赤染衛門(あかぞめえもん)は平安時代中期の歌人で、藤原道長の妻・源倫子(みなもとのりんし/のりこ)と、その娘の彰子(しょうし/あきこ)に仕えた女房(にょうぼう。貴族に仕える女性のこと)。2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、凰稀 かなめさんが演じています。
右衛門尉・赤染時用の実子ではなかった?出生の秘密
平安時代頃、宮中や貴族の家に仕える女房たちは、父親の官職などを通称としていました。赤染衛門というのは、父の赤染時用(あかぞめのときもち)が右衛門志(うえもんのさかん)、右衛門尉(うえもんのじょう)をつとめていたことからついた呼び名です。
しかし、赤染衛門の実の父親は三十六歌仙の一人で、「忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで」という歌が『百人一首』に収録されている平兼盛(たいらのかねもり)だったという説があります。赤染衛門の母は平兼盛と離婚して、赤染時用と再婚。その後まもなく娘を出産したので、平兼盛は生まれた子どもは自分の娘だと主張しました。しかし娘を手放したくなかった母は、赤染時用とは離婚前からの関係で、平兼盛の娘ではないと言い張ったそうです。
赤染衛門は赤染時用の娘として養育されましたが、血縁上は平兼盛の娘で、和歌の才能は実の父親譲りだったのだろうとも言われています。
赤染衛門の歌もまた、『百人一首』に収録されています。
「やすらはで 寝なましものを 小夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」
-ぐずぐずしないで寝てしまえばよかったわ。(あなたが来てくれると思っていたから)夜が更けて西に傾いていく月を眺めながら待っていたのよ-
(『小倉百人一首』より)
この歌は赤染衛門の女きょうだい(おそらく妹)と恋仲だった藤原道長の長兄・藤原道隆(みちたか)が、来ると期待させながら来なかった日の翌朝に、赤染衛門が代読して詠んだ歌と伝えられています。
赤染衛門、源倫子の教育係となる
赤染衛門の生年ははっきりとしていませんが、天延3(975)年頃に宇多天皇の孫にあたる源雅信(みなもとのまさのぶ)の屋敷に仕えはじめたと推測されています。おそらくは康保元(964)年生まれの姫君・源倫子よりもひと回り程度年上の、教育係兼お目付け係のような女房だったのでしょう。『赤染衛門集』には倫子の兄の源時叙(ときのぶ)から受け取ったという恋文の記録があり、若き御曹司があこがれるような、美しく聡明な女房像が浮かびます。
大原少将入道(源時叙)、童におはせし頃、秋、白き扇をおこせ給ふて
源時叙「白露の 置きてし秋の 色変へて 朽ち葉にいかで 深く染めまし」
赤染衛門「秋の色の 朽ち葉も知らず 白露の 置くにまかせて 心みやせん」
(『赤染衛門集』67、68より)
赤染衛門にはこの頃、秀才として出世が期待されていた文人・大江匡衡(おおえのまさひら)との縁談がありました。源時叙は白い扇に、この扇を朽ち葉色に染めたいという歌を添えて贈り「匡衡のものになってしまいそうなあなたを諦められない。今からでも自分の色に染まってほしい」と訴えています。赤染衛門は「朽ち葉色なんて知りません」と、御曹司からの求愛を袖にしてしまったようですね。
赤染衛門の恋と結婚
もちろん夫となる大江匡衡も、赤染衛門に熱烈な恋の歌を贈っています。
思ひかけたる人、数珠をおこせて
大江匡衡「恋わびて 忍びにいづる 涙こそ 手に貫ける 玉と見えけん」
赤染衛門「ちづらなる 涙の玉も 聞ゆるを 手に貫ける 数はいくらぞ」
(『赤染衛門集』57、58より)
「苦しいほどにあなたを思ってこぼした涙が、まるで数珠のように連なって見えました」という歌とともに数珠を贈ってよこした大江匡衡に、「千にも連なる涙と世間ではいうのに、数珠の珠の数くらいの涙がなんですか」と赤染衛門。思いかけたる人(恋い慕う人)という割に、つれない返事をしています。
「さがなき人思かけけり」ときくに、やがて言へり
大江匡衡「あら浪の うち寄らぬまに 住の江の 岸の松影 いかにして見ん」
赤染衛門「住の江の 岸のむら松 陰遠み 浪寄するかを 人は見きやは」
(『赤染衛門集』59、60より)
「よくない男が赤染衛門に言い寄っている」と聞いてすぐに言ってよこしたという歌には、「あら浪(別の男)が近づく前に、なんとかしてあなたに会いたい」という匡衡の焦りがにじみます。赤染衛門は「あら浪が寄るのを見た人なんて、本当にいるのかしら」。冷たく見えて「私にはあなたしかいませんよ」という意味も込められています。
方違(かたたが)へに来たる人の、宿直(とのい)物を出だしたれば つとめて言ひたる
大江匡衡「夜宿りの 朝(あした)の原の 女郎花(おみなえし) 移り香にてや 人はとがめん」
赤染衛門「宿かせば 床さへあやな 女郎花 いかで移れる 香とか答へん」
(『赤染衛門集』74、75より)
さあ、色っぽい展開になってきました。「方違え」というのは陰陽道で良くないとされる方角に行きたいときに、一度違う方角へ進むこと。それを言い訳にして大江匡衡は赤染衛門の局に泊まり、寝具を使ったので「あなたの香りが移って、人に怪しまれそうだ」という歌を翌朝に届けたのですね。赤染衛門の返事は「私の床にもあなたの香りが残っています。宿をお貸ししただけなのに、どうして香りが移ったのかしらと答えておくわ」。
二股三股?赤染衛門の本命は
ここで勤め先の御曹司、源時叙が再登場。
雨の降る夜、局に人のありしつとめて、大原少将入道(源時叙)の撫子(なでしこ)にさして
源時叙「撫子の 紅(くれない)深き 花の色に 今宵の雨に こさやまされる」
赤染衛門「雨水に 色はかへれど 紅の こさもまさらず 撫子の花」
(『赤染衛門集』76、77より)
撫子の花に添えて「昨夜は恋人が来ていたのですね。今朝のあなたは雨に濡れて紅の色を濃くしている撫子のように、ひときわ美しさを増していることでしょう」と源時叙。返事は「恋人はもう帰ったし、私はなにも変わっていません」。赤染衛門は前述した扇の色を変えたいという歌に「(源時叙が)童の頃に」と注釈を添えていましたが、童にしてはずいぶんと大人っぽい歌のやり取りです。はたして、2人の関係は源時叙の片思いだったのでしょうか、それとも……?
赤染衛門と大江匡衡、源時叙の三角関係かと思いきや。
実は赤染衛門には、他に相思相愛の恋人がいました。その人の名前は大江為基(おおえのためもと)、大江匡衡の従兄弟にあたる人物です。為基は病気がちで、それが理由だったのかは分かりませんが、2人の恋愛は結婚には至りませんでした。
大江為基が病と闘いながら、法華経の教えの一部『薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)』を書き写して赤染衛門に届けたことがありました。「この薬王品を私の形見として、後の世でも私をあなたの元へと導いてくれ」と言うのです。
これに赤染衛門は「後の世でも結ばれましょうという約束を、私たち前世でもいたしましたよね」という切ない歌を返しています。
赤染衛門「此(この)世より 後の世までと 契りつる 契りは先の 世にもしてけり」
(『赤染衛門集』13より)
三角関係か四角関係かは分かりませんが、赤染衛門の本命は大江為基だったのでしょう。2人の関係は(少なくとも親しげな歌のやり取りは)大江匡衡との結婚後も続いています。
それにしても結婚相手に恋人の従兄弟を選ぶとは、赤染衛門本人ではなく親や一族の意向が絡んでいたのでしょうか。
夫を助けるよき妻として評判に
赤染衛門は結婚後も住み込みで源雅信邸に仕えながら、夫・大江匡衡との間に生まれた子どもを養育していたようです。そこに夫が訪ねてくるというのが、2人の結婚のスタイル。しかし決して不仲だったわけではなく、赤染衛門は夫をよく支える妻としても評判でした。
文章博士(もんじょうはかせ)をつとめていた夫の仕事は、貴族が天皇に奏上するような重要な文書の代作です。藤原道長の父で、一条天皇の摂政だった藤原兼家(かねいえ)や、道長の兄の関白・藤原道隆が病に倒れたときの辞表も、大江匡衡が書いたとされています。藤原公任(きんとう)から中納言を辞すときの文書を頼まれたときには、赤染衛門が「高貴な祖先を持ちながら、厳しい境遇に身を沈めている」と内容を助言し、公任を喜ばせたというエピソードが残されています。
また、夫が尾張守(おわりのかみ)として現在の愛知県西部に赴任したときには、赤染衛門も同行し、夫が地方官の長として国を治めるのを助けました。
藤原彰子にも仕え、紫式部の同僚に!?
赤染衛門は藤原道長の長女で、一条天皇の中宮となった彰子にも仕えた女房です。『源氏物語』を執筆した紫式部も彰子に仕えていたので、2人は先輩・後輩、あるいは同僚の女房として交流があったかもしれません。
紫式部は赤染衛門について、日記の中で次のように書き残しています。
赤染衛門の歌は、格別に優れているとは言えませんが、品があって風情があります。歌人だからと万事に得意気に読み散らすようなことはなさらないけれど、評判になった歌は、ちょっとした時に詠んだ歌であっても、こちらが恥ずかしくなるような立派な詠みぶりです。
(『紫式部日記』より)
「和泉式部はとても才能のある人ですが、古歌の知識や歌作の理論などは、本当の歌詠みとは言えません」、「清少納言は利口ぶって漢字を書き散らしているけれど、よく見れば理解の足りないところがたくさんあります」と書かれているのに比べると、紫式部は赤染衛門の才能にも人柄にも、一目置いていたことが分かります。
『栄花物語』の編者は赤染衛門という説が有力
赤染衛門は、藤原道長が摂関政治で栄華を築いていくのを間近で見ていた女房の一人です。長久2(1041)年にひ孫の誕生を祝った歌があり、80代くらいまで長生きをしたと思われます。
その経歴と、申し分のない文章の才能から、藤原道長の死後に編纂された歴史物語『栄花物語』のうち、道長の栄華を中心に綴った正編の編者とみなされている人物でもあります。
日本の国史は『古事記』『日本書紀』にはじまって、『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』と続き、宇多天皇が編纂を命じた『日本三代実録』までがあります。『日本書紀』から『日本三代実録』までを、「六国史」と呼びます。
宇多天皇の御代から始まる『栄花物語』は、『大鏡』とともに、日本の歴史をつなぐ重要な資料となっています。
おすすめ書籍
和樂webで「美装のNippon」を連載中の、澤田瞳子先生の書籍『月ぞ流るる』の主人公は赤染衛門。スタッフもイッキ読みしてしまいました! おすすめです!
アイキャッチ:『栄花物語図屏風』出典:ColBaseより、一部をトリミング
参考書籍:
『赤染衛門集全釈』(風間書房)
『和歌文学大系20 賀茂保憲集/赤染衛門集/清少納言集/紫式部集/藤三位集』(明治書院)
『人物叢書 大江匡衡』(吉川弘文館)
『日本古典文学全集 紫式部日記』(小学館)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)
『小倉百人一首 百人一首の恋とうた』著:田辺聖子(ポプラ社)
※赤染衛門集に収録されている和歌の表記は『和歌文学大系20』から引用しました。