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2024.08.20

異例のスピード出世も、息子が暗殺され…「賄賂政治家」田沼意次の実像

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2025年に放送される大河ドラマ『べらぼう』は、天下泰平の江戸で出版物を次々と生み出し、ヒットさせた『蔦屋重三郎』の人生が描かれます。この蔦重が活躍した時期に、後世になってから「田沼時代」と呼ばれるほどの権力を握った老中(ろうじゅう)※1・田沼意次(たぬまおきつぐ)がいました。この意次役は、実力派俳優の渡辺謙が演じると発表され、注目が集まっています! 学校の授業で習った意次は、ダーティーな黒い政治家の印象でしたが、実際はどうだったのでしょうか?

※1:江戸幕府最高の職名。将軍に直属して政務一般を担った。譜代大名から選ばれた4、5名が月蕃制で政務の責任者となり、実務を行った。

意次の出世と生い立ち

享保4(1719)年、意次は幕府旗本田沼意行(おきゆき)の長男として、江戸で誕生します。父の意行は、紀州藩(現在の和歌山県)の足軽の生まれで、紀州藩主徳川吉宗(よしむね)の側近となり、吉宗が8代将軍となると、主君とともに江戸に来て、幕臣となりました。その後意次は、享保19(1734)年に将軍・徳川吉宗の跡継ぎである徳川家重(いえしげ)の小姓(こしょう)に。そして、その翌年に父が亡くなると、17歳で田沼家の家督を継ぐことになります。

家重、家治親子に重用されて、異例のスピード出世

延享2(1745)年、吉宗が隠居して家重が9代将軍に就任すると、意次は引き続き家重の小姓をつとめ、翌年には28歳で小姓頭取(とうどり)に昇進します。さらに翌年、29歳で小姓組番頭(ばんがしら)格の、御側御用取次見習(おそばごようとりつぎみならい)へと出世しました。将軍の側近の筆頭を任されるとは、いかに家重に信頼されていたかがわかります。そして、この役を任命された後、美農国郡上藩(みののくにぐじょうはん 現在の岐阜県群上市八幡町)で起きた宝歴騒動※2の吟味に加わるため、40歳にして、旗本から1万石の大名に昇格したのです。騒動を手際よく処理し、目覚ましい出世を遂げた意次は、いつしかやり手として注目される存在になっていました。

黒漆大小 ColBase

意次を重用した家重が病のために将軍職を辞すと、嫡男の家治(いえはる)が10代将軍に就任します。一般的に代替わりすると、側近も辞任するケースが多かったようです。しかし、意次だけはその後も息子の家治に仕えました。家重は亡くなる時に、意次のことを「またうとの者」、つまり正直な人なので目をかけるようにと遺言したからだと言われています。こうして家治の信頼も得た意次は、側用人(そばようにん)※3となり2万石に加算され、遠江国(とおとうみのくに 現在の静岡県西部)の相良(さがら)城主となります。そしてついに安永元(1772)年、54歳にして側用人から初めて正式な老中となったのです。

※2:年貢増徴に反対する郡上八幡一揆に端を発し、藩主の改易(かいえき)、幕府高官たちの免職まで引き起こした騒動。
※3:将軍の側近で、将軍の命令を老中に伝え、また老中の上申を将軍に取り次ぐ役目。将軍の権威を後ろ盾に、政治力を発揮した。

商業の発展につながる施策を打ち出す

8代将軍吉宗による「享保の改革」以降、幕府では質素倹約を進めましたが、幕府の財政難は解決されていませんでした。年貢増に対する農民の不満はたまり、天災の影響もあって、農村は疲弊していました。宝暦騒動をおさめた意次は、農業の振興には限界があると考え、商業の発展に力を注ぎます。

斬新な改革として商工業者の同業者組合である株仲間を結成させ、幕府から営業の独占を認められるかわりに、冥加金(みょうがきん 上納金のこと)を納めさせるシステムを考えました。この冥加金が幕府の収益となったのです。

「南鐐二朱銀」長方形の銀の薄板で、表に「以南鐐八片/換小判一両」の文字を表す 初期は品質が良く、南鐐とは「純度が高い」という意味 ColBase

また、通貨制度の見直しにも着手しました。それまで江戸では金貨、京・大坂では銀貨が主に流通していて、銀貨は重量によって価値が変動していました。そこで貨幣としての価値を明示した銀貨『南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)』などを発行し、金貨との交換比率も固定させました。このように、統一されていなかった貨幣に決まりをもうけて、取り扱いを簡便にし、経済活動がスムーズにいくようにと考えたのです。その他にもロシアとの貿易、商品作物の栽培奨励、蝦夷地(えぞち)の開発、印旛沼(いんばぬま)開拓、鉱山開発など、どの政策も画期的でした。しかし、今までにない新しいやり方だっただけにに、不満を抱く人々も多かったようです。

反発はありましたが、貨幣経済が活性化して、江戸の町は豊かになり、そのお蔭で歌舞伎や浮世絵などの江戸文化が花開くことにも繋がりました。

災害に飢饉と、遂には息子が殺害の悲運

着実に成果を上げる意次に、いつしか意見をする者や反対する者はいなくなっていました。意次も嫡男の意知(おきとも)を若年寄(わかどしより)※4とするなど、周囲を賛同者で固めようと動き始めます。ちょうどその頃、浅間山の大噴火が引き金となって、降灰や冷害で作物が全滅。飢饉が発生し、疫病の流行もあって多くの人が亡くなります。さらに米価の高騰で一揆が頻発し、人々は批判を意次に向けるようになっていったのです。このような災難が続くのは、意次の政治が悪いからだと。

佐野政言が意知を斬った事件を取り入れた黄表紙(絵を主とした大人向きの絵物語)
『黒白水鏡(こくびゃくみずかがみ)』石部琴好 作 北尾政演(山東京伝)画 

そんな不穏な空気が流れるなか、天明4(1784)年、意知が旗本の佐野政言(さのまさこと)によって、暗殺される悲劇が起こります。賄賂を贈ったものの、昇進させてもらえなかったのが理由などと言われていますが、真相はわかりません。ひょっとすると陰で操っていた人物がいたのか……? それは、政敵の松平定信(まつだいらさだのぶ)※5を含む保守派たちとの説もあります。いずれにしても、この事件が意次失脚のきっかけになったのは間違いないようです。そして天明6(1786)年、家治が亡くなり後ろ盾を失った意次は、老中辞任に追い込まれます。

※4:江戸幕府の職名の1つ。老中に次ぐ重職。旗本及び老中支配以外の諸役人を統轄した。
※5:徳川吉宗の孫。徳川家御三卿(とくがわごさんきょう)の1つ田安(たやす)家の7男として誕生したが、白河藩主松平定邦(さだくに)の養子になったことから将軍になる機会を失う。

意次は本当に汚職にまみれた政治家だったのか?

天明7(1787)年、新たに老中となった定信は、意次に対して辞任だけではなく厳しい処分を行いました。幕閣を追われた意次は隠居謹慎、所有していた屋敷や相良城などの没収、家督は孫の意明(おきあき)に継承し、1万石の領主として家名を継ぐことのみを許すというものでした。天明8(1788)年、意次は失意のうちに江戸で亡くなります。享年70。

意次が賄賂を受け取って私腹を肥やしたというイメージは、今も根強いですが、実際はどうだったのでしょう。意次が権力を握っていた時代、様々な便宜を図ってもらうために、武士や商人が毎日のように屋敷に押しかけたとの記録が残っています。あまりの人数の多さに、待合の部屋はギュウギュウ。意次との対面もゆっくりとはできない有様だったとか。しかし、この行動は意次が仕向けたというよりも、期待を寄せている側が自発的に行っているものです。一般的にこの時代は賄賂は風潮として盛んに行われていたらしいのと、家臣たちが受け取ってしまったという見方もあり、この出来事だけで、賄賂政治家との判断は難しいです。

また意次は、平賀源内や農学者、多くの武士や商人と交流して、そこで得た知識を政策に活かしていたと言われています。自身の金銭欲や出世欲を満たすために、このようなまどろっこしいことをするでしょうか? 豪商と結託して私腹を肥やしたというのは、どうも疑わしい気がしてなりません。一方で子息に役職を与えて、派閥を作ろうとした意思は感じられますし、権勢を固めるために、大奥の女性も利用していたとの説もあります。

さて、大河ドラマに登場する田沼意次は、どのように描かれるのでしょうか? 期待が膨らみます。

参考書籍:『田沼時代』辻善之助著 岩波書店、『歴史人』園部充発行 ABCアーク、『日本大百科全集』小学館、『世界大百科事典』平凡社、『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版

アイキャッチ:裃 褐色麻無地 部分 ColBase

書いた人

幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。