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2024.04.02

頭中将・藤原公任は出世コースに乗れるのか? 娘2人を亡くした波乱の晩年

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2024年大河ドラマ『光る君へ』で、町田啓太(まちだ けいた)さんが演じ、登場シーンからお茶の間の乙女(概念)のハートを掻っ攫った藤原公任(ふじわらの きんとう)。ドラマでは道長と仲の良い友人グループの1人としてその存在感を放っています。しかし、公式サイトの説明では「出世レースが進むにつれ関係が変化する」とも書かれていて、道長とのこれからの関係にも目が離せません。

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そんな藤原公任は、実際はどんな人物だったのでしょうか。

藤原公任の半生


藤原公任は藤原摂関家の嫡流ともいえる小野宮(おののみや)流の家系で、曾祖母が宇多天皇の皇女、母も醍醐天皇の孫娘にあたり、さらに自身の妻も村上天皇の孫娘でした。そして姉の遵子(じゅんし/のぶこ)が円融(えんゆう)天皇の中宮となっています。系図からあふれる高貴さ!!

藤原公任の簡略系図

父・頼忠(よりただ)は関白。公任は学才もあり将来を期待されて、順調に出世していきます。が……寛和2(986)年、兼家一家が総出で花山天皇を騙して出家させ、一条天皇を即位させた寛和(かんな)の変で、公任を取り巻く環境は一転します。

▼そのあたりについての詳細はこちらの記事で。
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父・頼忠は先々代の円融天皇、先代の花山天皇の関白でしたが、一条天皇の即位によって権力の座は兼家のものとなってしまいました。兼家たちの縁者が次々と出世している中、公任の地位は頭中将(とうのちゅうじょう)で停滞してしまいました。

その後、兼家の嫡男・道隆(みちたか)が関白となりますが、公任は兼家の次男・道兼(みちかね)に接近します。というのは、道兼は兄である道隆に強く反発していたからです。道隆の死後、道兼が関白となった時はまさに目論見通りとガッツポーズをしたかもしれません。しかしその数日後に道兼が急死して、道長が権力の座を継ぐことになります。

そこで公任は道長に接近し、学問分野で道長をサポートするようになりました。ドラマでは「自分の娘を天皇に入内(じゅだい)させるのが男の夢だ」と語っていましたが、実際は娘を天皇に入内させることはできませんでした。けれど娘を道長の息子の正室にすることに成功し、これを自慢話としていたそうです。

道長が引退し、嫡男の頼通(よりみち)に家督を譲った後も、精力的に活動しています。しかし政治面では出世は見込めず、晩年には二人の娘を若くして亡くしてしまったことに、出仕をやめてしまうほどショックを受けたようで、万寿3(1026)年、満60歳で出家しました。

藤原公任の才能


出世レースでは、道長に大きく後れをとってしまった公任ですが、ならばとばかりに教養面ではしっかりと存在感をしめし、道長にも一目おかれていました。有名なエピソードに「三舟の才」というものがあります。

これは、平安中期を描いた歴史物語『大鏡(おおかがみ)』に描かれたもので、道長がある日三隻の舟を大堰(おおい)川に浮かべました。漢詩の舟、管絃の舟、和歌の舟と銘打って、それぞれの舟に各分野の名人を乗せました。

そこに、公任がやってきたので「公任はどの船に乗るのだ?」と尋ねると、公任は「では和歌の舟に」と言って、即興で和歌を詠みました。

小倉山 嵐の風の寒ければ
 紅葉の錦着ぬ人ぞなき

小倉山や嵐山から吹く風が寒いので、紅葉が散って人々の衣にかかった。紅葉模様の衣を着ていない人はいないようだ。

これに道長は絶賛したようです。しかし当の公任は「私に和歌と同じレベルに漢詩の才能があったら、もっと出世できたろうになぁ……」と思っていました。けれど同時に「道長殿が『どの船に乗る?』なんて聞いてきたということは、道長殿は私がどの分野も秀でていると思ってたのだろう。我ながらすごいなぁ」と、得意げになっていたようです。

ちょっと自惚れ屋なのは、やはり彼の性格なんでしょうね。

藤原公任と百人一首


そんな和歌の才能に秀でていた公任ですが、その和歌は後に百人一首にも採用されています。

滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
名こそ流れて なほ聞こえけれ

滝の音が聞こえなくなってからずいぶん経つけれど
ここには素晴らしい滝があったという話は、いつまでも話題に上がって、今でも聞こえてくるよ

先ほどの紅葉の衣の歌といい、その情景がパッと浮かぶのが流石の文才ですね。ちなみにこの歌に詠まれているのは、大覚寺にかつてあった滝です。歌の通り公任の時代には枯れてしまっていました。しかしこの歌が有名になったので「名古曽(なこそ)の滝」と呼ばれるようになり、まさに歌に詠まれた情景のまま現在も残っています。

藤原公任と紫式部


紫式部が宮中にいた頃に書いた『紫式部日記(むらさきしきぶにっき)』にも、公任が登場します。ある日酔っぱらった公任が紫式部の元を訪れて「ここに若紫(わかむらさき)はいないか?」と尋ねました。

若紫は、紫式部が書いた長編小説『源氏物語』に登場する人気の高いメインヒロインの1人です。それに対して紫式部は「光源氏のような人もいないのに、若紫がいるものですか」とスルーしたと日記に残しました。

安藤広重『源氏物語五十四帖 若紫』 国立国会図書館デジタルコレクション

……やっぱりリアルでも自惚れ屋なんですね。

藤原公任の魅力


政治レースではスタート時はとび抜けたけれども、途中の政変で道長に後れをとってしまい、出世の道も頭打ちになってしまった公任。その差を思い知り、娘たちを亡くしたことで出家しました。

公任が出家したことは都中に広まり多くの人が訪れ、先に出家していた道長も公任に法衣を贈りました。また公任とともに出世レースにしのぎを削っていた藤原斉信(ふじわらの ただのぶ)は出家した公任の元に訪れた時に、同じように娘を亡くしたものの出家の決心がつかないことを吐露し、二人で泣きながら会話をしたそうです。

自惚れ屋ではありますが、こういった人望あふれるエピソードもあり、どこか憎めない人物だったのかもしれませんね。

アイキャッチ画像:歌川国貞『百人一首絵抄 五十五番 大納言公任』 国立国会図書館デジタルコレクション

参考文献:
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
小町谷照彦『藤原公任』(角川ソフィア文庫)