2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、藤原道長の異母兄・藤原道綱(みちつな)を溺愛する母を、財前直見さんが演じています。道綱母といえば、夫・藤原兼家との結婚生活を赤裸々に書き綴った『蜻蛉(かげろう)日記』の作者としても有名です。
『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母ってどんな人?
藤原道綱母は、平安時代中期に陸奥守、伊勢守などの国司(こくし/諸国の政務を担う地方官のこと)を歴任した藤原倫寧(ともやす)の娘です。「本朝三美人」に数えられるほどの器量よしで知られ、三十六歌仙に名を連ねる和歌の名手でもありました。
ちなみに、本朝三美人の「本朝(ほんちょう)」とは「我が国」という意味ですが、日本国内の三美人はこの他にもいくつか種類があり、調べるとおもしろいです!
19歳頃に兼家と結婚。天暦9(955)年に兼家の2男にあたる道綱を出産したことから、道綱母と呼ばれています。残念ながら、本名は伝えられていません。
夫の兼家には、道綱母と結婚する前から連れ添う、時姫という妻がいました。さらに次々と新しい女性が現れ、道綱母はずっと、夫の足が途絶える不安に心を乱され続けます。
道綱母がそんな夫との関係を清算したのは、結婚から20年になろうという天延元(973)年のこと。今を時めく大納言に出世をした兼家は、数年前から時姫と暮らし始めていました。かといって、身をかためたというわけでもなく、近江(おうみ)という別の女性の元にも、足繁く通っているようです。
自分の家からは、足が遠のくばかりだというのに……。
道綱母は苦しみながらも、夫が簡単には足を運べない郊外へと引っ越すことで、長く続いた関係に自ら終止符を打ったのです。
平安時代、日記は人に読まれるものだった
「かくありし時すぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで世にふる人ありけり」
(時をむなしく過ごして、とても頼りなく、よりどころなく暮らしている人がいました)
道綱母は昔語りをするかのように、自らの結婚生活を書きはじめます。
「とても身分の高い男性との結婚生活、その真相を知りたいのなら、この日記を参考にして欲しいと思います。遠い昔に過ぎ去った日々のことで、おぼろげな記憶を頼りにする部分も多くなってしまいましたが……」
プライベートな日記を読むのはタブーという気もしますが、平安時代の貴族は、子孫などに書き残す記録として日記を残していたそうです。
『蜻蛉日記』は人に読まれることを想定して書かれた日記スタイルの文学であり、清少納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』にも大きな影響を与えたといわれています。
『蜻蛉日記』の内容は?
『蜻蛉日記』は上・中・下巻からなる長編ですが、上巻の出だし部分からいくつかのエピソードをご紹介します。
求婚は直球ストレート
ちなみに道綱母の結婚相手である兼家は、藤原摂関家の3男に生まれ、かなり強引な手で一条天皇の摂政にまで上りつめた人物。恋愛ではちょっとがさつというか、あまりきめ細やかなタイプではなかったようです。
道綱母は結婚前を振り返って「歌の贈答などは、あっけないものでした。そもそもしかるべき伝手(つて)を辿って求婚の打診をするべきところ、(兼家殿は)父に直接、求婚をほのめかしたのです。父は恐れ多いことですと言ってお断りしたのですが、一度お会いしたいという恋文が届きました。恋文といっても適当な紙に、無造作に書いたような文字で、これが本当に求婚の手紙なのかしらと思ったものです」と暴露しています。
和歌が上手なことで評判だった道綱母にとって、兼家の恋文はちょっと物足りないものだったのかもしれません。
そうはいっても貴族としては格上の、摂関家の御曹司からの求婚に、道綱母の一家は総出で「返事はどうしよう」と大騒ぎをしています。
求婚にはすぐになびかず、最初はそっけなくするのが当時のセオリーでした。道綱母も兼家からの手紙に返事を書いたり書かなかったり。あえて直筆の返事を送らずに、女房に代筆させたりしています。
兼家「いづれとも わかぬ心は 添へたれど こたびはさきに 見ぬ人のがり」
(代筆でもお返事をいただけるのはうれしいけれど、まだ自筆の文字を見たことのない方にあてて、この文を送ります)
道綱母は、この手紙の返事もやっぱり代筆ですませたそうですよ。
3日続けて男が通えば、結婚成立
そんなふうに手紙を交わし合って、「何事か」があった翌朝、兼家からの歌です。
兼家「夕ぐれの ながれくるまを 待つほどに 涙おほいの 川とこそなれ」
(あなたに会える夕ぐれを待っていると、涙が川のようにこぼれてきます)
無骨な求婚から一転、ずいぶんとセンチメンタル。というのもこれは男女が一夜を共にした翌朝に送る、後朝(きぬぎぬ)の歌。つまり情事の後で、別れを惜しんで愛をささやいているのです。
そして3日目の朝。
兼家「しののめに おきける空は 思ほえで あやしく霧と 消えかへりつる」
(夜明けに起きてあなたと別れて帰るのは、この身が朝の霧と消えてしまうようにつらいです)
道綱母も「あなたがすぐに消えてしまう露だというなら、その露を頼りにする私は、なんだというのでしょう」という意味の、切ない歌を返しています。
3日目の朝というのがポイントです。男性が女性の元へ3日続けて通い、夜を共にしたということは、すなわち結婚が成立したことを意味していました。
求婚時代にはそっけない返事ばかりしていた女性が、夜を共にしたあとは男性にすがってみせるのも、ひとつの様式だったそうですよ。ツンデレは古来尊し、ということでしょうか。
妊娠出産と同時に、新しい女の影
ところが、幸せな新婚生活はそう長く続きませんでした。息子の道綱が生まれたばかりだというのに、夫ときたら他の女に宛てた手紙を、うっかり文箱に置いて帰っていくではありませんか。
道綱母「うたがはし ほかに渡せる ふみ見れば ここやとだえに ならむとすらむ」
(ほかの方に宛てた恋文を見つけてしまって、こちらにはもういらっしゃるおつもりがないのだわと疑ってしまいます)
そんなことを思っていたら、案の定、夫が3日続けて姿を見せません。兼家の新しい恋は、結婚へと進んでしまったようです。
道綱母は使用人に夫の後をつけさせて、相手が町小路(まちのこうじ)に住んでいる女であることを突き止めました。
もう我慢できない!拒絶した夜
それから2~3日後のこと。夜明け前に門をたたく音がします。
「久しぶりに夫がやってきたのだわ」そう思いながらも、道綱母はやりきれない思いがして、門を開けることができません。
そのうちに、夫はよそへと行ってしまいました。
翌朝になっても、道綱母の心はおさまりません。
道綱母「なげきつつ ひとり寝る夜の あくるまは いかに久しき ものとかは知る」
(あなたがよそへ行ってしまったと悲しみながら一人で寝る夜は、夜明けまでがどんなに長く感じられることか、お分かりにはならないでしょうね)
と、いつもよりもかしこまった手紙にしたためて、そこに心変わりをあてこするかのように、色の褪せてきた菊の花を挿し、夫に届けました。
夫の返事は「げにげに(うんうん、そうだね)」。
門を開けてもらえるまで、いくらでも待とうと思っていたんだけどね……としどろもどろです。
道綱母が夫をやりこめたこの歌は、百人一首にも収録されています。
道綱母は、はかなくない
道綱母と夫の関係は、この後も山あり谷あり続くのですが、印象的なシーンをもうひとつだけ。
康保3(966)年、道綱母31歳頃のできごとです。
兼家が道綱母の家を訪れていたときに急に苦しみだし、もうこのまま亡くなるのではという容態で自邸に戻って行ったことがありました。
その十数日後、回復の兆しが見えた夫から「夜にうちにこっそりと、わたしに会いに来て欲しい」という便りが届きます。
当時の感覚では、夫婦とはいえ女性が男性の家を訪ねることは、普通ではありませんでした。
「もしも人に見られたら」そう不安に思いながらも夫のことが気がかりで、道綱母は夜、家を訪ねます。夜明けには帰らなくてはと思いながらも、別れがたく昼になってしまって……。
人目を忍んで会うことを求められたひとときに、道綱母は夫からのあふれる愛情を感じ取っています。
道綱母は、夫の心変わりを嘆くばかりの弱い女性ではありませんでした。むしろ自分の価値観をしっかりと持ち、時には常識を超えた行動さえできる、強い女性だったのです。
技巧を凝らした和歌を得意としていた人が、揺れる心を隠さずに日記に書いたその背景には、よほどの決意があったのではないでしょうか。
こんなにも夫を愛したのに、夫からも確かに愛されていたはずなのに、なぜ自らを、蜻蛉のようにはかない存在だと感じなくてはならなかったのか。
道綱母の胸の内をもっと知りたい方は、ぜひ『蜻蛉日記』を開いてみてください。
アイキャッチ:『小倉百人一首』画:菱川師宣 出典:国立国会図書館デジタルコレクションより、一部をトリミング
参考書籍:
『日本古典文学全集 蜻蛉日記』(小学館)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)