戦国時代の楽しみの一つが、武将のプロフィールを探ることである。ほほう、そういう関係があったのか。道理で…。ははーん、なんとまあ、えらいことをしたもんだ、とほくそ笑む。そうして、合戦の様子を思い描く。多くの武将が参戦する大きな合戦であれば、さぞや様々な旗がはためいたことだろう。
さて、そんな軍旗には一体何が描かれているのか。遠くからでもわかるようなデザイン、それも武将自らが施しているものもあれば、家紋がそのまま描かれているところも。
そこで今回は「家紋」のお話。有名どころからレアなデザインのものまで、戦国武将の家紋を、その由来とともにご紹介しよう。
家紋の由来は平安時代の公家の牛車?
まず、最初の疑問から。そもそも「家紋」はいつから始まったのか。
結論からいえば、「ズバリこれが家紋の起源」という線引きは難しい。最初に使われた「家紋」が確定されていないのだ。というのも、人々の持つ「家紋」のイメージの前提が違うからだ。例えば、「このマークを家紋にする」と決めてから、使い出したわけではない。実際は、なんだかずっと使っているうちに、いつしか「この紋章って…あの人の、あの家の、あの一族ね?」と広がり、定着していく。つまり、既成事実が先。それから意識して使用するようになり、その後は、逆に「うちの家紋です」と認識してもらうという流れなのだ。
もともと、隋や唐など大陸から入ってきた文様は、日本文化独自の発展を遂げていく。日本固有の草花、動物などを加え、「襷(たすき)」や「小葵(こあおい)」などの有職(ゆうそく)文様へと変化する。これらの美しい文様を、平安時代の公家は、好んで装束や調度品など、身の回りの物に取り入れたのだとか。それが、いつから家紋として定着したかについては、3つの説があるという。
江戸時代の学者である新井白石(あらいはくせき)は、特定の文様がそれぞれ貴族の牛車(ぎっしゃ)につけられ、文様をみて誰の牛車かが分かるようになる、これこそが家紋の始まりだと『神書』で考察している。
これに対して、平安時代末期を起源とする説もある。江戸時代の学者、伊勢定丈(いせさだたけ)は、『四季草』で、平安時代末期に起こった「保元・平治の乱」の頃だとする。さらに、もう少しあとだと考察するのは、江戸時代の学者、山鹿素行(やまがそこう)である。『武家事記』で、武家が鎌倉時代初期に、本格的にシンボルとして使用したのが起源だというのだ。
どちらにせよ、平安時代後半から鎌倉時代には、人々の間で「家紋」の認識があったことが理解できる。こうして、家紋は鎌倉時代、室町時代へと様々な文様に広がりを見せていく。
信長、秀吉、家康の家紋は?
では、戦国武将の家紋はどのようなものだったのか。
まずは、有名お三方からみていこう。織田信長の家紋は、言わずと知れた「織田木瓜(もっこう)」である。
「木瓜」じたいは、平安時代に、公家の徳大寺実能(さねよし)が使用していたと記録されている。「瓜」の表面や鳥の巣などを図案化したものといわれており、子孫繁栄の意味合いがあるのだとか。信長の先祖が、越前の朝倉氏から妻を迎えた際に与えられたという。
次に、豊臣秀吉の家紋である。「太閤桐(たいこうぎり)」と呼ばれている。
もともと「桐」は非常に格調高い木として、『枕草子』では「鳳凰(ほうおう)の棲む木」として記されているのだとか。天皇家専用の紋として「桐」と「菊」があり、功績があった将軍に対して使用が許された。実際に、足利尊氏も、織田信長も、そして豊臣秀吉にも使用する許可が与えられている。
なお、一見して同じような家紋でも、じつは、よく見ると細部が異なる。例えば「桐」は花の数で分類されている。「太閤桐」は、中央に花弁が7枚、左右に5枚ある「五七の桐」。これに対して、中央の花弁が5枚、左右が3枚となれば「五三の桐」となる。他にも「九七の桐」など、バリエーションがまだまだあるという。
「桐」に限らず、同じような家紋を本家と分家、主君と家臣などで、家紋の形を少しずつ変えて使う。そのため、家紋の数は膨れ上がり、現在では2万種類以上も。その増殖は想像以上である。
さて、次は徳川家康の家紋、「三つ葉葵」である。
この「葵」は、京都の賀茂神社の神紋で、氏子だから使用した説や、家康本人が考案した説もある。徳川御三家(尾張、紀州、水戸)も「葵」紋を使うが、葉脈の数や茎の太さなどが異なっているのだとか。
ちなみに、天皇家は徳川家康に「桐」の紋を与えなかったのか。じつは、与えようとしたところ、「うちは結構」と断られたのだという。「葵」紋に対する家康のこだわりが半端ないといえる。
驚きの戦国武将の家紋事情
他にも、戦国時代に活躍した武将の家紋をみていこう。
まずは、わかりやすい前田家の家紋、「加賀梅鉢」だ。神社で見たことがある方ならば、ピンときたかもしれない。この家紋は、大宰府に飛ばされた菅原道真を祀った菅原神社の神紋「梅」を由来とする。「梅」といっても、その種類は様々。福岡の大宰府天満宮は「梅花」、京都の北野天満宮は「星梅鉢」、東京の湯島天神は「梅鉢」である。では、なぜ前田家がこの家紋なのかというと、前田利家が菅原道真の末裔だと称しているからだ。そのため、道真ゆかりの「梅鉢」を家紋としている。
島津家の家紋はじつにわかりやすい。十文字に丸だ。この家紋には様々な説がある。二匹の龍を表している、いやいや、厄災を払う呪符的な役目があるなど、実に興味深い。ちなみに、最初は十字のみであったが、キリスト教に対する禁教令が出たことで、十字架との区別をするためにあとから丸を付け足したともいわれている。
滋賀県彦根城で有名な井伊家は、四角い枠のみ。これは、単なるデザインではない。ちゃんとした意味がある。一体、四角い枠は何を表しているかというと、実はそのまんまの「井戸」である。そう、井伊家の家紋は「井桁(いげた)」。井戸の上部の縁なのだ。何やら井伊家の祖先の共保(ともやす)が、井伊谷八幡宮の井戸の中から生まれたという伝承があり、そこから取ったものだという。
石田三成の家紋は非常に珍しい。「大一大万大吉」である。文様ではなく文字なのだ。これは、万人と天下の平和を掲げ「一人が万人のために、万民が一人のために尽くせば天下大吉となる」との意味があるそうだ。はて、どこかで…と遠い目をしながら、「one for all all for one」を思い出し、「ラグビーかよっ」と突っ込みそうになった。一方で鎌倉時代に木曽義仲を射落とした「石田為久」が同じ家紋だったとか。血族としては全く関係ないのだが、このエピソードから家紋を使ったともいわれているが、定かではない。
さて、この他にも変わった家紋をご紹介。
柴田勝家の「二つ雁金(かりがね)」は二羽の鳥が羽ばたいている家紋だ。描かれている鳥は雁(がん)で、雌雄一対となっている。よく見れば、二羽の雁は口が開いているのと閉じているのとで異なっている。「阿吽(あうん)」を表しているのだとか。柴田勝家は、信長の死後に秀吉と対立、「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」で敗北し、妻のお市と共に自害している。そのため、地元では二羽の雁は、勝家とお市だといわれているという。
今川義元の家紋もユニークだ。なんでも「櫛(くし)」のような形をしている。その名も「赤鳥(あかとり)」。また、鳥かと思いきや、普通に当て字である。じつは、この「あかとり」は「垢取り」からきている。馬具の垢取りのことだ(諸説あり)。どうしてわざわざ「馬具」を家紋にするのか、理解に苦しむところだが、これには今川家の祖、範国(のりくに)が神託を受けたからだと説明されている。それならば仕方ない…と納得できるかは疑問だが、デザイン的には変わったタイプの家紋で、遠くからでもわかりやすいメリットはある。
様々な家紋を紹介してきたが、じつに家紋の持つ意味や由来、デザインなどバラエティーに富んでいる。
家紋は象徴だ。武将を表し、家を表し、一族を表す。当初は宮中へ参内する公家や貴族が、自分の「牛車」を見分けるだけだったのかもしれない。始まりは、便利さを追求しただけの偶然の結果にすぎなかったともいえる。しかし、時を経て家紋は「顔」となり、さらに個人のアイデンティティを抜け出し、家臣や兵をまとめるための象徴へと変わる。つまり、もはや家紋の内容は関係ないということだ。信念であろうが、祖先の原点であろうが。それこそ馬具でも構わない。既に、家紋以上に武将の存在が家臣や兵の拠り所となるからだ。
戦場ではためく旗に見える家紋。それを見てどんなに安堵したことだろう。その気持ちを考えただけで、家紋の役割は十分に果たせているのではないだろうか。
参考文献
『家紋で読み解く日本の歴史』 鈴木亨著 学習研究社 2003年3月
『家紋から日本の歴史をさぐる』 インデックス編集部編著 株式会社インデックス 2006年10月
『戦国入門 戦いとくらしの基礎知識』二木謙一監修 河出書房新社 2019年9月
『戦国の合戦と武将の絵辞典』 高橋信幸著 成美堂出版 2017年4月