藤原為時(ふじわらのためとき)は平安時代の文人貴族で、『源氏物語』を執筆した紫式部の父。紫式部の教養の深さは、漢籍(中国大陸で書かれた漢文の書物)を学び、漢詩人としても優れていた為時の教育によるものでした。
2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、そんな学者肌の父親を岸谷五朗さんが演じます。
藤原為時の家系
為時は摂関家につながる名門・藤原北家の流れをくむ貴族です。その家系図を遡ると、人臣として初めて摂政をつとめた藤原良房(よしふさ)の弟・藤原良門(よしかど)へと辿り着きます。
良門から3代目で、為時の祖父にあたる藤原兼輔(かねすけ)は中納言まで出世をし、醍醐天皇の寵臣として活躍しました。また三十六歌仙の一人にも数えられており、百人一首にも歌が収録されています。
しかし、公卿(くぎょう、三位以上の上級貴族)となった祖父の兼輔にくらべると、為時の父である藤原雅正(まさただ)は、それほど出世をしていません。
為時の兄たちは地方官である国司(こくし)をつとめており、一家はいわゆる「受領(ずりょう)階級(現代の知事に近い)」と呼ばれる、中級貴族だったことが分かります。
花山天皇の秘書役に抜擢される
官吏になることを目指し、大学で学んでいた為時に訪れたチャンスは、冷泉天皇の第一皇子である師貞(もろさだ)親王の教育係に抜擢されたことでした。
永観2(984)年に師貞親王が花山天皇として即位すると、為時は朝廷の人事などを司る式部省の役人、式部丞(しきぶのじょう)に任じられ、また蔵人(くろうど)として花山天皇の秘書役も兼任しています。
このとき為時は30代後半だったと推測され、『後拾遺和歌集』には、遅咲きの出世を喜ぶ為時の歌が収録されています。
「遅れても 咲くべき花は 咲きにけり 身を限りとも 思ひけるかな」
もしもこのまま、花山天皇に仕え続けることができていたなら、娘の紫式部の運命はきっと大きく変わっていたでしょう。
しかし、安定した暮らしは2年も続きませんでした。
寛和の変で失職、紫式部の人生にも影が差す
寛和2(986)年、19歳の花山天皇が突然退位して、出家するという事件が起こります。次に即位した一条天皇はまだ7歳だったため、母方の祖父である藤原兼家(かねいえ)が摂政となって、権力を掌握しました。花山天皇を出家へと誘導したのは、兼家の息子の藤原道兼(みちかね)です。
「寛和(かんな)の変」と呼ばれるこの政変に伴い、官吏の入れ替えが行われ、為時は失職します。そして、その後10年もの間、官職に就くことができませんでした。
紫式部は10代後半~20代前半という、当時の女性たちが結婚へと縁づいてゆく時期を、家にこもって本を読みながら寂しく過ごすことになります。
『紫式部日記』には「書(ふみ、漢籍のこと)に心入れたる親」として為時が登場します。紫式部曰く「学問に熱心な父は、漢籍を読み聞かせて弟に学ばせようとしていましたが、弟は読み取るのが遅かったり、忘れてしまったりするのです。私のほうがすらすらとできるので、父はよく『お前が男だったらよかったのに』と嘆いていらっしゃいました」とのこと。きっと、息子に出世の夢を託していたのでしょう。
しかし、嘆くことはありません。紫式部は父から受け継いだ文才を発揮して、歴史に名を残しました。
もしかしたら父の失職という逆境の中でも、本を読んで教養を深めながら『源氏物語』創作への原動力を育んでいったのかもしれません。
為時も書いた求職・昇進願い「申文」
平安時代、官職につけなかった貴族はどうやって暮らしていたのでしょうか。為時のような中級貴族の場合は、上級貴族に雇われて、家の中の仕事を取り仕切る家宰(かさい)のような立場で働くこともあったようです。
そして、官職を得るために「申文(もうしぶみ)」を書いて、内裏へ届けることもあったのだそう。
申文とは、位が下の者から上の者へ差し出す上申書のことをいいます。申文は、平安時代の貴族が求職や昇進を願い出る手段でもありました。
自身の経歴と、就きたい役職などを書いた申文を、内裏につとめる女房などに託して、天皇または高位の太政官などに渡してもらえるように頼んだといいます。
天皇の心も動かした、為時の漢詩
平安時代後期の説話集『今昔物語』などに、為時が一条天皇に申文を送ったエピソードが残されています。
今は昔、藤原為時という人がいた。一条天皇の御代(みよ)に国司になりたいと願い出たが、欠員がなく任命されなかった。為時は文才のある人だったので、翌年の春の除目(じもく、人事)に際し、内侍(ないし、後宮につとめる女官)を介して天皇へ文を奉った。その中に次のような句があった。
苦学寒夜紅涙霑襟 除目後朝蒼天在眼
(苦学の寒夜、紅涙が襟をうるおす 除目の後朝〈こうちょう〉、蒼天眼〈まなこ〉にあり)
『今昔物語』より
夜と朝、紅と蒼の対句表現が印象的な漢詩です。
蒼天には、青空という意味のほかに、天帝という意味があります。
「寒い夜にも耐えて勉学に励んだのに、希望する官職に就くことができず、血の赤い涙が襟を濡らしています。人事の修正があれば、青く晴れた空(天皇のこと)に深く感謝し、さらなる忠勤を誓います」
為時は切々と、こう訴えかけたのです。
今昔物語には、内侍は一条天皇に文を届けようとしたものの、渡すタイミングがなく、代わりに藤原道長(みちなが)が読んだと記されています。この詩に目を留めた道長の手を経由して、文は天皇の元へと届き、人事の修正が行われました。
一説によると、一条天皇は為時の漢詩に心を揺さぶられ、夜も眠れないほどだったと伝えられています。
受領国司として、紫式部とともに越前の国へ
地方官である国司が赴任する国は、大国、上国(じょうこく)、中国(ちゅうごく)、下国(げこく)の4つのランクに分かれていました。
為時は最初、下国の淡路守に任命されましたが、これを不服として天皇に上記の文を送り、大国の越前守に変更されています。守(かみ)というのは国司の長官のことを指し、「国司を受領する」と言ったことから、受領とも呼ばれました。
こうして長徳2(996)年、為時は娘の紫式部を伴って、越前国(現在の福井県北部)へと赴任するのです。
このとき、ちょうど日本海側には宋からの漂着者が滞在していました。越前守への変更は、為時の漢詩に道長や一条天皇が感動したというだけでなく、漢文に秀でた為時であれば、渡来者にも適切な対応ができるだろうという判断だったとする見方もあります。
道長も呆れた学者肌
為時の人柄はあまり伝えられていませんが、紫式部の日記には後年、道長が為時を宴に呼んだものの、さっさと帰ってしまったというエピソードが記されています。
「天皇も臨席されるというのに、どうしてそなたの父は伺候(しこう)もせずに退出してしまうのだ。ひねくれものだ」。酔った道長はそう紫式部に文句をつけました。
古今和歌集によれば、越前守になれたのは道長の口利きがあったからこそ。だからといって為時は、道長に愛想よくふるまえるタイプではなかったことがうかがえます。
寛和の変で失職後、為時がなかなか官職につけなかったのも、実直な学者肌で、あまり社交的ではなかったせいなのかもしれません。
しかし、文人(学問を修め、文章に秀でた人)としては一流であり、作家・紫式部は、この父に育てられたからこそ、誕生したに違いないのです。
アイキャッチ:「源氏物語絵色紙帖 御行詞阿野寛顕」 出典:ColBaseより一部をトリミング
参考書籍:
『人物叢書 紫式部』著:今井源衛(吉川弘文館)
『人と思想 紫式部』著:沢田正子(清水書院)
『紫式部の父親たち』著:繁田信一(笠間書院)
『日本古典文学全集 紫式部日記』(小学館)
『今昔物語集 本朝世俗篇』(講談社)
『平安大辞典』(朝日新聞社)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)