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2025.03.17

田沼意次失脚の裏に…松平定信ともケンカした大奥御年寄・大崎の正体

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大崎(おおさき)は、江戸幕府の第11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)の時代に大奥で権力をふるった御年寄(おとしより)。2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、映美くららさんが演じています。

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幼い次期将軍に付き添って江戸城へ

家斉は、もしものときに将軍の後継者を出すために創設された御三卿(ごさんきょう)の一橋家に生まれ、9歳のときに第10代将軍家治(いえはる)の養子となりました。

大崎はそのときに、一橋家から家斉に付き添って西の丸大奥に入っています。幼いころからお世話をして、成長を見守っていた、乳母(うば)のような存在だったのでしょう。

『今様倭文庫 浄飯王・乳母・太子』著者:香桜楼国盛 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

大奥の御年寄となり、老中交代に暗躍

天明6(1786)年に家治が病気で亡くなると、翌天明7(1787)年、家斉は15歳で将軍の座につきます。

同じ時期に大崎は、本丸大奥で将軍付きの御年寄に就任。家斉の実父である一橋治済(ひとつばしはるさだ)の意向を受けて、先代将軍の家治に重用されていた老中の田沼意次(たぬまおきつぐ)を失脚させ、白河藩主の松平定信(まつだいらさだのぶ)を老中にするために働いたといわれています。

大奥の「乳母」はブラックバイト?

将軍付きの御年寄は、大奥の女中たちの実質的なトップであるとともに、政治にも深く関わるほどの権力を持っていました。

そのルーツは、第3代将軍家光(いえみつ)の乳母だった春日局(かすがのつぼね)。家光の将軍就任の立役者であり、家光に子どもを作らせるために女性を集めて、大奥の原型を作った人物です。

春日局が活躍したのは大奥の創成期で、御年寄という役職名こそまだありませんでしたが、大奥総取締にあたる立場で絶大な権力をふるいました。

『春日局像(模本)』作者:福田久也模、原本:狩野探幽筆 出典:ColBase より、一部をトリミング

一方で、家斉が将軍になったころの大奥では、乳母の地位は驚くほど低かったようです。

家斉は女好きの子だくさん、50人以上の子どもをもうけて大奥を賑わせました。次々と生まれる若君や姫君の乳母を見つけるのに、役人たちは大変な苦労をしています。
というのも乳母の待遇があまりに悪いので、応募する人がいないから。

定信の側近だった水野為長(みずのためなが)の雑記をまとめた『よしの冊子』には、御乳持(おちちもち/乳母のこと)は4人相部屋で気の休まるときがなかったこと、食事も大豆とアラメという海藻の煮物、八杯豆富(豆腐の煮物)、青菜のおひたし程度の貧相な内容だったこと、3日に1度はおかずとして鯛が出されるものの、なぜか食べられないほど古いものだったことなどが記されています。

御年寄や他の大奥女中たちに気を遣ってばかりのストレスと、おそらくは栄養不足もあったのでしょう、2~3週間もつとめると皆お乳が出なくなってしまったのだとか。

しかも大奥には「お乳をあげるとき、乳母は覆面をつける」という驚くような決まりがありました。若君や姫君を直接抱っこすることさえ許されず、別の人が抱いてお乳を飲ませたといいます。

春日局があまりにも大きな権力を持ったので、大奥ではその後、乳母をわざと軽んじて、将軍の子どもがなつかないようにしていたのでしょうか。

そんな環境の大奥で、将軍の乳母だった大崎が出世できたのはなぜなのでしょう。

庶民とは大違いの、壮絶な大奥の授乳事情……
『母と子』著者:喜多川歌麿 出典:メトロポリタン美術館

お乳をあげない乳母こそ偉かった?

乳母とは読んで字のごとく、赤ん坊にお乳をあげる母代わりの女性です。昔は出産で命を落とす女性が珍しくありませんでした。産後の栄養事情などから、お乳が十分に出ないこともあったでしょう。同じ時期に子どもを生んだ女性が、お乳を分けてあげるのは珍しいことではなかったそうです。
公家や大名家では、若君や姫君にお乳を与えるのは実母ではなく、乳母の仕事でした。

歴代将軍などの乳母について見てみると、『よしの冊子』に出てくる「御乳持」のほかにも、「乳母(めのと)」、「御乳人(おちちびと)」、「御さし」など、乳母の呼び名はさまざま。
どうやら乳母にも種類があって、「御さし」や「御乳持」と呼ばれた女性たちは、子どもを生んだ後の母乳が出る時期に乳母として雇われていたようです。
一方で「御乳人」は、同時期に子どもを産んだとは考えにくい、大奥の御年寄が就任しているケースがみられます。

「御乳人」の下に「御さし」や「御乳持」が雇われていることから、ある時期から「御乳人」は実際にお乳をあげる乳母ではなく、乳母を指揮監督する立場の養育責任者になっていったと思われるのです。
実は大崎も、一橋家で家斉が生まれるときに「御誕生御用掛」というお役目をつとめたベテランの奥女中でした。乳母の選定などを行って、そのまま養育の責任者になったのかもしれません。

乳母はお乳を上げるだけでなく、子どもを守り導く存在でもあった『古今名婦伝 乳母浅岡』著者:歌川豊国,柳亭種彦 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

松平定信を子ども扱いして失職

幼かった家斉に付き添って江戸城に入り、大奥の御年寄へと出世をした大崎ですが、その権力は長く続きませんでした。老中首座に就任したばかりの30歳の定信とケンカして、御年寄を引退してしまうからです。

一説によるとケンカの原因は、「赤ちゃんの頃の定信を抱っこしてあやしたことがある」という大崎の、定信を子ども扱いしたような言動。
老中首座になり意気揚々の定信に「まあまあ、こんなに大きくなられて」とあいさつしたのだとか。

そして「老中と老女(御年寄の別名)はいわば同役。何事も相談しながら、仲良くやっていきましょう」と親しみを込めたつもりが、「老中に向かって同役とは何事か。あなたは老女で、大奥に老中はいない」と定信を怒らせてしまいます。引っ込みがつかなくなった大崎は辞職をにおわせますが、定信はかたちばかりの引き留めもせずに、大崎を追い出してしまいました。

小姓から老中へと成り上がった田沼意次は、もしかしたら「老中と老女は同役、仲良くしましょう」と大奥の女中を持ち上げていたのかもしれません。
しかし、御三卿の田安家から白河藩の養子になった定信は、第8代将軍吉宗の孫という出自に誇りを持っていて、大奥の女中たちと馴れ合うつもりなどなかったのでしょう。

大崎が自身の老中就任を後押ししたことを、知っていたのか、いなかったのか。
定信は祖父・吉宗が行った享保の改革を手本として、寛政の改革に着手。大奥も大きく予算を削られて、厳しい締め付けにあうこととなったのです。

アイキャッチ:『古今名婦伝 乳母浅岡』著者:歌川豊国,柳亭種彦 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

参考書籍:
『徳川「大奥」事典』(東京堂出版)
『論集 大奥人物研究』(東京堂出版)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)
『随筆百花苑 第8巻』(中央公論社)
『大奥の奥』著:鈴木由紀子(新潮社)
『日本思想体系44 本多利明 海保青陵』(岩波書店)

書いた人

岩手生まれ、埼玉在住。書店アルバイト、足袋靴下メーカー営業事務、小学校の通知表ソフトのユーザー対応などを経て、Web編集&ライター業へ。趣味は茶の湯と少女マンガ、好きな言葉は「くう ねる あそぶ」。30代は子育てに身も心も捧げたが、40代はもう捧げきれないと自分自身へIターンを計画中。