いよいよ終盤に差し掛かった、2024年NHK大河『光る君へ』。さまざまな人物たちが織り成す宮中の様子は、武士が主人公の物語に慣れた私には毎回新鮮に映ります。
今回ピックアップする人物は、藤原道長(ふじわらの みちなが)の2人目の妻、源明子(みなもとの あきこ)の兄、源俊賢(みなもとの としかた)。道長と一緒にファイト一発な吉野詣に行く仲で、一族の出世を狙うしたたかさも持ち合わせる人物ですが、実在した彼はどんな人物だったのでしょうか。
源俊賢の少年時代
ではまずは、さくっと家系図を見てみましょう。
俊賢と道長は、義理の兄弟というだけでなく、従兄弟でもあるんですね!
源俊賢の『源』は、俊賢の父・高明ら(たかあきら)が醍醐(だいご)天皇から臣籍降下(しんせきこうか)して源姓を賜ったので、醍醐源氏(だいごげんじ)と呼ばれます。ちなみに源頼朝(みなもとの よりとも)はもっと前の代の清和(せいわ)天皇から源氏を賜った清和源氏(せいわげんじ)なので全く関係ありません。
俊賢と明子の父・高明は醍醐天皇の息子であり、左大臣を務めました。ちなみに、明子の母方の祖母は醍醐天皇の第十皇女でもあるので、明子は血筋的にはかなりプリンセスですね!
こうしてみると、かなり由緒正しい家柄であると言えますが、実は俊賢が10歳になる前には母が亡くなっていて、11歳になった安和2(969)年、「安和(あんな)の変」と呼ばれる事件が起きました。
高明は謀反の疑いをかけられ、大宰府に左遷されました。幼い俊賢もそれについて行ったと考えられています。その後高明の代わりに左大臣となったのが、藤原師輔(ふじわらの もろすけ)の弟・師伊(もろただ)でした。
高明はのちに許されて京へ戻ってきますが、その時にはもう醍醐源氏の権力は地に落ちていました。しかし俊賢は、栄花と衰退を味わった父に厳しくしつけられ、処世術を学んだようです。
源俊賢の大学生時代
平安時代の「大学」は、「官僚育成機関」という面でみるとまさしく近現代の国立大学的なイメージです。多くは下級貴族の子息が学んでいましたが、どうやら俊賢は上流貴族出身にもかかわらず、大学で学んでいたらしいのです。
この経験もまた、後に俊賢が貴族社会を渡り歩く道標となりました。
源俊賢の出世
そんな父の無念や不遇の少年時代を過ごした俊賢ですが、花山(かざん)天皇・一条(いちじょう)天皇の時代になると、みるみるうちに頭角を現していきます。
逆境をバネに一念発起した俊賢自身の精神力や才能もありますが、後見人が藤原道長の父・兼家(かねいえ)だったことも大きかったことでしょう。兼家の死後、後を継いだ道隆(みちたか)の時代も順調に昇進し、道長の時代には参議(さんぎ)として公卿(くぎょう=三位以上の貴族)に列せられ、朝廷の政にも直接関わるようになりました。
しかも、道長が権力を握ると没落していった道隆の子どもたちでしたが、俊賢は道長と仲良くしつつも道隆への恩義を忘れずに、道隆の子どもたちにも好意的に接していたという話も、『古事談(こじだん)』や『小右記(しょうゆうき)』に残されています。
教養・才能・精神力、そしてコミュ力!! 政治に必要なものはすべて持っている上に、さらに恩義にアツい人柄……! 見える……深い沼が見える……!
源俊賢の晩年
そんなこんなで、ぐんぐん出世していく俊賢。寛弘7(1010)年には満50歳にして、ついに正二位の位まで上り詰めます。一条天皇の次の三条天皇の時代以降になると、俊賢は第一線を退き、道長やその家族のサポート役に回りました。引き際も見極めているとはさすがの処世術。
そして万寿3(1026)年、満59歳の時に俊賢は隠居の身となり、翌年6月12日に病となって出家し、その翌日にこの世を去りました。
まさに朝廷の出世レースを、見事泳ぎ切った生涯でした。
藤原氏全盛期の時代に、源氏で……しかも一旦は没落した家でここまで出世したことを、時には「権力者へのゴマすりだ」と評価されることもありましたが、現在ではその能力を高く評価する人も増えてきています。
アイキャッチ画像:菊池容斎『前賢故実 巻第6』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献:
安西廸夫「源俊賢の生涯」(『言語と文芸』六七)
高橋由記「源俊賢考 -王朝女流文学の史的基層として-」(『中古文学 第64号』中古文学会)
服藤早苗、高松百香編著『藤原道長を創った女たち』(明石書店)