平安時代に摂関政治で栄華を築き、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば」という有名な歌を残した藤原道長(ふじわらのみちなが)。その立場を盤石なものにしたのが、道長の長女で一条天皇の中宮(ちゅうぐう、后のこと)だった彰子(しょうし/あきこ)が生んだ2人の孫の存在でした。のちに後一条天皇となる敦成(あつひら)親王と、後朱雀(すざく)天皇となる敦良(あつなが)親王です。
しかし歴史を振り返ってみれば、道長の世を満月にした後一条天皇と後朱雀天皇の御代(みよ)に早くも、摂関政治が終焉に向かう予兆が見つかるのです。
後一条天皇(敦成親王)/摂関政治の全盛期に天皇となるが……
後一条天皇は一条天皇の第2皇子として寛弘5(1008)年に誕生。寛弘8(1011)年に父の一条天皇が病に倒れて三条天皇に譲位すると、外祖父・道長の後見を受けて4歳で東宮(とうぐう、第1皇位継承者)となり、長和5(1016)年に9歳で天皇に即位しました。
一条天皇は亡き皇后・定子が生んだ第1皇子の敦康(あつやす)親王を東宮にしたいと望んでいましたが、朝廷の高官たちから「しっかりとした後ろ盾のある皇子が次の天皇になったほうが、世が乱れない」と説得されて諦めたといういわくがあります。
その言葉のとおり、後一条天皇には外戚(母方の親族)による万全の後見がありました。即位したときには国母(こくも、子が天皇に即位した皇太后)となった母・彰子がともに高御座(たかみくら、天皇の玉座)に上って、幼い天皇をサポートしています。現場主義だった道長はそれまで摂政・関白の次席である内覧(ないらん)兼左大臣という立場に留まっていましたが、後一条天皇が即位した直後の約1年間だけは摂政をつとめ、天皇に代わり政務を行いました。
その後は道長の長男である叔父の藤原頼通(よりみち)が、後一条天皇の御代を通じて摂政・関白をつとめています。また朝廷には教通(のりみち)、頼宗(よりむね)ら道長の次男以下の叔父たちも、高官として名を連ねていました。
9歳年上の叔母と結婚、遠慮して他に女御を持てなかった?
道長が「この世をば……」という望月の歌を詠んだのは、寛仁2(1018)年に道長の娘・威子(いし/たけこ)が後一条天皇の中宮となったことを祝う宴の席でのことです。威子の立后により、先々代一条天皇の中宮だった彰子が太皇太后(たいこうたいごう)、先代三条天皇の中宮だった道長の次女・妍子(けんし/きよこ)が皇太后となりました。道長が娘たちを、3代の天皇の后の座につけるという一家三后(いっかさんごう)を成し遂げて、摂関政治の頂点を築いた瞬間です。
このとき後一条天皇はまだ11歳、長保元(999)年生まれの威子は20歳。叔母と甥の間柄でもある2人の年齢差は大きく、やや強引な縁組にも思えます。
後一条天皇と威子の間には2人の内親王(皇女)が生まれましたが、親王(皇子)には恵まれませんでした。それなのに後一条天皇の後宮(こうきゅう)には、他に女御(にょうご)がいなかったというから、驚きます。
歴史物語の『栄華物語』には、威子の兄の教通が娘を入内させたいと後一条天皇に申し出て、天皇もそれを望んだけれど、威子に遠慮して実現しなかったと書かれています。
そして長元9(1036)年、後一条天皇は29歳の若さで病に倒れ、弟の敦良親王が次の天皇となりました。
後朱雀天皇(敦良親王)/摂関家とは適度な距離で、院政の道をひらく?
後朱雀天皇は寛弘6(1009)年に生まれた一条天皇の第3皇子です。兄の後一条天皇が即位した翌寛仁元(1017)年に9歳で東宮になり、長元9(1036)年に28歳で天皇に即位しました。
東宮時代に、道長と正妻・倫子との間に生まれた末娘の嬉子(きし/よしこ)と結婚。嬉子は万寿元(1025)年にのちに後冷泉天皇となる親仁(ちかひと)親王を出産し、産後まもなく19歳で亡くなっています。出家後も御堂(みどう)関白と呼ばれて権力を持ち続けていた外祖父の道長も、万寿4(1028)年に亡くなりました。
関白は引き続き叔父・頼通がつとめていますが、天皇と摂関家とのつながりはやや薄くなっていたと言えるでしょう。
後朱雀天皇は長久元(1040)年に貴族や寺社の私領を増やさないようにするための荘園整理令を出すなど、天皇が積極的に政治に携わる「天皇親政」に意欲を見せています(長久の荘園整理令は実際には施行されていませんが、後に施行される際の原案となりました)。
外戚に権力を持たせない作戦実行
後朱雀天皇は寛徳2(1045)年、病が重くなり37歳で第1皇子の親仁親王に譲位しますが、藤原氏がふたたび天皇の外祖父となることを警戒し、第2皇子の尊仁(たかひと)親王を東宮に指名しました。この尊仁親王こそが、のちに摂関家を外戚としない天皇として即位する、後三条天皇です。
ちなみに後三条天皇の母は、三条天皇と妍子の間に生まれた禎子(ていし/さだこ)内親王です。摂関家と血縁がなかったわけではありませんが、道長と三条天皇は気が合わず、妍子が禎子内親王を生んだときも、男子でなかったために道長は喜ばなかったといいますから、心の距離もあったのではないでしょうか。
いずれにせよ後三条天皇の即位を機に、摂関家の権勢は衰えていき、やがて先代の天皇(上皇/院)が幼い天皇を後見して政務を担う、院政の時代が幕を開けるのです。
「満つれば欠く(月満つれば則ち虧く)」ということわざのとおり、道長が栄華の頂点を築いたそのときから、摂関政治は終焉に向かいはじめたと言えるのかもしれません。
*女性の名前の訓読みは一説です。平安時代の人物の読み仮名は正確には伝わっていないことが多く、音読みにする習慣もあります。
アイキャッチ:『琵琶湖石山の秋の月』歌川広重 出典:メトロポリタン美術館
参考書籍:
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)
『日本古典文学全集 栄花物語』(小学館)
『藤原道長』著:朧谷寿(ミネルヴァ書房)
『藤原道長を創った女たち』編著:服部早苗・高松百香(明石書店)