2024年大河ドラマ『光る君へ』は、平安時代中期に『源氏物語』を生んだ紫式部の生涯が描かれます。65代天皇・花山天皇(かざんてんのう)役は、演技派の本郷奏多が演じると発表されました。エキセントリックな逸話があり、数奇な運命を辿った花山天皇とは、どのような人物だったのでしょう? その人生を追ってみたいと思います。
寵愛していた女御(にょうご)の死去
安和(あんな)元(968)年に生まれた花山天皇は、冷泉天皇の第一皇子でした。母親の懐子(かいし)の父で、摂政(せっしょう)・太政大臣であった藤原伊尹(ふじわらのこれただ)の後押しを受けて、生後10か月ほどで皇太子になります。その後伊尹は亡くなってしまいますが、永観2(984)年に円融天皇の譲位を受けて17歳で即位。なお即位にあたっては、円融天皇の第一皇子・懐仁(やすひと)親王が立太子されました。
花山天皇には多くの女御(にょうご・高い身分の女官。天皇の寝所に侍した)がいましたが、なかでも寵愛したのは、藤原忯子(よしこ)※1でした。その後忯子は懐妊し、2人は喜びに包まれますが、悲劇は突然やってきます。寛和(かんな)元(985)年、7月に花山天皇の子どもを宿したまま、忯子は帰らぬ人となってしまったのです。わずか17歳で亡くなった愛しい人。18歳の若き天皇の嘆きは深く、政務への意欲も失い「いっそ出家したい」と周囲にもらすようになります。
花山天皇と忯子のロマンスは、『源氏物語』で描かれた桐壺(きりつぼ)帝と桐壺更衣(きりつぼのこうい)の悲恋※2のモデルではないかとも言われています。
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仕組まれた衝撃的な退位
悲しみに暮れる花山天皇でしたが、そんな心のすきをついて失脚させようという動きがあることには、全く気づいていませんでした。元々祖父の伊尹という後ろ盾がなくなっていた天皇の地位は、不安定だったといえます。関白※3には先代に引き続き藤原頼忠(よりただ)が務めていましたが、花山天皇の母方の叔父・藤原義懐(よしちか)、天皇の乳母子(めのとご、乳母の子)の藤原惟成(これしげ)が政治の実権を握っていました。2人は永観2(985)年の荘園整理令(しょうえんせいりれい)※4の発布、物価統制令、貨幣流通の活性化などに取り組みましたが、革新的な政策は、頼忠との対立を生んでいました。
さらに外孫の懐仁親王(後の一条天皇)を早く即位させたい藤原兼家(かねいえ)が、ひそかに陰謀をめぐらせていました。忯子の死去で落ち込んでいる花山天皇を出家、退位させようと目論み、息子を使った大胆な行動に出ます。蔵人(くろうど)※5として仕えていた藤原道兼(みちかね・兼家の三男)に、「出家されるのであれば、私もお供します」と言わせて、天皇に出家を決意させたのです。
寛和2(986)年6月23日夜、花山天皇はひそかに清涼殿を出て、東山の元慶寺(がんぎょうじ)に入って出家します。途中で花山天皇は迷う態度を見せますが、道兼は「後戻りはできません」と言って、決行させました。兼家は同時に他の息子の道隆や道綱に命じて、三種の神器を皇太子のもとへ運び入れるという周到さでした。
共に出家すると言った道兼は寺を抜け出したまま戻ってこず、花山天皇はだまされたと知りますが、後の祭りでした。出家にともない花山天皇は懐仁親王に譲位し、政治的な敗北を悟った側近の義懐と惟成も、共に出家。頼忠は関白を辞任し、在位2年ほどの花山天皇の時代は、こうして終わりを迎えます。この事件は『寛和の変』とも呼ばれ、歴史物語『大鏡(おおかがみ)』※6にも記されています。
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若くして修行の道へ進むも、不満を抱く日々
唐突に出家を遂げてしまった若き天皇は、花山法皇となり、修行に励む日々を送ります。今も霊場として知られている熊野三山での修行は、約1年にも及ぶ真剣なものであったようです。比叡山延暦寺にも出向いて修行をしていたようで、しばらくの間は心の平安を得ていました。
ところが、花山法皇の修行の自由は、次第に制限されるようになります。理由は即位した時には何もわからない7歳の子どもだった一条天皇が、目を光らせるようになったからです。熊野三山に再度参詣したいと、花山法皇は一条天皇に訴えますが、その願いは叶えられませんでした。自らも希望したとはいえ、陥れられて出家した花山法皇としては、一条天皇を恨む気持ちが芽生えたことでしょう。
世間が眉をひそめる無軌道な恋愛騒動
京に腰を落ち着けた花山法皇は、出家の理由だった忯子の菩提を弔うどころか、とんでもない行動を起こします。忯子の面影を求めたのか、彼女の妹の家へ通うようになったのです。これだけならまだしも、他にも複数の愛人を作りました。母方の叔母や乳母子の中務(なかつかさ)にも手を出し、あげくは中務の娘にまで……。実の母娘でありながら、ほとんど同じ時期に、それぞれ法皇の子どもを出産というスキャンダラスな状態でした。
元々即位式の最中に女官と交わった、狭い庭で馬を乗り回したなどの、奇行が伝えられる人物ではありました。愛する忯子の死で絶望し、その後仏道へ入って落ち着いていたのに、行動を制限される鬱屈が破天荒な恋愛へ結びついてしまったのでしょうか。この時期は、花山法皇の従者たちも粗暴な行動を繰り返していて、一条天皇の心配の種となっていました。
花山法皇が度々訴えた熊野再訪を、一条天皇が却下していたのには、理由がありました。「従者の数も多いだろうし、行く先々で応対する庶民の労力も甚だしい」というもの。おまけに『長徳の変』のきっかけとなった奉射事件※7や賀茂祭で従者に乱暴狼藉を働かせ、検非違使が出動する騒ぎまで引き起こす先帝は、今や要注意人物でした。
協力者を得て穏やかな日々へ
人々から白い目で見られるようになってしまった花山法皇でしたが、頼りになる相談役を得てからは、徐々に落ち着きを取り戻します。その人物とは、賢人として知られる藤原実資(さねすけ)※8です。法皇が花山天皇だった頃、30歳ほどの年齢で蔵人頭(くろうどのとう)の任にあった実資とは、互いに信頼関係を築いていませんでした。関白の頼忠を疎外していた当時の天皇にとって、その甥である実資は、わずらわしい存在だったのでしょう。
出家して国政との縁が切れた花山法皇は、実資に対して好意的な興味を持つようになります。その理由は、兼家が一条天皇の摂政となって権力を握ってからは、おもねる人が多かったのに、実資だけは距離を取っていたからです。実資としても、花山法皇を見捨てることができない訳がありました。妻の婉子女王 (えんしじょおう)は、かつて花山天皇の女御の1人だったのです。愛する妻と縁があり、天皇だった人物が助けを求めているのに、知らぬ顔はできなかったのでしょう。
実資が朝廷との橋渡しとなる相談役となってからは、花山法皇の恋愛騒動もなくなり、従者たちの粗暴な行動も話題に上がらなくなりました。
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後世に伝わる和歌の才能
花山法皇は政治の世界では活躍することができませんでしたが、絵画や和歌など芸術面で優れた能力を発揮しました。特に和歌の腕前は突出していて、『拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)』※9の撰者は花山法皇ではないかと言われています。
世の中の うきもつらきも慰めて 花のさかりはうれしかりけり
(世の中の憂鬱なこともつらいことも慰めてくれる桜の盛りはとても嬉しいことだな)『玉葉集』巻十四
この和歌をはじめ花山法皇が作った作品は、120余首も残されています。寛弘5(1008)年、病により41歳で崩御。波乱の生涯を終えました。生きる時代や境遇が違っていたら、天才肌の芸術家として、もっと人生を謳歌していたかもしれませんね。
参考書籍:『天皇たちの孤独』繁田信一著 角川学芸出版、『紫式部と藤原道長』中央公論社、『紫式部と源氏物語』メディアソフト、『日本大百科全書』小学館
アイキャッチ:「月百姿 花山寺の月」大蘇(月岡)芳年 明治23(1890)年 国立国会図書館デジタルコレクションより