを施(ほどこ)したとされます。寛永20年(1643)に没。一説に享年108。
以上が天海の生涯の概略ですが、明智光秀との接点はほとんどないことがわかります。また、日光東照宮造営や江戸の町に施した呪術からも、天海が独創的な宗教者であったことは間違いなく、武将であった明智光秀にそんなことができたかというと、率直なところかなり疑問ではないでしょうか。
天海と光秀との接点は唯一、天海が比叡山で修行中に信長の比叡山焼き討ちにあい、その際に信長の家臣だった光秀と遭遇した可能性があるぐらいです。ただ、比叡山には天海=明智光秀説を裏づけるものとして、次のような痕跡があります。
・比叡山の叡山文庫に俗名を「光秀」といった僧の記録が残る
・比叡山の石灯籠(いしどうろう)に「奉寄進願主光秀 慶長二十年二月十七日」と刻まれている
(ちなみに慶長20年は、光秀が討たれた天正10年の33年後)
これらの光秀が明智光秀を指しているのかどうかは、定かではありません。
比叡山
キーマン・春日局
明智光秀の家老の娘
では、ほとんど接点のない明智光秀と天海の同一人物説が、なぜ生まれたのか。
実は天海=明智光秀説は、後世、庶民の間で生まれたものではなく、天海が没した直後から、幕府内部でささやかれていたともいわれます。私はそこに、キーマンとなる女性がいたと考えます。それが春日局(かすがのつぼね)です。春日局といえば徳川3代将軍家光(いえみつ)の乳母(うば)で、江戸城大奥の基礎を作ったことでも知られます。かつて、大原麗子さん主演で大河ドラマにもなりました。
春日局の本名は、斎藤福(さいとうふく)。明智光秀の筆頭家老であった、斎藤利三(としみつ)の娘でした。しかも斎藤利三の母親は光秀の叔母という説もあり、福には明智の血が流れていた可能性もあります。
ではなぜ徳川将軍の側に、明智光秀にゆかりのある春日局こと斎藤福がいたのでしょうか。本能寺の変と山崎の合戦が起きた時、福はまだ4歳。父親の斎藤利三が羽柴秀吉に処刑されると、福は母親の実家の稲葉(いなば)家に引き取られ、稲葉重通(しげみち)の養女となりました。
大河ドラマの『春日局』
福は応募して乳母になったのか
やがて稲葉正成(まさなり)と結婚。稲葉正成は小早川秀秋(こばやかわひであき)の重臣でしたが、関ヶ原合戦の2年後、小早川秀秋の急死でお家断絶、正成は牢人(ろうにん)となりました。通説ではこの時、徳川家に若君が誕生したので、京都で乳母を求める立て札を出したところ、福が応募して採用され、福は江戸城に入ったといわれます。この若君が2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の息子の竹千代(たけちよ)、のちの3代将軍家光でした。
これに対し歴史学者の福田千鶴(ふくだちづる)氏は、福が募集に応募したというのは事実ではなく、実際は徳川秀忠の正室の江(ごう)に仕える奥女中として推薦された、と指摘します。福の養父・稲葉重通は豊臣秀吉の側近でした。一方、江は秀吉の側室・淀殿(よどどの)の妹で、秀吉の養女として徳川秀忠に嫁いでおり、江に仕える者として秀吉側近の養女である福はふさわしかった、というわけです。つまり福は最初、竹千代の乳母ではなく、奥女中の一人として江戸城に入ったことになります。
家光の本当の母親は誰なのか
さて、竹千代誕生の2年後、江は国松(くにまつ)を出産。竹千代の弟です。幼い頃、内気な竹千代に対して国松は活発で、秀忠も江も弟の国松を溺愛しました。特に江は国松を後継者に望んだようで、悲観した竹千代は12歳の時に自殺未遂をし、乳母の福は見かねて駿府(すんぷ)城(静岡市)にいた大御所の家康に直訴して、家康が竹千代を将軍後継者であると公認した、という話はよく知られています。それにしても母親の江は、なぜ竹千代ではなく国松を溺愛したのか。
これについて歴史学者の福田千鶴氏は、次のように指摘します。国松は江の実の子だが、竹千代は実の子ではない。竹千代の実の母は、乳母の春日局こと福である、と。その裏付けとして、竹千代の正確な誕生日がなぜか公表されなかったこと、また誕生日から逆算すると時期的に江は上方にいたため、竹千代を身ごもることができないこと、当時の慣習として、正室に仕える奥女中に将軍の手がついても、生まれた子は正室の子として扱われたことがあり、何より江戸城紅葉山(もみじやま)文庫に伝わる記録「東照宮御文(おふみ)の写し」には、次のように記されています。
「秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也 左大臣
同御二男 国松君 御腹 御台所 駿河大納言忠長(ただなが)公也 従二位」
家光の「光」の字
竹千代こと徳川家光が、春日局の子であるならば、家光は明智光秀の重臣斎藤利三の孫であり、明智の血が流れている可能性も高くなります。一方、弟の国松こと忠長の母は江。江の母は織田信長の妹・お市(いち)。つまり忠長には織田の血が流れています。
竹千代、国松の兄弟はほぼ同時期に元服し、諱(いみな)を与えられました。諱を選んだのは徳川家康のブレーンの一人、僧侶の以心崇伝(いしんすうでん)。それぞれの諱の由来について崇伝は何も語っていませんが、興味深い文字を選んでいます。
竹千代→「家光」 家は家康の家、徳川宗家の字。光は松平氏3代の信光(のぶみつ)から取ったと一般にいわれます。しかし、家光が春日局の子であるならば、話は違ってくるかもしれません。
国松→「忠長」 忠は秀忠の忠、長は信長からでしょうか? なお忠長の顔立ちは、信長に似ていたと伝わります。
春日局は、父親の主君・明智光秀を尊敬していました。京都妙心寺(みょうしんじ)に「明智風呂」という蒸し風呂があります。光秀の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うためにつくられたもので、毎年、光秀の命日に使われました。その風呂に用いる鐘を吊った鐘楼(しょうろう)を、春日局がわざわざ寄進しています。そんな春日局ですから、家光の光の字も、表向きは遠い松平の先祖から取ったことにしても、実際は明智光秀に由来するととらえていたのではないでしょうか。そして、そんな春日局の光秀への思いを理解し、かつ巧みに利用したのが、天海ではなかったかと想像します。
天海の呪術
国家安康と神田明神
天海は僧侶ですが、仏教だけでなく神道や陰陽道にも通じていました。陰陽道では人の名前(本名、諱)を「呪(しゅ)」の一つとします。名前はその人のありようを決めるもので、またその扱いが本人に影響を与えると考えます。たとえば、豊臣家が築いた京都方広寺の鐘銘「国家安康(こっかあんこう) 君臣豊楽(くんしんほうらく)」。家康の名を安の字で断ち切り、豊臣を君主として楽しむという意味を込めた、という言いがかりをつけて、家康は強引に大坂の陣を起こしたと一般にはいわれます。しかし陰陽道では、名前を切るのは間違いなく「呪詛(じゅそ)」です。実際にこの文章を作った京都南禅寺(なんぜんじ)の長老清韓(せいかん)は、意図的なものであったことを認めています。
それほど名前が重要であると考えられていた当時、徳川家光の「光」の字も、明智一族ゆかりの春日局や天海が、光秀にあやかる意味で、後ろから手を回して以心崇伝に選ばせたのかもしれません。とはいえ春日局はともかく、なぜ明智にゆかりのない天海が、光秀にあやかろうとしたのか。私はそこに、天海の呪術的思惑が秘められていたのではと考えます。
鐘銘「国家安康 君臣豊楽」
たとえば江戸の鬼門封じとして、天海は寛永寺をつくり、京都の鬼門封じである比叡山に見立てました。さらに神田明神を鬼門のライン上に移築して、やはり鬼門封じにします。神田明神は平将門(たいらのまさかど)を祀りますが、将門といえば平安時代に関東で反乱を起こして討たれ、その首はさらされていた京都から江戸まで飛んで帰った伝説のある、強力な怨霊です。天海は神田明神を江戸の総鎮守(そうちんじゅ)とし、将門を神として崇(あが)めて無念を晴らすことで、その恐るべきパワーをプラスに転じて、江戸の守りに活用しました。こうしたアイデアは、天海の得意とするところでした。
鬼門を封じた神田明神(国土地理院地図を加工)
天下人・明智光秀
では、そんな天海の呪術から考えた場合、徳川家光の「光」の字にはどんな意味が込められていたのか。もちろん「光」の字は明智光秀を意味していたでしょう。そして家光が征夷大将軍となることで、明智光秀もまた疑似的に将軍として顕彰されました。美濃源氏出身の光秀の名が、謀叛人の汚名を払拭(ふっしょく)し、家光を通して名誉ある武家の棟梁(とうりょう)の名になったわけです。
さらに、「光」の字の影響はそれだけではありません。当時、将軍は「偏諱(へんき)」といって、求められれば名前の一字を大名に与えます。大名は将軍より一字を頂戴して、徳川への忠誠心を示しました。家光の場合は「光」の字です。その結果、水戸黄門(みとこうもん)として有名な徳川光圀(みつくに)をはじめ伊達、前田、池田、浅野、毛利、黒田、島津など全国20の公家や大名がこぞって「光」の字を用いました。まさに光秀の光の字に全国の大名が従ったわけで、いわば家光を通じて光秀は天下人になったといえます。光秀にとって、これ以上ない名誉回復であり、顕彰でした。
偏諱を受けた公家・大名
日光と明智光秀
天海が光秀を顕彰するのは、もちろん目的がありました。平将門のパワーを江戸の鬼門封じに用いたように、明智光秀という悲運の名将の無念を晴らし、そのパワーをプラスに転じて、活用しようとしたのでしょう。私は、それは日光においてではなかったかと考えます。
徳川家康は死後、いったん久能山に葬られ、その後、日光に廟所がつくられました。日光東照宮です。なぜ日光なのかは諸説ありますが、一言でいえば江戸の将軍を守るためのパワースポットになるからです。よくいわれるのは、家康の遺体を久能山から霊峰富士山を挟む位置にある日光に移すことで、不死(富士)の力を家康に付与した。また日光は江戸のほぼ真北にあたり、天海は東照宮に祀られる家康を、宇宙を司(つかさど)る北極星になぞらえて、江戸の守護神と位置づけた、とされます。
日光東照宮と北極星
さらに日光には、明智平(あけちだいら)という地名があります。元は明地平であったのを、天海が「明智の名を残す」と語って明智平に改めたといわれ、天海=明智光秀説の根拠の一つとなりました。私はこれもまた、天海が得意とする名前を用いた呪術ではないかと考えます。すなわち…。
明智平
天海は光秀の名を日光明智平に暗号のように潜ませ、日光と結びつけることで、光秀のパワーが、徳川家にとって最も重要な東照宮の鎮座する日光を守るよう仕向けたのではないか。そして、こうした天海の明智光秀にこだわった呪術が、天海が光秀その人と幕府内で語られる噂の元になったのではないか、と私は考えます。
天海が第27代住職となった川越喜多院には、かつて江戸城内にあった建物が現存しています。寛永15年(1638)に起きた火災で喜多院の建物が焼失したため、将軍家光の命により、客殿・書院・庫裏(くり)が移築されました。そのうち客殿は「家光誕生の間」、隣接する書院は「春日局化粧の間」といわれます。家光は記念すべき「誕生の間」と生母の「化粧の間」を、天海に与えました。明智の血を引くともいわれる光秀の重臣の娘福と、その息子家光。そして明智光秀を顕彰し、そのパワーを、徳川家の守護のために活用しようとした天海。光秀を軸にした3人の結びつきの強さが、のちに「天海=明智光秀説」を生み出したのかもしれません。
本記事の内容は仮説の部分も多く、「天海はやはり明智光秀だった」という見方も含めて、他の解釈も十分に可能だろうと思います。皆さんは、どうお考えになるでしょうか。
参考文献:福田千鶴『春日局』(ミネルヴァ書房)、大野富次『明智光秀は天海上人だった!』(知道出版)、『異界 陰陽道』(徳間書店)他