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大人だけが知っている!「静寂の京都」

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Culture
2024.09.19

平和な世でも家庭は乱世。家出に密通…もめごとだらけの江戸夫婦事情

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戦乱を経て、大手をひろげて迎えられた江戸時代は「平和な時代」だった、と、よく言われる。
とはいえ100万人をも超える人びとが集まる大都市。世は平和でも、家のなかともなれば問題は山積みだったにちがいない。

武家夫婦の10組に1組は離婚したと言われる時代である。夫に逆襲する妻、駆込寺への逃亡劇、離婚、人生の再出発……実際に起こった夫婦の事件から見えてくるのは、江戸の時代を生き抜いた男と女の、幸せだけでは語れない日々だ。いつの時代も、家庭は乱世。犬も食わぬ夫婦のもめごとを、こっそりのぞいてみよう。

約束を破った夫に怒りの鉄槌。逆襲する女、ヤス

鳥居清長「茶見世十景」(The Art Institute of Chicago)

一八〇〇年、事件は京都で起こった。
ヤスという女が、夫の卯八を切りつけて負傷させたのである。

ヤスは前年、卯八から離縁されていた。
その際、キソという女を後妻にしないことを条件にしていた。ところが、卯八が再婚するという噂が流れてきた。居ても立っても居られなくなったヤスは、真実を確かめるために元夫のもとへ走った。
ヤスは卯八に噂の真偽をたずねた。しかし、どうも返事がはっきりしない。ヤスは隠し持っていた短剣を前夫の顔と腕に押しつけた。こうして卯八は別れた妻に皮膚を薄く切られてしまったのである。

破綻した協議離婚

事件の取り調べを担当したのは京都町奉行である。
資料によると、ヤスは「殺す気はなかった」と供述している。卯八が結婚するという話も結局のところ噂に過ぎなかった。ヤスの訴えもむなしく、評定所は「よく確かめもせずに傷つけたのは不届である」と、ヤスを重追放にしたという。

行くか、行かざるべきか。召使と駆込寺を目指した女

鈴木春信「雨乞いをする小町」(The Art Institute of Chicago)

一六八七年、十月十五日夕刻。
新石町一丁目四郎兵衛店に住む五郎兵衛の妻・ゲンは長屋を出た。夫・五郎兵衛との婚姻を解消してもらうために、縁切寺へ願い出るつもりだった。

縁切寺とは夫との離婚(縁切り)を成してくれる尼寺のことで、救済を求める女性たちがおおく駆け込んだ。ゲンもその一人だ。不安はあったが、心強い連れもいた。夫の召使・小兵衛が寺まで付き添ってくれるというのだ。が、これがいけなかった。
本来なら駆け込み寺へ向かうゲンを止めるか、主人に知らせるべきところを、小兵衛はゲンが無事に寺へたどり着けるように手助けしたのだから。夫婦の諍いを目の前で見ていた小兵衛である。きっと、ゲンに同情したのだろう。いまとなっては、真偽のほどはわからないが。

二人は長屋を出て三日目、十八日の朝に浅草で捕らえられた。
長屋からそう遠く離れた場所ではない。いったい二人は、三日ものあいだ駆込寺へ向かわず、かといって家に帰るでもなく、なにをしていたのか。
というわけで、まず、密通が疑われた。しかし二人はやましい関係ではなかった。これはおそらく事実だ。とはいえ、主人の妻と昼夜をともにしたのだから重罪には変わりない。

母親と夫の不仲で死罪に

ゲンの操を守るために付け加えておくと、彼女が長屋を出たのには理由がある。
普通、理由がなければ人はこっそり家を抜け出したりはしないものだ。その時点で、夫婦の間に問題があったことは想像がつく。そしてごく個人的にいって、この事件は総じて夫のほうに非がある(と、私は思う)。

ゲンが夫と別れたがった原因は、ゲンの母親と夫の不和にあった。取り調べによると、ゲンは母親と行き来するのを夫に禁止されていたという。
家を出たものの、離婚に踏み切る決心がつかず三日間近所をうろついていた(と、私は想像する)が、「このような場合には、仲人か家主に相談して夫の理解を得るべきである」「町奉行所へ訴え出るべきであった」と、町奉行所からは厳しいお言葉が投げられた。

それがどういう事情であれ、ゲンに下された処罰は酷いものだった。ゲンと召使の小兵衛は半年あまり牢舎に入り、翌年の六月二六日に死罪になっている。

不行な男女の不幸な日々

喜多川歌麿「忠臣蔵・七段目」(The Art Institute of Chicago)

一八五〇年、江戸本郷四丁目家主金兵衛の娘であるカネと夫、勘次郎とのあいだに起こった事件のあらましはこうだ。

勘次郎は、ろくでもない男である。
渡世のことなど気にもせず遊び歩き、女通いばかりしている。暮らしに困れば妻・カネの衣類を勝手に質に入れ、カネの父親を頼り、父親がそれを断れば下駄で殴る始末。遊ぶ金欲しさにカネが売られそうになったことも一度や二度ではない。カネはとうとう耐えきれず、縁切寺へ駆け込んだ。

カネの言い分はこうだ。
「私は女道に外れることなく生きてきました。離婚ができないなら、海川へ身を捨てるほかありません」
寺へ駆け込んだカネはささやかな品を持っていたが、夫の金品はいっさい持ち出していないと証言している。すべて彼女の言う通りなら、憐れなほどろくでもない亭主である。

妻の離婚請求を受けて夫、勘次郎も町奉行へ訴え出た。勘次郎の言い分はすこしちがう。
「妻は戸棚に入れておいた銭五貫文、私の茶結城袷を一枚、カネがかつて金二郎と逃げたときの詫状を持ち出して家出しました」
勘次郎いわく、カネはもともと密通の疑いを受けるようなだらしのない女で、越後の国で尼になったと偽の手紙を書いてきたこともあるという。

嘘つき女とろくでもない男。嘘つきはどっち?

なんだかきな臭くなってきた。そもそも金次郎って誰。夫婦のいざこざに加えて、第三の男まで現れた。いずれにせよ、寺へ駆け込んだカネを呼び出さないことには話は進まない。

かくいうわけで、寺社奉行と町奉行との間でカネの引き渡しをめぐる交渉がなされた。事件の顛末を先に告げると、離婚は無事(?)に成立した。カネは軽い咎で済んだ。その後、カネは縁切寺で二年を過ごしたという。

カネと勘次郎どちらの言い分が本当だったのか、いまとなっては誰も知る由もない。じつは二人とも真実を口にしていたりして。もしそうなら、二人は存外、お似合いの夫婦だったかもしれない。

迷える女性たちが駆け込んだ〈縁切寺〉の救済システム

召使と家を抜け出したゲン、不徳な夫と別れたカネ。不幸せな暮らしと縁を切ろうとした女性たちが目指したのが、縁切寺(駆込寺)だ。

江戸時代、離婚を希望する女性は寺へ駆け入り、そこで三年の月日を過ごせば、縁を切ることができた。
とはいえ、縁切りの特権を持っていたのは〈満徳寺〉と〈東慶寺〉の二か所のみ。どの寺へ駆け込んでも離婚ができる、というわけではなかった。

駆け込むにも相当の理由が必要で、カネの夫・勘次郎くらい、ろくでもない男が理由でなくてはいけない。
たとえば、一八五〇年頃に寺へやってきたワカの夫・甚五郎は女遊びがひどく、金遣いも荒く、暴力的で、大酒飲みで、そのうえ働かないという典型的なダメ亭主だった。ほかにも、脇差を片手に追いかけてくる乱心した夫から逃げてきたというイク、病に苦しむ自分をまったく顧みない夫に嫌気のさしたムラなど、縁切寺にはさまざまな事情を抱えた女性たちが駆け込んだ。江戸末期の150年間に2000人以上が駆け込んだともいわれる。

縁切寺は駆け込む妻と夫との離婚願いを達成してくれる場所であり、また自ら死を選ぼうとする女性を助けることを目的とするアジール(避難場所)でもあった。ここに一人、縁切寺に救われた女性がいる。吾妻郡大塚村百姓孫右衛門の妻、ツルである。

離婚はしたい。でも、髪は切りたくない

喜多川 歌麿「婦人相学十躰」(The Art Institute of Chicago)

ずいぶんと長いこと、ツルは夫との生活を我慢してきた。これまで何度も実家へ帰っていたが、今回ばかりは離縁できなければ自殺しかねないひどい状況だ。ツルは寺へ駆け込み、無事に助けられた。

その後、夫婦双方のあいだに交渉がもたれることになった。夫と寺をまきこんでのやりとりがなされたが、ツルは剃髪するのが嫌だった。ここは尼寺。寺に駆け込んだのなら、剃髪しないわけにはいかない。でも、髪の毛だけは守りたかった。

そうこうするうちに一年が過ぎ、夫はツルとその父を相手取って妻取戻し(同居復縁請求)を出訴。ツルの髪はどうにか守られたが、夫に無断で家を出ていったことの制裁にと、今後五年間は再婚できないこと、夫の住む村とツルの実家の村の両村内では縁組しないことが約束され、事件は幕をおろした。

再出発する妻たち

鈴木春信「風流六哥仙」(The Art Institute of Chicago)

縁切寺の一つ、東慶寺の記録のほとんどは関東大震災で焼けてしまったので、あまり残されていないのだけど、五猫庵主人が震災の直前に書いた『川柳松ケ岡』が当時の女性たちの姿を今日に伝えてくれる。
『川柳松ケ岡』によれば、縁切寺へ駆け込んだ女性のほとんどは二十代で、最高齢の女性は五四歳だったという。
当時の書付からは、実際に寺へと駆け込んだ女性たちの生々しい人生が浮かび上がってくる。たとえば、ある女性が夫に質入れされてしまった物品のリストも記録されている。

私持参の品
一、 上田縞小袖(二つ)
一、 黒小柳帯(一すじ)
一、 厚板帯(一すじ)
一、 銀かんざし(一本)
一、 まえざし(一本)
一、 鏡(一めん)
〆七品
勘次郎しち入候事

妻の了承も得ずに持ち物を質入れするなんて、とんでもない亭主だ。と、私が腹を立てる代わりに、寺が彼女たちの世話を焼いてくれた。離縁ともなれば妻が実家から持って行った衣類道具も取り戻さなくてはいけない。そうした品を黙って手放すしかなかったこの女性は、縁切寺へやってきてようやくその悲しみと怒りを言葉にできたのだろう。そう、信じたい。

おわりに

喜多川歌麿「おさん茂兵衛」(The Art Institute of Chicago)

ろくでもない亭主の話ばかりしてきたが、世の中には素晴らしい男性がいることも知っているので、気の毒な女の話をしたついでに、悪い女の話もしておく。

キクは、村内の百姓庄蔵と結婚して十九年ものあいだ仲睦まじく暮らしていた。が、じつは同じ村の国次郎と浮気をしていた。浮気のせいか、それ以外の事情があったのか知らないが、次第に家庭内の空気が怪しくなり、ついにキクは庄蔵と離婚することになる。キクが離婚したのは、浮気相手の国次郎と再婚したいがためでもあった。
ところが何を思ったのか、たった一年で、キクは先夫との復縁を縁切寺へ願い出た。もちろんそんな身勝手が許されるわけもなく、キクは弟のもとへ引き取られていったという。

夫に殺されかけたり、身売りされそうになったり、勝手に物を売られたり。それでも情はあるから、迷うし、嫉妬もする。とはいえ、本心を言えば髪の毛は切りたくないし、想い人は他にいるし、幸せになりたいから嘘もつく。江戸の女性は存外、したたかなのである。

【参考資料】
丹野顯「江戸の色ごと仕置帳」集英社新書、2003年
高木侃「三くだり半と縁切寺」講談社現代新書、1992年
五猫庵主人(著)宮武外骨(編)「縁切寺 川柳松ケ岡」1923年
「近世法制史料叢書1 御仕置許帳」創文社、1959年

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書いた人

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。