織田信長の側近くに、外国人が仕えていたことをご存じだろうか。しかもお雇い外国人のような客分ではなく、れっきとした織田家の侍として、である。身長182cm、漆黒の肌のその男は、「弥助(やすけ)」と呼ばれた。実はゲームやコミック等の影響で、Yasukeの名はいまや世界的に知られており、日本初の外国人侍が黒人であったことは驚きとともに好意的に受け止められている。それを受けてハリウッドでは、マーベル・コミックの『ブラック・パンサー』の実写版で大人気を博したチャドウィック・ボーズマンを起用し、弥助を主人公にした映画化も決定したという。では、弥助とはどんな男だったのか。その実像を探ってみよう。
天正10年(1582)6月2日早朝、京都に滞在する織田信長の宿所を、重臣の明智光秀の軍勢が襲った。本能寺の変である。この時、弥助は信長の側近くにいて、同僚らとともに敵と戦いながら、謀叛(むほん)の一部始終を目撃していた。そして、業火に包まれた本能寺の奥で主君の信長が最期を遂げると、彼は思いもかけぬ行動に出るのである……。
弥助に関する史料は多くはない。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡、太田牛一『信長公記』、『松平家忠日記』、ジャン・クラッセ『日本西教史』、フランソワ・ソリエ『日本教会史』などに断片的に記されるのみである。しかし最近、イギリス出身で日本在住の研究者ロックリー・トーマス氏が、長年の研究をもとに『信長と弥助』を出版し、弥助の生涯の不明な部分を埋める試みを行った。本稿では『信長と弥助』を参考にさせて頂きながら、その実像を紹介することにしたい。
弥助とは何者なのか
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
イエズス会巡察師ヴァリニャーノの背後に控える男
本能寺の変からさかのぼることおよそ3年の、天正7年(1579)7月25日。アジア、アフリカ地域で最も高貴とされるカトリック教徒が日本に上陸した。巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノである。巡察師とはイエズス会総長の名代として、各地の布教状況の査察、指導を行う宣教師をいう。イタリアのキエティ(当時はスペイン領)生まれのヴァリニャーノは、この時、40歳。威厳に満ちた彼を筆頭とするイエズス会一行は、上陸した島原半島の口之津で日本の信者たちに迎えられ、長崎へと赴くのだが、ひときわ人々の目をひいたのが、ヴァリニャーノの背後に控える、従者で護衛役でもある大男であった。
ずば抜けて背が高く、屈強な肉体を持ち、肌の色は墨を塗ったかのような漆黒。坊主頭を日差しから守るためか白い布をターバンのように巻き、槍を手にしていたと思われる。年齢は20歳代前半。名前は不明だが、これが後年、「弥助」と呼ばれる若者であった。ヴァリニャーノらは、若者を「イサケ」と呼んでいた可能性があるという(『信長と弥助』)。
弥助がこの時、24歳であるとすれば、生まれは1555年ということになる。しかし出身国、出身民族、母国語などはわからない。ただ、彼がアフリカにルーツを持つことは間違いないようで、ルイス・フロイスの書簡に弥助について「Cafre(カフル)」と記されている。カフルとは、同じく肌の黒いインド人、東南アジア人、アラブ人と明確に区別して、アフリカ人のみを指すポルトガル語であった。また、ポルトガル領東アフリカ(現、モザンビーク)出身とする説もあるが、『信長と弥助』のロックリー氏は、断定はできないとする。
弥助は「ハブシの戦士」だったのか
では、弥助はどこでヴァリニャーノらと出会い、従者になったのか。それについては、インドの可能性が高いようだ。1574年にポルトガルのリスボンを発したヴァリニャーノらの一行が、まず目指したのはインドのポルトガル領であった。途中、モザンビークに3週間寄港しているので、そこで弥助と出会った可能性もないわけではないが、インドには3年間滞在して、布教状況を査察している。そして当時のインドのポルトガル領には、アジア、アフリカから膨大な数の人々が奴隷として連行されており、その中にはインド軍の主力を形成した軍事奴隷の「ハブシ」も多数含まれていた。
ハブシとは北東アフリカの奴隷を指す言葉である。ハブシの男は獰猛(どうもう)で戦闘技術が巧みであり、さらに忠誠心が高いことから、軍事奴隷としての実力は当時のアジア全域に知られていたという。ハブシを手に入れた者は、十分な訓練と食事を彼らに与えて戦士として育成し、ハブシは忠誠心をもって主人の護衛や用心棒を務めた。また軍に属するハブシは乗馬技術に習熟した者が多く、主人との雇用関係が切れたハブシが、傭兵として自らを売り込むようなこともあったという。弥助もまた、こうしたハブシの一人ではなかったろうか。
弥助の体格のよさから見て、10代の頃からハブシの戦士として育成されていた可能性があるだろう。3年間のインド査察を終え、次に戦乱の続く極東に向かわなければならないヴァリニャーノが、ハブシの屈強な若者をボディガードに選ぶのは自然なことであった。ただしイエズス会は建前上、奴隷を認めていない。弥助も軍事奴隷ではなく、イエズス会と雇用契約を結んで、ヴァリニャーノの身辺護衛と従者を自らの任務としていたはずである。