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2019.12.10

強くたくましく美しい武将の妻!豊臣秀吉・直江兼続らを支えた女性の逸話を紹介

この記事を書いた人

現代でも多くの人を魅了している戦国武将。
激動の時代を生き抜き、数々の武勇伝は今も語り継がれ、戦術や兵術は現代のビジネス経営にも役立てられています。
そんなカリスマ性のある戦国武将たちですが、実は「妻」という存在がなければあれほどまでに名を成していなかったかもしれません。
戦国武将となった夫を支え、強くたくましく美しく戦国時代を駆け抜けた戦国時代の妻たちに、妻として家庭を支える姿勢を学びたいと思います。

【豊臣秀吉正室】ねね(北政所、高台院)


「賢妻」として知られているのが豊臣秀吉の正室であるねね(別名:おね、北政所)。
戦国時代の妻として最も知名度が高いと言っても過言ではないのではないでしょうか。
尾張国朝日村にて戦国武将・杉原定利の次女として生まれ、1561年に豊臣秀吉と結婚したねねは、1585年に秀吉が関白に任官されたのを機に「北政所」(きたのまんどころ)と呼ばれるようになりました。
秀吉の没後、1603年に出家して「高台院」と称し、1624年の死去まで京都で過ごしました。

ねねの人柄:寛大な心と賢い頭脳をもつみんなの人気者

ねねと秀吉は、当時にしては珍しい恋愛結婚だったのだとか。
それにも関わらずもともと女性が大好きな秀吉は浮気を繰り返しましたが、ねねは正室らしくどっしりと寛大な心で構えていたそうで、秀吉は頭が上がらなかったようです。
また、非常に面倒見がよく、加藤清正や福島正則などを一人前に育てたり、人質としてきた徳川秀忠を手厚くもてなしたりしました。
頭の回転が早く、周囲からも慕われていたねねは、秀吉の留守や没後の政治代行なども行うほどの権力も持っていました。
子宝にこそ恵まれなかった二人ですが、ねねの存在あってこそ秀吉は成功したのではないでしょうか。

ねねの逸話:城主代行、和平交渉までこなす

政治の才もあったねねは、長浜城では秀吉の留守中に城主代行のような立場となり、部下たちの士気を高めていました。
また、後陽成天皇の聚楽第行幸が終わると、滞りなく行幸を終えた功績を称え、秀吉と同じ位階である従一位に叙せられたのです。
他にも、朝廷との交渉をこなしたり、秀吉の揉め事を治めたりするなど、妻というよりも右腕のような存在で秀吉をサポートし、表舞台で活躍する秀吉を陰ながら支え続けていました。
秀吉の死後も周囲のために精力的に動き、淀殿(秀吉の側室:別名は茶々)と共に豊臣秀頼の後見をしたり、「関ヶ原の戦いの前哨戦」と言われる大津城の戦いで交渉にあたったりするなど、多くの功績を残しています。

【前田利家正室】まつ(芳春院)


ねねと並ぶ賢妻として有名なのが、前田利家の正室であるまつ。
大河ドラマ「利家とまつ」で知った方も多いはずです。
実は、まつはねねと大の仲良しだったのだとか。
そんなまつは、篠原一計の娘として尾張国で生まれ、満11歳で利家に嫁いでからは2男9女を産み育てたのです。
1599年に利家が病死したのを機に出家して「芳春院」と名乗りました。

まつの人柄:気丈に励まし続ける肝っ玉母ちゃん

まつは、長女を満12歳のときに産んだそうで、小学生の子どもをもつ親として大変驚きました。
その後も妊娠・出産を繰り返し、なんと合計11人の子宝に恵まれたのです。
そんなまつは、夫・利家が信長から出仕停止処分を受けて貧乏になったときにも、信長に許してもらえるまで戦で活躍するように励まし続けました。
その励ましがあったからこそ利家は「桶狭間の戦い」「美濃森部の戦い」と相次いで武功を挙げ、信長の元へ戻ることができたのです。
まさに内助の功。
そのような状況になったらグチグチと嫌味を言ってしまいそうなものですが、気丈に叱咤激励を続けることこそ夫のやる気を引き出すポイントなのですね。

まつの逸話:名だたる武将との和睦交渉

まつを語る上で忘れてはいけないエピソードが、賤ヶ岳の戦い。
柴田勝家軍についた利家は昔から仲の良かった秀吉と敵対してしまいますが、秀吉と戦うことを嫌がり戦の途中で撤退してしまいます。
その際、まつはねねを通じて越前府中城まで赴いて秀吉を訪ね、和睦交渉をして利家を許してもらえたのです。
また、利家の没後に家長となった息子・利長が、徳川家康から謀反の嫌疑をかけられた際、まつが自ら人質として徳川家へ赴いたことで前田家は存続することができました。
14年間にも及ぶ人質生活のなかでも、まつは徳川家康や江戸幕府と交渉を重ね続け、前田家存続のために尽力しました。

【山内一豊正室】千代(見性院)


大河ドラマ「功名が辻」でも取り上げられ、良妻賢母の見本として今もなお女性たちの憧れとなっている千代。
「松」という名もあったと言われています。
出自については諸説あり、定かではありません。
山内一豊が千代と結婚した当時はまだまだ貧乏でしたが、最後には一国一城の主までにしたのです。
一豊の没後は出家して「見性院」を名乗り、豊臣家や徳川家とも交流を持ち続けました。

千代の人柄:豪快かつ聡明に夫を導く賢女

後述しますが、ただの武士だった夫・山内一豊が土佐藩の初代藩主まで上り詰めたのは、妻である山内千代の判断や行動があってこそのものでした。
千代にまつわるエピソードのどれもが豪快かつ聡明で、出世のために夫を導く賢さがあります。
さまざまな文献やメディアで言われているように、千代は「妻」というよりも「共同経営者」という見方が適しています。
夫の出世は、妻にとっては嬉しいものですし、自分だけでなく子どもたちまで潤うことに繋がります。
妻として、内助の功だけでなく、時には千代のような豪快なサポートも必要なのでしょう。

千代の逸話:夫のために馬を買うという豪快さ!

最も有名なエピソードが、馬を購入した話です。
織田信長が馬揃えをする際、お金がなくてほしい馬が買えずに困っていた一豊。
見かねた千代は、へそくり(一説では結婚の際の持参金とも)を一豊に渡してその名馬を買わせたのです。
その名馬の名は「鏡栗毛」。
鏡栗毛は馬市に出たものの、高額すぎて買い手がついていなかったというエピソードが残っているくらいなので、相当な金額だったことでしょう。
また、もうひとつのエピソードは一豊へ送った密書です。
秀吉の没後は家康に忠誠を誓った一豊。
そんな折、千代の元に石田三成挙兵の知らせが届きます。
千代は一豊に密書を送り、家康に忠義を見せるため、その知らせを開封せずに家康に渡すよう指示。
結果として、家康は三成の挙兵を知ることができたうえ、一豊が開封しなかったことで「三成の味方をする意思はない」ということが伝わり、一豊に土佐を任せることにしたのです。

【直江兼続正室】お船の方


「愛」と掲げた兜をまとっていたことで知られる直江兼続にも、お船の方という賢妻がいました。
直江家の当主・景綱のもとに生まれたお船は、直江家に男子が生まれなかったため信綱を婿として迎えましたが死別。
その後、婿養子となったのが兼続でした。
3人の子宝に恵まれたものの全員他界してしまい、兼続・お船の方どちらも亡くなったことで直江家は断絶してしまいました。

お船の方の人柄:夫婦で力を合わせて主君への忠義を誓う

直江家はもともと上杉家(長尾家)の重臣でした。
上杉景勝の小姓として仕えてきた兼続もまた、上杉家に恩のあった一人。
その二人が景勝の命で結ばれたことで、主君への忠義はより一層強いものになりました。
お船の方は、景勝の正室・菊姫とともに秀吉の人質となったり、景勝の側室・四辻氏が定勝を産んだ後に他界した際には養育を担当したりするなど、上杉家へ誠心誠意尽くしました。
そのお船の方の働きがあったからこそ、兼続は戦で武功を挙げたりして上杉家へ忠誠を尽くすことができたのでしょう。
夫が集中して仕事に専念できる環境作りに長けていたと言えますね。

お船の方の逸話:母代わりとして定勝を育てる

お船の方の最たる功績は、母が亡くなってしまった上杉定勝を、母代わりとなり立派に育て上げたことでしょう。
兼続が亡くなった後も献身的に定勝を育て、定勝が二代目米沢藩主になった際には三千石もの高禄を賜りました。
また、聡明だったお船の方は、藩の内政についても相談されることが多かったようです。

戦国時代の妻たちは強くて美しかった

激動の時代を生き抜いた戦国時代の妻たち。
夫がいつ死ぬかもわからない状況でもなお、気丈に聡明にふるまい、妻として夫や家族、そして部下たちまでも支えてきました。
その姿は、現代を生きる私たちの参考にもなります。
時代が変わっても「夫を支えたい」を思う妻たちの気持ちは変わらないもの。
戦国時代の妻たちを参考に、日々の夫婦の在り方を見つめ直してみるのもいいですね。

<戦国時代の女たち>波瀾万丈! 武将の妻と戦国時代 (歴史群像デジタルアーカイブス)

書いた人

東北で生まれ育ち、現在は東京在住。3児の母として、縁のある土地の郷土料理を食卓に出したり、日本の伝統的な遊びを子どもたちと一緒にしたりしています。着付けを習ったりアンティーク着物を集めたりする趣味がある一方で、相撲やプロレス観戦も大好き。ペットの犬1匹・猫2匹を溺愛しています。