Culture
2019.09.10

史跡にまつわる怪談。城や古墳・古戦場に残る悲しいエピソードに人間の歴史を見た

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天正18年6月23日、滝の城が落ちたのとほぼ同じ頃、八王子城に豊臣方の大軍が攻めかかる。この時、城主の北条氏照(ほうじょううじてる)は小田原城に籠っていて不在であり、城内には近隣の農民や婦女子、老兵を含む約3,000しかいなかった。一方の豊臣方は上杉景勝(うえすぎかげかつ)、前田利家(まえだとしいえ)ら15,000の大軍である。

しかも、北条氏の支城を落としながら南下していた景勝、利家らの豊臣軍は、戦う前に降伏する城が多いことに秀吉が不満で、「手ぬるい」と叱責していると聞いていた。そこで秀吉の機嫌を直すためにも、八王子城を徹底的に叩かねばならなくなったのである。

戦いが始まるや、豊臣軍は数にものをいわせて猛攻を仕掛けるが、城方はよく防ぎ、城方も寄せ手も同数の約1,000人の将兵が犠牲になったという。しかし数の差はいかんともし難く、やがて敵が城内に乱入する。

敵による殺戮(さつりく)が行われる中、居館近くにあった「御主殿(ごしゅでん)の滝」に、ある者は身を投げ、また北条の武士たちは、「敵の手にかかるよりは」と泣きながら女性や子どもを斬って滝壺へ落とした。男たちの多くも滝の周辺で自刃した。城は一日で落ち、滝から流れ出る川の水は、三日三晩赤く染まっていたという。

八王子城本丸跡の祠

鎮魂の思いとともに向き合う

御主殿の滝周辺では近年まで、「鎧武者の姿を見た」「白装束の女性がいた」「滝壺の水が真っ赤に染まっていた」という噂が流れたが、その背景にはこうした歴史があったのである。
私の知り合いも昔、面白半分で夜に八王子城に行き、そこで着物姿の集団が歩いていくのを見たと話していた。一見して雰囲気が現代人とは異なり、震え上がったという。しかし、ここ数年はそうした噂も下火になったように感じる。八王子城で無念のうちに命を落とした人々の魂が鎮められていれば、と願う。

城にしろ、古戦場にしろ、多くの血が流れた歴史がある。私はこれまで取材で、そうした場所に出向くことがたびたびあったが、命を落とした方々への敬意と、鎮魂の思いは忘れないようにと、常々自分を戒めてきたつもりである。

歴史にまつわる怖い話を聞いて、興味本位にその場所に出向くことは絶対にお勧めしないが、怖いからと目を背けることも、少し違うような気がしている。人柱にしろ、戦いにしろ、そうせざるを得ない当時の事情があった。それは現代の価値観で云々するものではない。むしろそれも一つの人間の歴史として向き合った時、先人たちは大切な何かを教えてくれるような気もするのである。

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。