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6,7月号2024.05.01発売

永遠のふたり 白洲次郎と正子

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Culture
2024.05.03

湧き出る虫、引きちぎられた耳、血染めの布…ぞっとする日本のグロ怪談

この記事を書いた人

怪談と呼ばれる類の話はいつも理不尽だ。怪異(というのが現象であれ、化物であれ)はなんの前触れもなく人の前に現れ、人を巻きこみ、私たちは逃れる術をもたない。たとえ災いを避けることができたとしても、人間は生きているあいだは常に怪異から隠れるようにして生きなくてはならないのである。

もう一つ、生身で生きる人間が恐れているものが、痛みだ。それから、死。怪異は時に死を連れてくる。背筋は凍らなくても、体が縮こまるような痛くてグロい日本の怪談を紹介しよう。

執念尽きるまで湧き出る毛虫


あるところに武辺に名を得た侍がいた。息子の孫四郎はまだ12歳だったが、物静かで、よく学び、そのうえ容顔美麗なものだから周囲に期待を寄せられて育った。

孫四郎の美貌に心奪われた法師がいた。名は、宥快。法師であるにもかかわらず孫四郎を恋慕い、修業にも身が入らず、文を遣わし、人目もはばからず家の周りを徘徊していた。孫四郎は幼心に憐れと思ったのか、文を袂に隠して返事を遣わす術も知らずに物思いに沈んでいた。そんな法師の存在を侍(孫四郎の父)が許すはずもなかった。

やがて宥快は房に引きこもり、断食を始めた。宥快の身を案じた友人の僧が戸を叩くと、障子を開けて現れたのは両の目を血走らせ、白くなった髪を伸び放題にし、筋と骨を露わにした凄まじい姿の宥快だった。
「なんとも浅ましく、執心の深き事。ただでさえ人の生涯は迷いのおおいもの。狂気をとどめてよく考えてほしい。凡夫に終わるか聖者となるか、今が境目だぞ」
友の言葉に宥快は涙を流したが、侍への怨みは深かった。
「何度生まれ変わっても、あの男への怨みは消えないだろう。たとえ死んで剣の山に上っても悔いはないさ」

七日後、宥快が死んでいるのが発見された。その夜を境に、孫四郎は病に臥せ、亡くなった。孫四郎の臨終の際、天井からは「孫四郎殿、いざいざ」と宥快の声がしたという。

話はこれで終らない。
孫四郎の死から三十五日が過ぎた頃、侍の家に毛虫が湧くようになった。天井、戸、柱から、家中を拾って掃いて、堀に捨て、河に流しても虫が湧く。
日が経ち、毛虫はやがて蝶になった。蝶は人の顔にとまり、衣装にとまり、夜は燈火に集まり、食べ物に集まった。すべて宥快の亡魂によるものだった。侍はついに僧を呼び、弔ってもらうことにした。かくして毛虫は絶え、跡形もなく消えたという。亡魂はようやく浮かばれたのであった。(「狗張子」より)

引きちぎられた両耳


うん市、という名の男がひさびさに馴染みの尼寺へ顔をだすと、けいじゅんという名の弟子比丘尼(びくに)が挨拶にきて言った。「お久しぶりです。どうぞ、私どもの寮へおいでくさい」是非にと誘うのでついていくと、けいじゅんは戸を固く閉めて、寮の中にうん市を閉じこめてしまった。
うん市は抜けだそうと辺りを探るが出られない。そんなふうにして三日が過ぎた頃、偶然にも寺の者に助けられた。うん市が寺の者に事情を話すと、なんとけいじゅんは30日も前に死んでいるという。

けいじゅんを弔うため、そしてうん市への怨念を払うために、寺の者たちは集まって念仏を唱えた。するとどこからともなく、けいじゅんが現れてうん市の膝を枕に眠ってしまった。この隙にと寺の者はうん市を外へ送り出した。

それでも後ろから何か憑く者があるような気がする。うん市は道すがら寺に立ち寄り、長老にすがった。気の毒に思った長老はうん市の体中に経を書きつけると仏壇に立たせた。けいじゅんは仏壇のうん市をみつけると「ああ、彼は石になってしまった」と撫でまわした。しかし僧が経を書くのを忘れた耳をみつけると言った。「ああ、彼の切れ端がある」そうしてうん市の耳を引きちぎり、持ち帰ったという。(「曾呂里物語」)

死を招く化物


ある神社に「首の番」という恐ろしい化物がいた。
夕暮れ時である。一人の若侍が神社の前を通りかかった。常々、化物が出ると聞いていたから薄気味悪く思っていたところに、ちょうど後ろから男がやってきた。一緒なら心強い、そう思って同道を頼んだところ、男は快く引き受けてくれた。

「ところでこのあたりには、首の番という化物が棲んでいるそうですよ。あなたも聞いたことがあるでしょう」若侍が尋ねると、「その化物は、かようのものか」と連れの顔がまたたく間に変じた。眼は血のごとく赤く、額には角が一本生えて、朱色の顔に針金のような髪。口は耳まで裂けて、歯叩きする音は雷のよう。若侍は恐ろしさに気を失ってしまった。

眼を覚ました若侍は水を求めて家を探した。戸を叩くと、女性が出てきた。若侍が事情を話すと女は「それは恐ろしい目にあいましたね。その首の番は、かようなものか」とふたたび恐ろしい姿に変じたので、若侍はまた気を失ってしまった。今回もどうにか気をとりもどしたが、三日後には亡くなったという。(「諸国百物語」)

人の生き血で染めた生地


昔、仏法を習い伝えようと渡ってきた大師がひどい騒乱に巻きこまれ、逃げている最中に遥か山を越えたところで人家を見つけた。門の傍には男が立っていた。しばらくのあいだ匿ってほしい、大師が頼むと男は答えた。「ここは滅多に人のこない場所です。世が静まるまでここに留まるといい」

男について中へ入ると山によった所に一棟の家があった。しきりに人のうめく声がする。怪しんで覗くと、人が吊り下げられ、下の壷へと血が滴っている。また別のところを覗くと酷い顔色の瘦せ細った者たちが大勢臥せていた。大師は、その一人を抱き寄せて理由をたずねた。
「ここは纐纈城(こうけちじょう)と申します。ここへ来た者は、まず物言わぬ薬を飲まされ、次に太る薬を与えられます。その後、高く吊り下げられて、体中を刺し切られ、血を滴らせ、その地で纐纈(絞り染めのこと)を染めて売るのです。食べものの中に胡麻のように黒ずんだものがありますが、それは薬です。すすめられても食べないように。何か言われたら、言葉が分からないふりをなさい。その後、なんとしても逃げるように。ただ門は固く、容易く逃げることは叶いません」

しばらくすると城内の者が食べ物を運んできた。大師は教えられた通り、食べるふりをして捨てた。人が来て何か問いかけられたが何も言わなかった。そして人が立ち去ると、丑寅の方角で手を合わせて祈念した。すると大きな犬が現れて、大師の袖をくわえて外へとひき出してくれたという。(「宇治拾遺物語」)

死と怪談と江戸庶民

死者と生者の関係は、灰になっても終わらない。墓参りやお盆のように、人は一年のあいだに何度も故人と相まみえる機会がある。死者と生者の歴史をひも解くと、たとえば古代では墓を営まれることは(ごく限られた一部の人を除いて)なかったことがわかる。日本で死者との交流が大きく転換するのは、16世紀から17世紀頃のことだ。

魂が骨肉からするりと離れた古代とは異なり、江戸時代には、死者は墓に棲みつくと考えられた。死者の骨が所定の墓に収められたことで、人はいつでも故人に会いにいけるようになったというわけだ。それはつまり、墓の中からいつまでも死者に観察され続けるということであり、霊魂がいつまでも骨に留まり続けるということでもある。死者の在りかたが変わったせいか、江戸時代には幽霊をめぐる山のような怪談話が大量に世に広まった。

死という逃れられない運命

猿雀「お岩霊 市川米蔵」(The Metropolitan Museum of Art)

中世仏教の目標のひとつは、死者をきちんと彼岸へと送り出すことだった。とはいえ、墓で安らかに眠っていられる死者は幸運だ。

江戸怪談の有名人(お岩やお菊)や美少年に惚れてしまった『狗張子』の法師のように、恨みを抱いて死んでいった者たちは復讐を果たし終えるまで、彷徨うことをやめない。たとえ幽霊を信じていなくても、墓場では死者の気配を感じる(ような気がする)し、なにかに見られている(ような気がする)。親しい人でも、それが死者なら気味が悪い。

幽霊について考えることは、人が死とどのように向き合うかという問題について考えることであり、死について考えることは、生きることの尊さを考えることでもある。いつの時代も死(者)にまつわる物語が恐ろしいのは、人が死を運命づけられた存在だからだろう。どうあがいたって、私たちは怪異からも、死からも逃げられはしないのだ。

【参考文献】
須永朝彦『奇談 日本古典文学幻想コレクション1』国書刊行会、1995年
須永朝彦『怪談 日本古典文学幻想コレクション3』国書刊行会、1996年

書いた人

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。