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2019.12.18

忠臣蔵とは?あらすじや登場人物、赤穂浪士のその後まですべてを解説

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師走といえば、風物詩の一つが「忠臣蔵」。以前は芝居や映画、テレビドラマでよく目にしたが、最近は「忠臣蔵って何?」という人も少なくない。ひと言でいえば仇討ち事件で、江戸時代の元禄15年(1703)12月14日にクライマックスを迎える元禄赤穂(あこう)事件のこと。「赤穂浪士の吉良(きら)邸討ち入り」である。

そういわれても、まだ「?」という方でも大丈夫。本記事をお読み頂ければ、討ち入り事件のあらましをつかむことができるはず。また本記事では、赤穂浪士47人の討ち入りの一部始終の物音を聞いていた、隣家の旗本・土屋主税(つちやちから)の証言を紹介してみたい。果たして討ち入りの瞬間、浪士たちは何を話し、どんな行動をとっていたのか。脚色を取り払って見えてくる、赤穂浪士の真実に迫る。では、「おのおの方、討ち入りでござる!」。

赤穂浪士討ち入りを、なぜ「忠臣蔵」と呼ぶのか

本題に入る前に、なぜ「忠臣蔵」と呼ぶのかについて触れておこう。そもそも忠臣蔵というフレーズは、寛延元年(1748)に大坂で上演されて人気を呼んだ人形浄瑠璃(じょうるり)のタイトル「仮名手本(かなでほん)忠臣蔵」に由来する。もちろん赤穂浪士の討ち入りをモデルにしたもので、あまりに人気だったので、歌舞伎にもリメイクされた。

「仮名手本」とは、寺小屋などで用いた、ひらがな47文字の習字の手本のこと。47文字を赤穂四十七士にかけている。また、時代設定を室町時代にし、登場人物の名前もすべて実名を用いず、「仮名」にしたことも意味しているという。なにしろ初演時は、実際の赤穂事件から50年も経っていないので、幕府の目が厳しかった。そして「忠臣蔵」は、赤穂浪士の忠誠心を蔵に収めたとも、リーダーの大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の蔵にかけたのだともいう。つまり「仮名手本忠臣蔵」とは、万人が手本とすべき忠臣の物語、という意味なのだ。

この間の遺恨、おぼえたるかっ! すべての始まり「刃傷(にんじょう)松の廊下」とは

内匠頭の「遺恨」とは何であったのか

では、討ち入りまでの事件の流れを紹介しよう。
「この間の遺恨、覚えたるかっ!(先日来の恨み、覚えているか)」
元禄14年(1701)3月14日午前9時頃。江戸城内の松の廊下に怒声が響き、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり、35歳)が、幕府高家(こうけ)の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ、61歳)に小刀で斬りつけた。吉良は眉間(みけん)と背中を斬られるも傷は浅く、内匠頭は居合わせた者に取り押さえられた。目の前の吉良を仕損じていることから、内匠頭が何かの理由で逆上していたことが窺(うかが)える。

刃傷松の廊下を描いた歌川豊国(三世)「忠勇義臣録第三」

その日は、朝廷から派遣された勅使と院使が、将軍に年賀の答礼を行う儀式の最終日であった。松の廊下は、儀式を行う白書院に通じている。播磨(現、兵庫県)赤穂藩主の浅野内匠頭は、勅使饗応(きょうおう)役(接待役)を務めており、その礼儀作法の指南をしていたのが、高家の吉良である。高家とは幕府の儀式・典礼を司る役職で、任じられるのは名門の家柄に限られていた。

では、内匠頭はなぜ吉良に斬りつけたのか。実は、「遺恨」が何であったのかはわかっていない。よくいわれるのは、吉良へ賄賂(わいろ)を渡していなかったため、様々な嫌がらせを受けた、赤穂の塩田の技術を吉良に盗まれた、吉良が虚偽の指導をして内匠頭を翻弄した、などがある。単純に吉良を悪人と決めつけるわけにはいかないが、気位が高く、鼻もちならないところはあったようだ。一方の内匠頭は接待役で心身が疲労し、精神的なバランスを崩していたのでは、といわれる。

即日切腹とおかまいなし

いずれにせよ、江戸城内で刃傷(にんじょう)沙汰を起こして、ただで済むはずがない。確実に切腹である。内匠頭は別室に控えさせられ、その後、芝愛宕下(しばあたごした)の一ノ関藩田村屋敷に罪人の扱いで預けられた。一方の吉良は、傷の応急手当てを受けた後、取り調べを受けている。ポイントは、内匠頭の言う遺恨に心当たりはあるのか、また斬りかかられた際、刀に手をかけたか、であった。吉良の返答はどちらも「いいえ」。吉良は城を退出し、屋敷で養生することになる。

吉良上野介像

刃傷事件を耳にした徳川5代将軍綱吉(つなよし)は、激怒した。重大な儀式を血で穢(けが)されたと感じたのである。儀式は場所を変え、つつがなく行われたが、綱吉は収まらず、その日の午後4時頃、裁定を下す。すなわち浅野内匠頭は、即日切腹、赤穂藩は取りつぶし。普通であれば切腹は免れないにしても、幕府老中(ろうじゅう)が時間をかけて審議すべき案件だった。しかも内匠頭の切腹は屋敷内でなく、田村屋敷の庭先で行うという。これはさすがに、5万3,000石の大名にふさわしくないと現場でも反対意見が出たが、将軍の意向を受けた老中の命令では逆らえない。一方の吉良は、「場所柄をわきまえ、手向かいをせず、神妙の至り」として、「おかまいなし」となる。

今日のことはやむを得ず

当時は「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」の慣習があり、喧嘩が起きた場合には双方に非があるとして、両者の言い分を吟味した上で、裁定するのが通例であった。ところが今回は将軍綱吉が独断で、内匠頭を加害者、吉良を被害者としている。それは儀式を妨げた内匠頭への悪感情が先に立つもので、内匠頭のみに非があると決めつけた一方的な裁定だと、多くの者が感じていた。このことがのちの赤穂浪士の行動にも、大きく影響するのである。

内匠頭は田村屋敷の庭先で、午後6時頃、切腹した。その直前、内匠頭は家臣たちに事情を書き置くために、紙と筆を求めるが、書面を残すことは許されず、口頭で話す内容を田村家の者が書き取るかたちになる。それは次のようなものであった。

「かねてから知らせておこうと思ったが、その暇もなく、今日のことはやむを得ず行ったことである。さぞや不審に思っていることだろう」

謎めいた文面である。しかし、吉良に斬りつけたことが、かねてから考えていた、やむをえない事情があったと伝わってくる。浅野家家臣にすれば、「苦しい心中をわれらにお話しくだされておれば…」と感じたかもしれない。詳しい理由はわからないにせよ、自分の命も、赤穂浅野家も、家臣の生活も、すべてなげうって刃傷に及んだにもかかわらず、吉良を討ち損じ、無念のうちに内匠頭が最期を遂げたことは明らかだった。家臣らは主君の亡骸を田村屋敷から運び出し、高輪の泉岳寺に葬った。

赤穂城を無血開城へと導いた大石内蔵助

お家お取りつぶしの衝撃

江戸から播州赤穂(現、兵庫県赤穂市)まで155里(約620km)。普通の旅人であれば、18日程度の旅程となる。3月14日夕方、浅野内匠頭が刃傷事件を起こしたことを知らせる早駕籠の第一便が江戸を発し、19日の夕方に赤穂に到着して、筆頭家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)以下を驚かせた。第一便は刃傷事件発生を知らせるのみだったが、その後、続々と知らせが届き、内匠頭の切腹、赤穂浅野家の領地没収、家名断絶の処分が伝わった。

大石は新たな情報が入るたびに家臣一同を登城させ、状況を説明している。主君の切腹、お家お取りつぶしという青天の霹靂(へきれき)のような出来事に家臣らは驚愕し、茫然自失となる者、憤(いきどお)る者も少なくなかった。何しろ家臣一同主家を失い、赤穂からも追われ、家族とともに路頭に迷うことになるのである。

籠城か、殉死か、それとも開城か

その後、ある程度状況が判明し、幕府が赤穂城接収に向けてすでに動いていること、広島の浅野家本家からも、おとなしく城を明け渡すよう勧めてきていることを踏まえた上で、大石は3月27日から3日間、城の大広間で大評定を開いた。赤穂浅野家の方針を決めるためである。

赤穂城跡

評定では「籠城し、城を枕に討死すべき」「追い腹を切って、主君に殉ずるべき」「吉良の屋敷に斬り込もうではないか」と過激な意見も多数出たが、大石には別の思惑があった。すなわち、内匠頭の弟である浅野大学を立てて、浅野家を再興することである。それがかなえば、家臣たちが路頭に迷うことはなくなる。また存命の吉良には何らかの処分を幕府に願い、亡君の無念を晴らす。実現は容易ではないが、浅野家再興に一縷(いちる)の望みを託し、4月に赤穂城の開城が決まった。

城を明け渡す直前、大石は家臣たちに分配金を渡している。いわば退職金だが、額は役職で異なり、中小姓で14両、徒士(かち)で10両など。1両を現在の10万円程度と考えれば、決して多い額ではない。家臣らの財産が分配金だけということはなかったろうが、それにしても職も住居も失う家臣らは、お家再興がかなうまで、先行き不安な浪人の身となったのである。

浅野家再興を目指した1年余り

「昼行灯」と呼ばれた男

ところで、映画やドラマで描かれる大石内蔵助といえば、たいてい貫禄のある二枚目俳優が演じる。たとえば大河ドラマの「赤穂浪士」(1964年)では往年のスター長谷川一夫、「元禄太平記」(1975年)では江守徹、「峠の群像」(1982年)では緒形拳、「元禄繚乱」(1999年)では中村勘三郎(当時は勘九郎)、映画「決算! 忠臣蔵」(2019年)では堤真一といった具合だ。しかし、史実の大石は、必ずしもそうしたイメージではない。筆頭家老ではあっても財政手腕に乏しく、あまり目立たない存在で、「昼行灯(ひるあんどん)」というあだ名だった。昼行灯とは、いてもいなくても変わらないという意味だ。梅干し顔のオヤジで、風采もあがらなかったという。そんな大石が危機に際し、試行錯誤しながらも赤穂浪士を見事にリードしていくのだから、人間とはわからないものである。

なぜ山科に移り住んだのか

赤穂城の明け渡しが済むと、6月末に大石は家族とともに赤穂を去り、山科(現、京都市山科区)に移り住んで、田畑を開墾し始めた。もちろんそれは仮の姿で、近くに街道が走る山科は、赤穂から京都や大坂に移った浪士たちと連絡を取るのに都合がよかったのである。

山科

山科で大石は、熱心に浅野家再興運動を進めていく。浅野家ゆかりの寺の住職を2度江戸に送り、将軍綱吉が帰依(きえ)する護持院の僧隆光(りゅうこう)に働きかけ、また内匠頭のいとこにあたる大垣藩主の戸田氏定(とだうじさだ)にも協力を嘆願した。内蔵助の依頼内容は、「刃傷事件によって、幕府より閉門(自宅謹慎)を命じられている浅野大学(内匠頭の弟)を許し、浅野家を再興すること。また吉良の出仕(公の勤め)を止め、浅野家の面目を立てること」である。大石はあくまで「喧嘩両成敗」にこだわり、吉良の処分を行った上で(内匠頭よりはるかに軽いが)、浅野家が再興されることを望んだのである。大石はお家再興のための嘆願を、翌年の7月まで、1年余り続けた。

江戸の急進派と吉良屋敷の移転

その間、他の浪士たちがおとなしくしていたかといえば、そうではない。特に吉良が暮らす江戸では、「即刻吉良を討つべし」という強硬論を唱える急進派たちが、大石のやり方に異を唱えていた。その中には、「高田馬場の決闘」で知られる剣客の堀部安兵衛(ほりべやすべえ)もいる。彼らが強硬論を唱える背景には、「ご公儀(幕府)の裁定は不公平ではないのか」「浅野の侍はいつ吉良屋敷に討ち入るのか」といった、江戸市中でささやかれる多くの声もあった。

しかも8月には、幕府の命令で吉良は呉服橋門内から本所松坂町へと屋敷を移される。呉服橋門内は江戸城の内郭であり、おいそれと騒ぎは起こせないが、隅田川を渡った本所であれば、話は別だ。江戸市中でも「ご公儀は、赤穂の浪人に仇討ちさせるつもりではないか」という噂が流れたという。こうした中、大石は11月に江戸に赴き、急進派の説得にあたる。なかなか妥協点は見出せなかったが、浅野家再興の見込みがなくなれば、すぐに討ち入りをするということで、話をまとめた。

家族の離縁と遊郭通い

年が明けて元禄15年(1702)。亡き浅野内匠頭の一周忌が過ぎても、浅野家再興には動きが見られない。また前年12月に吉良上野介が隠居しており、息子が養子に入っている上杉家に引き取られる可能性が出てきて、浪士たちに焦りの色が見え始める。上杉家15万石が相手となると、討ち入りは極めて困難になるからだ。4月に大石は、息子主税(ちから)以外の家族を離縁した。討ち入りを実行した際、家族にまで累が及ばぬようにするためである。

祇園界隈

この頃から大石は、山科から京都に繰り出して遊ぶようになる。映画やドラマなどでは、遊びに呆けてもはや討ち入りする気概はないと、吉良側を油断させる演技であったように描かれるが、実際は本当に遊び好きだったようだ。祇園の茶屋「一力(いちりき)」は、もともと「万屋」と称し、大石が遊んだことで有名だが、祇園や島原だけでなく、もっと安価な伏見の撞木(しゅもく)町によく通っていたという。もっとも単に遊び好きだったというよりも、進展しないお家再興と、討ち入りを急かす浪士たちの突き上げからくるストレスを、発散させるためであったようにも思える。

お家再興ならず! 残る選択肢は「討ち入り」のみ

仇討ちを決めた「円山会議」

元禄15年7月、大きな転機が訪れる。閉門中の浅野大学に対する幕府の処分が決まり、広島の浅野本家にお預けとなったのだ。つまり、大石が懸命に進め、家臣たちが待ち望んでいた浅野家再興の夢は、潰(つい)えたのである。さすがの大石も、知らせを受けた時には顔色を失ったという。

京都

しかし、こうなった以上、大石も覚悟を固めなくてはならなかった。7月28日、最終方針を決めるため、京都の円山(まるやま)に家臣らを集める。いわゆる「円山会議」である。その席で大石は、浅野家再興の望みがなくなったことを伝え、幕府の裁定が「喧嘩両成敗」に反する一方的なものであること、このままでは亡き主君と赤穂浅野の者の面目が立たないことを強調して、「かくなる上は、江戸に赴き、吉良上野介の首を申し受けねばなるまい。ご一同の存念を承りたい」と諮(はか)った。

大半の家臣が望んでいた浅野家再興

円山会議には19人の家臣が参加していた。もとより彼らの多くは仇討ちを主張していたので、「ご家老もようやく決心なされたか」といった雰囲気であったというが、すべての家臣がそうした思いであったわけではない。むしろ大石が進めていた、浅野家再興に期待を寄せていた者の方が多かった。

そもそも本来、仇討ちは主家に届け出て、幕府の承認を得て許されるもの。今回は幕府の裁定に異を唱えるものであり、たとえ吉良を討って面目が立ったとしても、幕府は仇討ちと認めず、処断される可能性が高い。まして吉良を討ち損じれば、末代までの笑い者となる。多くの家臣が、将来のない仇討ちよりも、お家が再興され、再び平和な生活に戻りたいと考えるのも無理はない。

赤穂の武家屋敷

円山会議での決定を機に、それまで連絡を取り合っていた家臣130人のうち、半数以上が去っていった。すでに赤穂城には別の大名が入り、故郷に帰ることは絶望的になったこと、また浅野大学の処分が決まったばかりなのに、仇討ちに方針を切り換えるのは性急だと考える者も少なくなかったことがある。大石は残った者を仇討ちの同志とするが、討ち入り直前まで脱落者は続いた。

浪士らと吉良家の水面下の駆け引き

吉良邸内部の様子を探る

吉良邸討ち入りが決まると、上方の同志たちは続々と江戸に向かった。彼らは怪しまれぬよう変名を使い、職業も医者、剣術の指導者などと偽って、少人数で連れ立って江戸に入り、15ヵ所に分かれて住んだという。大石は11月5日に江戸に入ると、すでに息子の主税が宿泊していた日本橋石(こく)町の宿に同宿した。時に大石は45歳、息子主税は16歳。

討ち入りにあたっての最大の課題は、吉良邸内部の様子と、吉良が確実に在宅するのはいつなのかを探り出すことである。吉田忠左衛門(よしだちゅうざえもん)はすでに63歳ながら兵学に通じており、大石を支える副将格であった。吉田は夜な夜な吉良邸周辺を歩き、どんなコースで討ち入るべきか、上杉家から吉良の助勢が来た場合、どこで迎え撃つかを綿密に検討している。討ち入りにあたり、火消装束で火事場に駆けつけるように見せかけるというアイデアも、事前検討から生まれた。

吉良邸跡の本所松坂町公園

前原伊助(まえはらいすけ、40歳)と神崎与五郎(かんざきよごろう、38歳)は、吉良邸裏門近くの本所相生(あいおい)町に共同で小豆や米を安く商う店を開き、客として来る吉良邸の女中や若侍と親しくなって、内部の様子を探った。また毛利小平太(もうりこへいた、討ち入り直前に脱落)は、他家の中間(ちゅうげん)として広大な邸内に入ることに成功、噂されていた竹矢来や落とし穴はなかったと報告する。芝居などで有名なのが岡野金右衛門(おかのきんえもん、24歳)の「恋の絵図面」で、吉良邸の女中お艶(つや)と岡野が恋仲になり、大工であるお艶の父親が手がけた吉良邸改築の絵図面を手に入れるというものだが、残念ながらこれはフィクションである。

赤穂浪士の倍近い人数が詰めていた吉良家

一方、吉良家では、「赤穂浅野の旧臣が仇討ちをするのではないか」という江戸市中の噂に神経をとがらせ、屋敷を改築した。その際、大工や使用人の身元を厳重に調べ、少しでも不審な者は暇を出し、代わりに信頼できる者を国元から呼び寄せている。

映画のセットとして復元された上杉家上屋敷

また米沢藩上杉家より出向し、吉良邸を警戒する武士たちもいた。上野介の正室は上杉家の出身で、上野介の実子綱憲(つなのり)を上杉家に養子に出し、その後、上野介に実子が生まれなかったので、今度は綱憲の子義周(よしちか)を上野介の養子として迎え入れている。そうした結びつきの深さから、上杉家の武士が護衛にあたっていた。他に吉良家で雇った者たちもいて、討ち入り当夜、吉良邸を守る人数は、赤穂浪士の倍近い89人に及んでいたのである。

天下に仇討ちの意志を示すために

決行は内匠頭の命日14日

吉良上野介が、確実に屋敷にいるのはいつなのか。その情報を探り、12月5日夜と突き止めたのは、大高源五(おおたかげんご、32歳)だった。茶道や俳諧(はいかい)をたしなむ大高は、茶人の山田宗徧(やまだそうへん)に弟子入りし、12月6日に吉良邸で茶会が開かれることをつかんだのである。大石以下、浪士たちは5日を討ち入り日に決め、準備を進めるが、直前に茶会は中止となった。将軍綱吉が、側用人柳沢吉保(やなぎさわよしやす)を訪問する日と重なり、市中の警戒が厳しくなったためである。大石らも、討ち入りを延期せざるを得なくなった。

しかしほどなく、12月14日に吉良邸で「年忘れの茶会」が開かれるという情報を横川勘平(よこかわかんぺい、37歳)がつかむ。吉良邸に出入りする懇意の僧から、茶会の案内状の代筆を頼まれたのだ。大石は念のため、大高源五にも確認させると、大高の師・山田宗徧も14日に吉良邸で茶会があると話したという。かくして大石は、12月14日の夜に討ち入り決行と定めた。14日といえば、奇しくも亡君・浅野内匠頭の命日である。浪士らは不思議な因縁を感じつつ、準備を進めた。

討ち入りに関する取り決め

討ち入りに先立ち、大石は12月2日、同志を深川に集めている。そこで4ヵ条の起請文(きしょうもん)を示し、亡君のために上野介を討ち取ること、自分の手柄ではなく、チームプレーを優先すること、仇討ちが成功しても、自分たちの命はないと覚悟を決め、最後まで全員が結束することを確認。

泉岳寺の大石内蔵助像

また16ヵ条の心構えとして、討ち入りの日にはひそかに3ヵ所に集合し、最終的な集合場所は本所林町五丁目の堀部安兵衛宅とすること、味方の負傷者は多いと予想されるので、助けて引き揚げること、引き揚げられない重傷者は首を落として引き揚げること、上野介を討ち取ったら、合図の小笛を吹くこと、引き揚げる場所は無縁寺(回向院)とすること、引き揚げの際、吉良屋敷から追手が来たら、全員踏みとどまって戦うこと、近所の屋敷から人数が出てきたら、挨拶をして事実を告げ、自分たちは逃げるつもりはなく、無縁寺にて公儀ご検分の使者をお待ちすると伝えること、などを取り決めた。なお、討ち入り時には表に趣意書の口上を掲げ、天下に仇討ちの意志を示すことにした。

映画やドラマでは、討ち入り前に浪士らが蕎麦屋の二階に集合し、準備したように描かれるが、実際は異なり、3ヵ所で準備を整え、吉良邸に近い堀部安兵衛宅に集合したことがわかる。また浪士らが黒地に袖が白のギザギザ模様の揃いの羽織を着ているのもおなじみだが、実際の取り決めは「黒の小袖」を着ること。一見火消装束に似ているが、鎖帷子(くさりかたびら)を着込み、手甲、脚絆(きゃはん)、鎖の入った帯を締めていた。これらの備えが、浪士らの命を守ることになる。

元禄15年12月14日深夜の物音

『鳩巣小説』が記す土屋主税の証言

本所松坂町の吉良邸は大邸宅である。無縁寺こと回向院の東に位置し、総坪数は2,550坪(サッカーコートよりも一回り大きい)、建坪だけで846坪もあった。その北隣に塀一枚隔てて隣接するのが、旗本の土屋主税(つちやちから)と本多孫太郎(ほんだまごたろう)の屋敷である。赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったその夜、本多は不在であったが、土屋は在宅しており、浪士らと言葉を交わして、塀越しに物音の一部始終を聞いていた。討ち入りの翌日、土屋と親しい新井白石(あらいはくせき、後の6代将軍家宣〈いえのぶ〉側近)がそれを聞き、さらに白石と同門の学者・室鳩巣(むろきゅうそう)が『鳩巣小説』に白石が聞いた内容を記録した。以下、同書に載る土屋主税の証言から、討ち入りの実態を紹介してみよう。

吉良邸(赤い線の囲み)の北隣だった土屋邸

武士は相身互い

元禄15年12月14日の深夜(新暦では1703年1月30日の早朝午前4時頃)、竹を押しつぶすような物音に土屋主税は気づいた。江戸時代は夜が明けると日付が変わるので、当時の人々の感覚では14日深夜である。まさにその時刻、赤穂浪士47人による吉良邸討ち入りが始まっていた。大石率いる一隊は表門から、大石主税、吉田忠左衛門率いる一隊は裏門から、門扉を打ち破り、吉良邸に突入したのである。土屋はまだ暗い庭に出て、家来らもそれに続いた。

吉良邸討ち入り(『赤穂義士誠忠畫鑑』より)

ほどなく、赤穂浅野家旧臣吉田忠左衛門の使いの者が土屋邸に近づき、塀越しに挨拶をした。

「我ら浅野内匠頭家来ども、主人の敵(かたき)ゆえ、ただ今吉良上野介殿屋敷に押し込みました。騒ぎに及ぶことと存じますので、あらかじめご案内申し上げます。武士は相身互いと申します。我らが吉良殿を討ちますこと、どうかお構いなくお願いいたします」

 

口上を聞いた土屋主税は「心得申した」と返事するとともに、家来に塀際に高張提灯(たかはりちょうちん)を掲げさせ、「塀を乗り越えて来る者がいたら、弓で射落とせ」と命じ、自らは床几(しょうぎ)に腰を据えて、事の次第を見守ることにした。物音は手に取るように伝わってきた。

護衛の者たちを圧倒した赤穂浪士

赤穂浪士らは、討ち入りに気づいて出て来た吉良邸護衛の者たちと斬り合うが、入念に準備を整えた浪士側に分があり、護衛の者たちは一方的に倒された。中でも一番の働きは不破数右衛門(ふわかずえもん、34歳)で、一体何人を倒したのか、刀がのこぎりのように刃こぼれしていたという。

『曽我忠臣蔵錦絵并番附集』より歌川国芳「忠臣蔵夜討図(部分)」(国立国会図書館蔵)

庭には前日の雪が積もり、未明の弱い月の光が照らす。邸内に押し入った浪士らは龕灯(がんどう、正面のみを照らす提灯)を用い、廊下に蝋燭(ろうそく)を立てて灯りとしながら、上野介の寝所を探した。討ち入りから約1時間で護衛の者の抵抗は止んだが、寝所から上野介は消えていた。この辺の事情は、音を聞くだけの土屋にはわからない。次に土屋が耳にしたのは、浪士らの声だった。

騒動を起こし、ご迷惑をおかけいたしました

落ち着いて、よく探せ

「残念だ」「取り逃がしたと見える」「探しても見当たらぬぞ」と、浪士たちが口々にもらすのが、土屋に聞こえてくる。さらに吉田忠左衛門とおぼしき声で「少しも案ずることはない。見つからなければ夜が明けて、明日一日かけてでも探しだせばよいのだ。落ち着いて、よく探せ」と下知があった。

なにしろ吉良邸は広く、照明も十分届かない中、上野介を見つけるのは容易ではない。浪士らは湯殿、便所、床下、天井裏まで探すが、見当たらなかった。浪士らの探索がさらに1時間近く続き、空が白み始めた頃、台所近くの炭小屋から、かすかな人の声がするのを間十次郎(はざまじゅうじろう、26歳)が気づく。間が扉を蹴破ると、中から3人の男が飛び出してきて、浪士らと斬り合いになった。これをなんとか倒し、炭小屋の中をうかがうと、まだ人の気配がある。間が槍で突くと手ごたえがあり、武林唯七(たけばやしただしち、32歳)が飛び込んで一太刀浴びせ、外に引きずり出した。見ると白小袖(しろこそで)姿の老人で、これが吉良上野介だった。

本懐を遂げたのは格別のこと

夜明け前、「本当のことを言わぬか」と大声で誰かが言うのが土屋に聞こえ、また別の者の「額の古傷を見よ」と言う声もした。上野介本人であるかを確認していたのだろう。しばらくすると、大勢がワッと泣き声を上げた。これは上野介の首を打ち、本懐を遂げた悦びの声であったろうと土屋は語る。

『曽我忠臣蔵錦絵并番附集』より歌川国芳「義士本望を遂ぐるの図」(国立国会図書館蔵)

その後、再び吉田忠左衛門の使いの者が来て、塀越しに土屋主税に挨拶をした。「ただ今、吉良上野介殿を討ち果たしました。顔を知る者に確認いたしましたところ、まぎれもなく上野介殿であるとのことです。御首(みしるし)をあげる狼藉はやむを得ないことながら、騒動を起こし、ご迷惑をおかけいたしました。すべて済みましたこと、ご報告いたします」と告げ、そのまま引き上げた。

以上が、土屋主税が聞き、『鳩巣小説』に記された討ち入りの際の物音のすべてである。翌日、土屋主税を訪問し、直接話を聞いた新井白石は、「土屋方に仇討ちの経験のある浪人者がいて、当日、やはり討ち入りの様子を目のあたりにしていたが、自分はなかなか赤穂浪士のように冷静に振る舞うことはできなかったと語っていた。討ち入るまでに色々と準備を整えるのは当然だが、一つの滞りもなく討ち入りを終え、本懐を遂げたのは、格別見事なことである」と話したという。

日本人と忠臣蔵

赤穂浪士のそれから

討ち入りを終えた赤穂浪士は、浅野内匠頭の眠る泉岳寺に赴き、墓前に本懐を遂げたことを報告。また吉田忠左衛門らは幕府大目付の屋敷に寄り、討ち入りの顛末と、われらは逃げ隠れせず、ご公儀の沙汰を待つと伝えている。大目付から将軍に討ち入りが報告されると、意外にも将軍綱吉は「あっぱれな者ども」とその忠義に感動したという。もとはといえば、綱吉自身の一方的な裁定から、この事件は起きたのだ。とりあえず大石ら浪士は4家の大名に分けて、預けられた。なお吉田忠左衛門の家来である寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん、39歳)は、浅野家旧臣ではないということで、同志たちと別れ、姿を消している。

泉岳寺の報告(『赤穂義士誠忠畫鑑』より)

赤穂浪士の処分については、学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)の意見が採用された。すなわち「仇討ちは義であるが、刃傷の罪で切腹した浅野内匠頭の仇討ちは、法的に許されるものではない。個人の利に走った行動であり、それを許せば天下の法は成り立たない。浪士らは法に照らし、切腹とするのが妥当である」。幕府の体面を重んじた処分ではあるが、当時、切腹は武士にとって名誉ある死であり、大石らの面目は立つ。そもそも幕府の一方的な裁定から起きた仇討ちではないかと、切腹命令に怒る人々も少なくなかったが、今回は吉良家も断絶となり、吉良の実子・上杉綱憲も遠慮謹慎に処されたので、その声も次第に鎮まった。大石内蔵助以下赤穂浪士46人は、元禄16年(1703)2月4日に、それぞれ預けられた屋敷で全員切腹。こうして事件は幕を閉じた。

なぜ忠臣蔵は日本人に愛されるのか

さて、忠臣蔵や赤穂浪士というフレーズに「?」という方、元禄赤穂事件のあらましを、多少なりともおわかり頂けただろうか。今でこそ忠臣蔵を知らない人も少なくないが、江戸から現代に至るまで、連綿と日本人に愛され続けてきた物語である。ではなぜ、それほど日本人の心を打つのだろう。

色々な要素があるだろうが、一つに、単なる忠誠心に篤い人々の物語ではなく、むしろ理不尽に直面した人々の悲喜こもごものドラマだからこそ、共感し、感情移入ができるのではないだろうか。吉良の内匠頭への嫌がらせも(事実かどうかは別にして)、将軍綱吉の一方的な裁定も、浅野家再興を許さない処分も、当事者たちにとって理不尽きわまるものであったはず。腹を立て、絶望もする大石や浪士たちは等身大の人間として、現実の生活で理不尽を感じている私たち自身とも重なる。

だからこそ、理不尽に屈し、長いものに巻かれてしまう弱い者の気持ちもわかるし、逆に相手が幕府であろうと、自分たちの誇りのために理不尽に立ち向かう赤穂浪士の姿には、喝采を送りたくなるのだろう。新井白石が称えた、赤穂浪士の非の打ちどころのない仇討ちは、理不尽に耐え、苦労を重ねながら、自分たちの目指すもののために、周到な準備を進めた努力の賜物なのである。

また、吉良邸討ち入りに際し、隣家の土屋主税は一切邪魔立てをせず、赤穂浪士らを見守った。そこにあったのは、浪士らの苦しい境遇を、同じ武士として共感する土屋の「武士の情」であった。他にも浪士たちは多くの人々の情や支えによって、ようやく討ち入りにこぎつけ、本懐を遂げるのである。世の中は理不尽なものだが、同時に大変な目にあっている人に心を通わせ、力を貸そうとする人々の「情」も間違いなく存在する。つらいことも多いが、世の中は決して捨てたものではないということも、赤穂浪士の物語を通じて再確認できるのだろう。史実の元禄赤穂事件にそうした本質があるからこそ、脚色された「忠臣蔵」が長く日本人に愛されているのではないだろうか。

忠臣蔵や赤穂浪士をこれまで知らなかったという人も、この機会に一度、映画や芝居でその世界をのぞいてみることをおすすめしておきたい。登場人物に共感するうちに、もしかしたら、今の自分が直面する壁に向かっていける何かが、心の中に生まれてくるかもしれない。

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参考文献:室鳩巣『鳩巣小説』、中江克己『忠臣蔵の謎』 他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。