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2019.03.05

百人一首とは?稀代の歌人、定家による和歌の奥義を読み解く楽しみ!

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漫画「ちはやふる」などで若い世代にも人気を博している百人一首。そもそも百人一首は誰がどのように選んだのでしょうか。そして、その秘密とは?国文学者の青柳恵介さんに学びました。

歌に匿された歌人の想い

解説/青柳恵介・国文学者(和樂2006年2月号より)

百人一首とは?稀代の歌人、定家による和歌の奥義を読み解く楽しみ!

『百人一首』は鎌倉時代を代表する歌人・藤原定家が選定した歌集だと考えられています。これは嘉禎元年(1235)、定家が74歳のときの自身の日記(『名月記』)に、息子の嫁の父・宇都宮頼綱から小倉にある別邸の障子色紙のために、和歌百首を選定するように頼まれた、という記述があることから想像されています。ただし、このとき定家が選定した百首が、そのまま現在の『百人一首』となったのか、あるいはもうひとつ別の『百人秀歌』と呼ばれる歌集なのかは、議論の分かれるところです。しかし、いずれもが晩年を迎えた定家が、このとき選定した百首であることは、ほぼ間違いがないでしょう。『百人一首』は、稀代の歌人・定家が、その晩年に和歌というものをどのように捉えていたかということを考える上でも貴重な史料なのです。ここでは、そんな定家の想いも踏まえながら、歌の魅力を紐解いてみたいと思います。

『百人一首』は、歌選びの元となったさまざまな勅撰集同様、五つの部立てに分けることできます。中でも最も多く選ばれたのが恋の歌です。『百人一首』における恋の歌の特徴は序詞を巧みに活用した歌が多いことだと言えるでしょう。ここで紹介した三首のように、序詞によって景色を詠み、その情景に恋心を寄せるという、表現の奥深さが『百人一首』における恋の歌の特徴だと言えるでしょう。それは取りも直さず、定家がそのような形態の歌を好んだということでもあるのです。また定家は、平安時代を代表する歌人であり六歌仙を選んだ紀貫之や、三十六歌仙を選定した藤原公任が取り上げなかった恋の歌を『百人一首』の中に取り込んでいることも見逃せない事実です。

難波潟短き葦のふしの間も逢はでこのよを過ぐしてよとや
十九番 伊勢(新古今集・巻十一・恋一・一0四九)

難波の潟に生えている葦の、節と節との間のようなほんの短い間さえも、あなたに逢うことなしにこの世を過ごせと、あなたはおっしゃるのでしょうか

みかの原わきて流るるいづみ川いつみきとてか恋しかるらむ
二十七番 中納言兼輔
(新古今集・巻十一・恋一・九九六)

みかの原を分けて湧き出でてくる「いづみ川」の「いつみ」という言葉ではないけれど、いつ見たわけでもないのに、どうしてこんなに恋しいのでしょうか

由良の門を渡る舟人かぢを絶え行方も知らぬ恋の道かな
四十六番 曾禰好忠

風の強い由良の瀬戸を漕いで渡る舟人が、舵を失くして途方に暮れるように、私の恋の行方もどうなってしまうのだろうか。

十九番
「難波潟」は、今の大阪湾辺り。その干潟に生い茂る蘆の、節と節の間が非常に短いことを引き合いに出して、ちょっとの間もあなたは会ってくださらない、という思いを語っている。「難波潟短き蘆の」は「ふしの間」の序詞。恋の主草部とは必ずしも関係ない描写=序詞が必然的に導き出す情景と、恋心を歌った心情のハーモニーが絶妙な歌。

二十七番 
この歌も「みかの原わきて流るるいづみ川」という序詞が効果的に使われた歌。序詞には3種類の序詞があり、これは同音繰り返しの序詞で次の「いつみ」を導き出す。いつ見たときからあなたをこんなに恋してしまったのか、という恋心を歌っている。「みかの原」は山城国にある泉が湧きだす草原。泉がこんこんと湧く様子と恋心が湧き出でる様子を掛け合わせて心情を歌っている。

四十六番
「行方も知らぬ恋の道かな」という部分を導き出すのが「由良の門を渡る船人かぢを絶え」という序詞。由良の門は非常に風が強く、そんなところで舵を失くした船人同様に、私の恋も先行きが見えないという意味。単に恋心を歌うだけではなく、美しい景色などに寄せて思いを述べる寄物沈思の歌を、定家は『百人一首』においても好んで選んでいる。

圧倒的に秋を歌った歌が多い

『百人一首』の中に登場する、四季を表した歌を分類してみると、春が六首、夏が四首、秋が十六首、冬が六首となり、圧倒的に秋の風情を歌った歌が多いことが分かります。これは選定元となった勅撰集においても、春と秋を歌った歌が多いことと、密接に関連していると言えるでしょう。

しかし、秋の歌が多い理由は単にそれだけではありません。ここで考えるべきは、74歳という齢を重ねていた定家が選んだ和歌集だという側面と、貴族であった彼の生きたこの鎌倉時代が、彼らにとっては明らかに春というよりも、すでに秋を迎えていたということの証明に他ならないということです。

そう考えてこれらの歌を味わうと、感慨もひとしおだと言えるでしょう。

さびしさに宿を立ち出ででながむればいづくも同じ秋の夕暮
七十番 良暹法師
(後拾遺集・巻四・秋上・三三三)

あまりに寂しいので、庵を出て辺りを眺めれば、どこも同じように寂しい秋の夕暮れだなぁ

夕されば門田の稲葉おとづれて葦のまろやに秋風ぞ吹く
七十一番 大納言経信
(金葉集・巻三・秋・一七三)

夕方になると、家の前にある田の稲の葉を、そよそよと音を立てて訪れ、葦で葺いた粗末な小屋に、秋風が寂しく吹いてくるよ

秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ
七十九番 左京大夫顕輔
(新古今集・巻四・秋上・四一三)

秋風にたなびいている雲の切れ間から、もれ出てくる月の光の、何と明るく澄み切っていることであろうか

七十番 
百人一首以外にはあまり登場しない歌で敢えて定家が選んだ可能性がある。良暹の世捨て人たる孤独な想いや寂寥感が滲み出ているところが特徴で、平安時代の初期にはあまり見られなかった歌の形態。定家の時代に、こうした隠遁者が多く見られるようになったことと、彼らがことさら美しいものに惹かれた人々であったことから、時代を象徴する歌とも言える。

七十一番
定家は平安時代の紀貫之以降、和歌のレベルが衰退の一途を辿ったと考えていたが、中には秀でた歌人がいたと認識していた。そのひとりがこの経信。質素な我が庵にも、目の前の田んぼを吹き抜けた秋風が吹き込んでくるよと詠むことで、秋風特有の質感と門田という描写によって里に近い美しい田園風景を表現した文字通り秀歌である。

七十九番
さまざまな解釈がなされている歌だが、それよりも的確で格調の高い情景描写を楽しみたい歌。秋の風によって雲がさっと切れると、月の光がなんと美しく冴えていることか、と歌った歌だが、最終句までの淀みなさと「さやけさ」と体言止にした点などが、何より秀逸。

百人一首とは?稀代の歌人、定家による和歌の奥義を読み解く楽しみ!

夢破れたひとびとの叫びが聞える

『百人一首』には、どちらかと言えばあまり幸せでない一生を送った歌人の歌が多く選ばれていると言っても過言ではありません。後鳥羽院や崇徳院は、ご存知のように配流の後に没していますし、陽成天皇なども脳の病を患いその位を廃された人でした。羇旅の部に選ばれている歌を歌った人々は、中でも典型的に不遇な人生を送った人々だと言えるでしょう。安部仲麿は中国で客死、小野篁と菅原道真は配流、実朝は暗殺されているのです。

通常、勅撰集の羇旅の歌というと、旅先で都の恋人を想って歌う歌などが多いのですが、『百人一首』の中の羇旅の歌は、4首中3首が直接的に不遇な人生そのものを象徴するかのような歌となっています。

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に井でし月かも
七番 安倍仲麿
(古今集・巻九・羈旅・四〇六)

広々とした大空を遠くはるかに仰ぎ見ると、ちょうど美しい月が出ている。あの月は、私の故郷である春日の三笠山に出ていた月と同じなのかなぁ。

わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟
十一番 参議篁
(古今集・巻九・羈旅・四〇七)

大海原のたくさんの島を目指して船を漕ぎ出したと親しい都の人には告げてくれよ、釣り舟の漁師たちよ

このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに
二十四番 菅家
(古今集・巻九・羈旅・四二〇)

今回は急な旅でしたので、幣の用意もして参りません。手向山の紅葉を神のお心のままにお受けください。

七番
これは遣唐使であった安部仲麿が中国で歌った歌で、望郷の想いを歌に込めたある種悲しい歌。事実、玄宗皇帝に仕え、当時最高峰の知識人たる李白とも親交結びながらも、夢破れて帰国できず客死した仲麿の生き様を象徴するかのような内容。

十一番
古今集の詞書によれば、隠岐に流された際の情景を歌った歌であることが記されており、定家は同じく隠岐に配流された後鳥羽院の歌と重ねて味わうべくこの歌を選んだものと考えられる。「都の人に伝えてくれ」と歌うのは、このような不遇な身の上に置かれた人物の、別
れの言葉として典型である。

二十四番
これもある意味で不遇というか、正に「触らぬ神に祟りなし」と言われたほど縁起のよくない人であった菅原道真の歌。手向山八幡を訪れたが、神に捧げるべき幣帛を用意しなかったので、この全山の紅葉をどうか神のよろしいように捧げましょう、と歌った歌。ある種スケールの大きな道真の人となりをも表すようなダイナミックな歌である。

百人一首に離別の歌はただひとつ

百人一首において離別の歌はひとつしかありません。また雑の部は二十首ありますが、この中にも恋の歌と言っても、四季の歌と言っても差し支えないものもあります。この辺りは勅撰集の選者がいかようにも出来たことなので、あまり厳密な分け方をされていると考えない方がよいでしょう。

また、七十五番の「契り置きしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり」という息子の出世が適わなかった恨みを綴った藤原基俊の歌のように、普通に解釈すれば恋の歌にしか読めないような歌も、雑に組み込まれていいます。が、これらは『百人一首』の元となった勅撰集の詞書を元にしたカテゴライズなので、定家が勝手にこの部に入れたわけではないのです。

立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む
十六番 中納言行平
(古今集・巻八・離別・三六五)

あなた方と別れて因幡の国に行っても、その因幡の国の稲葉山の峰に生えているという「松」の木の名のように、あなた方が私を待っているときいたら、直にでも帰ってきましょう。

世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
八十三番 皇太后宮大夫俊成
(千載集・巻十七・雑中・一一五一)

ああ、世の中というものは逃れる道がないものだな。逃げたいと思いつめて入ったこの山奥でも、辛いことでもあったのか、悲しげに鹿が鳴いているよ。

十六番
在原業平の弟・行平の代表作。「いなばの山の峰に生ふる」が「まつとし」を導く序詞。さらに「立ち別れ」につづく「いなば」は「往なば」と「因幡」、「まつ」が「松」と「待つ」の掛詞になっている。因幡の国の国司になった行平が、地方に下って往く寂しさを歌った歌とも、都に戻って因幡の国の人に送った歌とも解釈されている。

八十三番
定家の父の歌。百人一首には6組の親子が取り上げられているが、俊成・定家もその中の1組。「思ひ入る」は思い込んでという意味だが、山に入るという状況にもかかっている。人生というものには、逃げ道がないのだなぁ、と歌った、世の中の無常をうまく言い表した秀歌。俊成はどちらかと言えば、このように辛く自虐的な歌を好む傾向があった。現代における演歌、歌謡曲の元祖とも言える。