仏教には因縁という言葉がある。
因縁、それは前世から現世へもたらされた宿縁のこと。悪縁、腐れ縁、運命と呼んでもいい。鼠と猫は、まさに因縁の関係にある。不幸なめぐりあわせには人間も成す術がないほどだ。
鼠と猫と、ついでに人間。生きものたちの三角関係に割りこめる人物がいるとしたら神様くらいかもしれない。今回ご紹介するのは、切っても切れない鼠と猫の因縁物語。
猫には猫の、鼠には鼠の生き様があるのだ(『猫の草子』より)
一寸法師、物くさ太郎、浦島太郎……室町から江戸にかけて作られたおびただしい物語のなかに『猫の草子』なる物語がある。これは国土安泰、よい政治が行われて鳥や獣にまで情けが行き渡っている世の中で起こった事件である。
一条の辻に、高札が立った。
一、京の市中では猫の綱を解き、放し飼いにすること
一、同じく猫の売買をさしとめること
家の中の秘蔵っ子にされていた猫まで解き放たれて、猫たちは大喜び。自由だ! こんなに嬉しいことはない!
困ったのは鼠たちだ。猫から逃げ、すき間に隠れ、忍び足で歩く日々。うかうかしていると食われてしまう。こんな世の中ではもう生きてはいけない。
さて、上京のあたりに大日如来の再来といわれた尊い僧がいらした。その僧の夢に鼠の和尚が出てきた。鼠の和尚はいつも縁の下でありがたい御談義を聴聞しているという。喜ぶ僧に、鼠の和尚は申し出た。
鼠の主張:猫の奴らにちゅうい(注意)!
「猫の奴らが放たれたせいで仲間(鼠)は影を隠し、逃げ、死んだ者もおります。生きている者たちも今日明日の命と心細い思いをしながら縁の下におりますが、寸分の油断もない状況です。
それならと、穴ぐら住まいをいたしてみるも一日二日のことではなく、中は息がこもって長くはいられません。それで世間へ出てみれば猫に捕らえられ、頭から嚙み砕かれ、引き裂かれるのです。このように恐ろしいことに遭うとは、前世の因果が悲しくてなりません」
鼠たちの気持ちを代弁する、鼠の和尚の主張はまったくその通りである。しかし、と僧は言葉を返す。
僧の主張:お前たちだってさぁ……
「お前たちが人に憎まれる理由を語って聞かせよう。たとえば私のように独りきりでいる法師が傘を張って立てかけておくと、お前たちはすぐに柄の元を食い破るだろう。人をもてなそうと煎り豆や黒豆を置いておけば一夜のうちにみな食ってしまう。袈裟衣、扇、本、屏風もそうだ。これではどんなに柔和で忍耐強い阿闍梨でも迷惑に思うのは当たり前だ。ましてや一般の人間なら、なおのことである」
そうして僧の夢は覚めた。
次の夜、今度は猫が夢に出てきて胸の内を語った。
猫の主張:こればかりは譲れにゃい!
「あの鼠根性が尊いお坊さまにいろいろなことを申し上げたと聞きました。鼠は外道の最たるものです。お坊様がご慈悲をおかけになっても、すぐ何か盗むにきまっています。こんな話をすると鼠とせいくらべをするようですが、ぜひとも私たちの話をお聞きください。
私たち(猫)は、インドと中国で恐れられている虎の子孫なのです。日本は小国ですから国に相応しくこの姿で渡来しました。さて、私たちは後白河法皇の御時から綱をつけて傍に置かれました。そのため一寸先を鼠が徘徊していても飛びつくこともできず、水が欲しくてももらえず、頭を叩かれて痛めつけられてまいりました。この度、苦しみから逃れられたことはありがたいことです。人間は米を食べるでしょう。おなじように私たちも天から食物として与えられた鼠を食べております。それを今から止めろと言われても同意しかねます」
人間様のご都合主義
もう京にはいられない、助けてほしいと主張する鼠。しかし猫の主張ももっともに聞こえる。広大無量の慈悲心をもつお坊様も心が痛い。とはいえ夢の出来事を人に話せば笑われるだろう。鼠と猫と、それから人間。問答はあやふやな言葉で結ばれて終わっている。
鼠と猫の立場をユーモラスに語る『猫の草子』には、折り合うことのない互いの関係のなかに自然の摂理がしっかりと描かれている。つまるところ、生存権の主張である。
むしろ腑に落ちないのは、人間の態度のほうだ。鼠と猫の問答に巻きこまれたお坊さんは、自然の摂理を前にどっちを向いてもしどろもどろである。人間が米を食べるのと同じように、天から与えられた食べものを頂戴しているにすぎないと主張する猫にぐうの音も出ない。しかも煎り豆とか黒豆を食べられた件を持ち出すあたり、鼠にたいして個人的な恨みがあるとみた。
猫流、これが鼠の獲りかた遊びかた(『兔園小説』より)
鼠には、同情せずにはいられない。サンスクリット語の「ねこ」には「鼠を食うもの」の意味があると言われるくらい、猫の性分は鼠を捕らえて食らう動物なのだ。だから猫が猫らしくふるまおうとすると、どうしても鼠が標的になってしまう。
虫も鳥も手当たり次第にくわえて帰ってくる猫だが、猫には猫流の鼠を捕りかたというのがあって、江戸時代の随筆集『兔園小説』に詳しい。
この本によれば猫が鼠を捕るときには、なによりまず「吭(のどぶえ)を拉(ひ)き半死半生ならしめつつ、弄ぶこと半時ばかり」つぎに「鼠の項(うなじ)より啖(く)ひはじめて、さて全身を尽すものなり」とある。
鼠が知ったら震えて飛び上がりそうな遊びである。
鼠と猫と、ついでの人間。生きものたちの三角関係
物語の中では、猫は鼠を捕らえる生きものとして描かれ、鼠はいつも猫に追いかけられる不幸な身の上である。これが人間なら自分の責任で逃げたり隠れたりできるけれど、鼠と猫はそうはいかない。
『猫の草子』の最後では、公家や門跡に住んでいた鼠が下手くそな歌を残して去っていく。
じじといへば聞耳たつる猫どののまなこの中の光おろそし
とはいえ、どうして猫を責められよう。
どちらもたまたま夜行性で、たまたま顔を合わせる機会がおおく、たまたま人間の近くで生活していて、たまたま鼠の肉が猫の嗜好にぴったりだった、という偶然(と言う名の因縁)が重なり起こってしまった結果にすぎないのだ。
これはもう、不幸なめぐりあわせが生んだ悲劇としか言いようがない。
一条の辻に立てられた高札が、なんとも人間ご都合主義な命令に思えてきた。
【参考文献】
渡部義道「猫との対話」、三一書房、1977年
『日本随筆大成(第二期)』吉川弘文館、1973年