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2024.09.20

美少年が土木現場をダンスで再現!? カオスだった「歌舞伎の原点」に迫る

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2025年大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」は、歌舞伎役者の絵も大ヒットさせた蔦谷重三郎が主人公。歌舞伎の歴史を知っていたら、もっとドラマを楽しめるはず。そこで今回は、歌舞伎・黎明期について調べてみた。

歌舞伎の歴史といえば「出雲のお国(歌舞伎の祖とされる、安土桃山時代~江戸時代初期に活躍した女性)が率いる女性歌舞伎が人気だったが、江戸幕府が禁止にした。後に、男性が役者になった。」と思い浮かべる人もいるだろう。しかし歌舞伎が今の形になる以前は、美少年や遊女が主演の、あっと驚くさまざまな形態があったという。近世演劇を研究する、共立女子大学の土田牧子教授に詳しく教えてもらおう。

尚、聞き手はオフィスの給湯室を、国宝級の茶室に見立て抹茶をたてる「給湯流茶道(きゅうとうりゅうさどう)」。「給湯流」と表記させていただく。

トラ柄の椅子に主演女優が座り三味線を弾く?”ギャル”風味の「遊女歌舞伎」

給湯流茶道(以下、給湯流):まず、出雲のお国はどんな公演をしていたのか、ぜひお教えください。

土田牧子(以下、土田):江戸時代が始まる少し前、京都で少女たちが踊る芸能が人気になり、各地に広がりました。中でも、お国が率いた集団が人気を博したのでしょう。

給湯流:少女たちが踊っていたのですね。

土田:とても流行して宮中でも上演されたようです。宮中で公演が行われた日には、複数の人が日記を遺している例もあります。

給湯流:公演レポが数百年たっても残っているとは! よっぽど人気だったのでしょうね。

土田:お国のころは、三味線を使っていなかったというのが定説です。室町時代にうまれた能と同じ楽器構成。能の影響が大きかったと考えられます。

給湯流:今は歌舞伎といえば三味線が代表的な楽器のイメージですが、お国歌舞伎のころは無かったのか!

土田:お国たちが大変人気になったため、遊女に真似をさせようという人たちが出てくるのです。今では「遊女歌舞伎」と呼ばれています。この遊女歌舞伎から三味線が登場します。

狩野孝信工房作 女歌舞伎図屏風(一部)/この絵では、橋掛かりにいる面を付けた役者が三味線を担いでいる/ mid- to- late 1610s/ The Metropolitan Museum of Art

給湯流:三味線の演奏をバックに、遊女が踊ったりしたのですか?

土田:三味線を弾いたのは、遊女たち自身でした。

給湯流:プロの演奏家ではなくて、役者が三味線を弾いたと?

土田:トラの毛皮をかけた椅子に遊女が座って三味線を弾く絵が残っています。(※1)

給湯流:なんと、トラの毛皮と遊女と三味線! 個人的には、”ギャル”の雰囲気を感じます。今の歌舞伎で聞く三味線は、正座をして上品に演奏されるイメージです。しかし遊女歌舞伎のころは三味線にぜんぜん違う世界観があったのですね。

※1: 例:四条河原遊楽図屏風/静嘉堂文庫美術館

”蚊の鳴くような声”で遊女が演じた、下手だけどかわいい歌舞伎?

土田:三味線は16世紀末、中国から琉球を経て大阪に伝来したといわれています。

給湯流:それは知りませんでした! 沖縄民謡で今も演奏される、三線がルーツということですか。

土田:遊女歌舞伎が流行ったころ、三味線は異国の香りがする新しい楽器でした。そこで人気の遊女が派手な衣装を着て珍しい楽器を持つと、お客さんが集まったのでしょう。

Beauty Playing a Shamisen/second quarter of the 17th century/The Metropolitan Museum of Art

給湯流:なるほど。遊女歌舞伎の三味線は、プロの演奏を楽しむものではなく、ステージで客を惹きつける、最先端の小道具だったと。演奏がうまいかどうかは二の次ですね。

土田:遊女歌舞伎を見た人が「蚊の鳴くような声で能を演じていた」と書いた書物(※2)も残っています。

給湯流:遊女の演技、下手くそだったのですね(笑)。私は日本のアイドルが好きなのですが、歌や踊りが下手でも本人が一生懸命やっていれば応援したくなる。個人的な妄想ですが、遊女歌舞伎もそんな一面があったのかもしれませんね。

※2浅井了意『東海道名所記』(1659年成立)

土木現場の作業をダンスで再現? 美少年の「若衆歌舞伎」がカオス

土田:しかし、遊女歌舞伎は売色と結びついており、禁令が出て姿を消していきました。並行して行われてきた若衆(わかしゅ)の歌舞伎に人気が集まります。

給湯流:若衆とは、元服前の前髪がある少年たちのことですね。美少年たちだけで歌舞伎をやっていたと!

Wakashu (Male Youth) Dancer with a Fan(一部)/1670~1680年/Unidentified Artist/The Metropolitan Museum of Art

土田:彼らも三味線を弾いていました。今の歌舞伎にも残る軽業(かるわざ)も披露していたようです。

給湯流:今でいう、アクロバットですね。かっこいい!

土田:また、狂言や平安時代以来の舞である舞楽(ぶがく)、幸若舞(こうわかまい)など、いろいろな芸能を美少年たちが披露していたようです。

給湯流:幸若舞とは、「本能寺の変」で燃え盛る寺の中で織田信長が「人生~50年~」などと歌うイメージがある、アレですか。

土田:それです。現在、消滅してしまった芸能です。幸若舞は合戦物語を得意とする男性的な芸能だったようですが、それをきれいな衣装で美少年たちが舞った記録があります。

▲まだあどけない美少年の歌舞伎役者たち。前髪があるのがポイント!/
The Actors Sanogawa Ichimatsu (right), Nakamura Kiyosaburo (center right), Sanogawa Senzo (center left), and Nakamura Kumetaro (left)/1745~1755年/石川豊信/The Art Institute of Chicago

給湯流:それは見たかった!

土田:若衆歌舞伎には、さらに面白い絵が残っています。石垣などに使う大きな石を引っ張る、土木現場を再現した演目もあったようです。(※3)

給湯流:土木現場の歌舞伎? それはカオスですね(笑)。なぜそんな歌舞伎が生まれたのでしょうか?

土田:江戸時代に若い男性が担った建設業の労働を、美少年が舞台化した、というわけです。伝統芸能史のなかでも研究されています。(※4)

給湯流:なるほど。江戸時代は火消しの人気があったと聞きますし、現代でもイケメン消防士のカレンダーが売れたりしますものね。

土田:なんとかお客さんの注目を集めようと、興行主もさまざまな工夫をしていたようです。

給湯流:歌舞伎の黎明期、今とは雰囲気が違ういろいろなステージが繰り広げられていたのですね。日本のエンタメの歴史は本当に面白い! 興味深いお話、ありがとうございました。

※3: 例:四条河原遊楽図屏風/ボストン美術館(collection No.11.4592 )
※4:「土木建築に際しての石引きの労働を舞台化したものであり、この種の河原者の労働が舞台化されていく過程については、郡司正勝に詳細な論考がある。この郡司氏の論考を承けて、建設業の労働が若衆芸の一つであったことを明らかにされたのは小笠原恭子氏である」(諏訪春雄「絵画資料に見る初期歌舞伎の芸態ー若衆歌舞伎の絵画」1973より一部引用)

Dancer with a Sword(一部)/Unidentified Artist/1670年/The Metropolitan Museum of Art

土田牧子

土田牧子(つちだまきこ)
共立女子大学文芸学部教授。1976年、東京生まれ。2007年、東京藝術大学大学院音楽研究科博士課程修了。博士(音楽学)。日本学術振興会特別研究員、東京藝術大学ほか非常勤講師を経て、2016年より共立女子大学文芸学部専任講師。2023年より現職。単著に『黒御簾音楽にみる歌舞伎の近代―囃子附帳を読み解く―』(雄山閣2014)。


土田牧子さんの書籍、歌舞伎初心者でも読みやすい「ですます」調で書かれた、歌舞伎の音楽がテーマの本。現役演奏家の貴重なインタビューも載っています。「歌舞伎音楽事始」はこちら

書いた人

きゅうとうりゅう・さどう。信長や秀吉が戦場で茶会をした歴史を再現!現代の戦場、オフィス給湯室で抹茶をたてる団体、2010年発足。道後温泉ストリップ劇場、ロンドンの弁護士事務所、廃線になる駅前で茶会をしたことも。サラリーマン視点で日本文化を再構築。現在は雅楽、狂言、詩吟などの公演も行っている。ぜひ遊びにきてください!