貧困のためや借金の形として、苦界と呼ばれる吉原の妓楼へ身売りされた遊女たち。彼女たちは妓楼で働きながら借金を返すため、最長10年という年季明けまで、吉原を出ることは許されませんでした。まさに籠の鳥のような人生を送らなければならなかったのです。
しかし、ただ一つ、年季を待たずして、この苦界を脱出できる方法がありました。それが「身請け」です。客が遊女の身代(みのしろ)金を肩代わりし、自分の妻や妾にすることをこう言いました。ただし、この「身請け」が得られたのは、遊女の中でも一握りの特別な女性たちだけでした。
身請け金は1000両越え! VIPだけができる身請けというシステム
2025年大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で、小芝風花演じる松葉屋の高級遊女、瀬川を身請けしたのは、市川隼人が演じる盲目の高利貸、烏山検校(からすやまけんぎょう)でした。その支払い額は、なんと1400両、当時江戸中の話題となっていたそうです。
なぜ、このような大金になるかといえば、妓楼に払う遊女の身代金のほか、残された年季の推定収入分や盛大な送別の宴の費用、妹分の遊女や奉公人、引手茶屋などへの祝儀が必要だったからです。遊女を見請けするには、現代でいえば億万長者にしかできない事でした。
好きでもない相手と結婚するぐらいならと死を選ぶ遊女も
しかし、こうして身請けされた遊女たちが、幸せだったかと言えば、身請け人が自分の愛する人ではない事も多く、吉原を出られたものの、結局は金に物を言わせた相手に身売りしたという場合もありました。そのため、中には、身請けを拒み、恋仲となった相手と心中をしてしまう遊女もいたほどです。
吉原の遊女・綾絹。19才で武士と心中、残された家族の悲しい運命とは。
戯作者や浮世絵師も遊女を見請けしていた
平賀源内などに認められ、10代で本を出版し、その後も戯作者、狂歌師として一世を風靡した大田南畝(おおたなんぽ)。彼も両親、妻、子どものいる家庭がありながら、松葉屋の下級遊女、美保崎にのめり込み、妾として身請けしました。南畝が美保崎に語らせた随筆『松楼私語(しょうろうしご)』に、「千金 身を贖(あがな)うの時」と書かれていることから、かなりの大金を支払ったのであろうと想像できます。しかし、美保崎はすぐに病に倒れ、亡くなってしまいます。
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一流浮世絵師として活躍していた菱川師宣(ひしかわもろのぶ)は、吉原を舞台にした艶本 (えんぽん) や枕絵 (まくらえ)をたくさん描いていますが、師宣の最初の妻も遊女でした。彼女も早くに亡くなってしまいます。師宣は、しばらく独り身を通していましたが、晩年、吉原通いをするうちに、22歳年下の「おはる」と馴染みになり、再び、身請けします。その女性が、師宣の代表作となった見返り美人のモデルだと言われています。若く美しいその姿をこの世に残すことができ、師宣も絵師冥利に尽きたのではないでしょうか。
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遊女との純愛も存在していた
一方で、大恋愛のような遊女との婚姻もありました。絵師であり、戯作者として当時人気のあった山東京伝は、19歳の時に扇屋で出会った菊園のもとに通い続け、年季が明けるのを待って妻としました。しかし幸せは長くは続かず、賢婦人と呼ばれた菊園でしたが、30歳で亡くなってしまいます。その後、作家として一流となっていた京伝は、再び吉原で馴染みとなった、高級遊女、玉の井を身請けします。この時、京伝40歳、脂ののった年齢だったと言えます。玉の井は17歳も年下でしたが、二人は仲睦まじく、京伝はこの婚姻を機に、吉原へ通うこともなくなりました。筋を通すところが、真面目て一本気な京伝らしいと言えるのかもしれません。しかし、この婚姻は京伝が亡くなったことで終焉。その後、精神を病んだ玉の井は、狂死したと伝えられています。
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人生を翻弄された遊女。自らの幸せとは何だったのか
「身請け」も「年季明け」も自分ではどうにもならない人生の不条理です。そして病を患い、若くして亡くなってしまうことが多かったのです。だからこそ、ひと時でも幸せな日々があったのだろうと願わずにはいられません。大河ドラマにはたくさんの遊女が登場しますが、彼女たちの過酷な人生の中にも、愛する人がいたのだと想像しながらドラマを見てみると、さらに深く感じ入ることができるのではないでしょうか。
アイキャッチ画像:『山東京伝の見世』歌川豊国 ColBase
参考書籍:『吉原事典』朝日新聞出版、『日本大百科全書』小学館、『世界大百科事典』小学館