戦国武将が残した言葉は数多い。死に際には辞世の句を、家臣との問答には国を治める上での知恵を。訓戒集のようなものから、法律としての分国法まで。後世まで伝えられてきた言葉には多くの力が宿る。
ただ、立場上、そこに「建前」的なものが透けて見えなくもない。戦国武将も人の子。「自分をよく見せたい」「弱さを見せてはいけない」という意識が、自然と介在するのかもしれない。しかし、そんな理性の隙間から戦国武将の心の声がダダ洩れした一言も。
今回取り上げるのは、何気ないつぶやきや抑えきれない激情など、思わず漏れた戦国武将の「本音」の数々である。建前をしのぐほどの圧倒的な人間性を是非ともお見せしたい。
武田信玄―執念―
最初にご紹介するのが、武田信玄の「執念」を表す一言。
京都を目指し、戦国武将の誰もが夢見る「上洛」。もちろん、武田信玄もその例に漏れず、甲斐(山梨県)から天下を狙っていた戦国武将の一人である。その一生は凄まじい。まず、父である信虎(のぶとら)が駿河(静岡県)の今川家へ出向いた際に、国境に兵を置いて封鎖。事実上の「父の追放」を成功させ、天文十年(1541年)に武田家の家督を継ぐことになる。その後、信濃をはじめ勢力図を着々と拡大していく。そんな信玄にとって厄介だったのが、不可侵条約を結んでいた今川家。反故(ほご)にして駿河(静岡県)侵攻を目論んでいたところ、今川家の娘を娶っていた嫡男の義信(よしのぶ)や重臣らの謀反謀議を事前に掴む(諸説あり)。結果的に、重臣らは処刑、嫡男であった義信は幽閉され、自害に至る。もちろん今川家との同盟は破棄されて、駿河(静岡県)への侵攻も行われた。総じて、戦いに明け暮れた生涯だったといえよう。
そんな武田信玄の最期はというと、まさかの病死であった。病気を患いながらも、3万5000の兵と共に上洛を目指している最中のこと、信玄53歳のときであった。その道中では、徳川家康・織田信長の連合軍を三方ヶ原で破っており(三方ヶ原の戦い)、その名を広めたわずか3ヶ月後、三河の野田城を攻め落とすも、その直後に病状が悪化。甲斐への撤退を余儀なくされている。ただ、残念ながら甲斐まで戻ることなく、途中の信州伊那の駒場(長野県)で没した。
さて、武田信玄に対しては、人の使い方に優れた名将との評価が多い。軍旗にも描かれている「風林火山」は、孫氏の『兵法』を信玄が14文字にまとめたもの。存命中には、組織の在り方、名将としての心構え、合戦の進め方など、多くの言葉を『甲陽軍艦(こうようぐんかん)』に残している。現在の管理職やリーダー層に対しても通用するとして、ビジネス書にも取り上げられているほどだ。
また、死する際に残した「三年の間我死たるをかくして」も有名な言葉だ。自分が存命だと周囲が錯覚すれば問題はない。家督を継承する勝頼(かつより)では、自国の領地に攻め入られると予見しての遺言だったのだろう。あいにくその予想が的中し、武田家は残念ながら勝頼の代で滅亡する。なんとも、皮肉な話である。
そんな名将といわれた武田信玄の「執念」にも似た言葉がこちら。
明日は瀬田に旗を立てよ
瀬田(せた)とは、滋賀県の地名である。甲斐から京都へ上洛するルート上にあって、ちょうど京都の入口にあたる場所だ。上洛を目指していたのだから、何もことさら取り上げるまでもない言葉と思われるだろう。ただ、この言葉を信玄が口にしたのは、危篤状態となって意識が朦朧としたときのこと。
つまり、現実は、上洛叶わず自国である甲斐へ撤退している最中だが、信玄の意識は上洛に向け兵を京都へ進めていたようだ。そのため、武田二十四将の一人、山県昌景(やまがたまさかげ)に、瀬田に旗を立てるよう命じたと伝えられている。領土拡大、上洛のためには、実父、嫡男をも切り捨てた武田信玄だが、最期は敵に討ち取られることなく、病気に屈した。だからこそ、その無念さは計り知れない。最後まで諦めきれなかった想いが発露した信玄の執念の言葉だといえる。
前田利常―機知―
次にご紹介するのは、加賀百万石を支えた男、前田利常(としつね)の言葉から。
前田利常は前田家3代目当主。前田利家の四男(庶子)で、母は側室の「ちよほ」。身の回りの世話をさせるように、正室である「まつ」が出陣中の利家に遣わした女性である。つまり、2代目の利長(としなが)とは、異母兄弟の間柄であり、31歳も年が離れていたことになる。さて、利長には子がおらず、後継者として選んだのが利常だった。早速、利常を自分の養子にし、慶長十年(1605年)に家督を譲り渡す。利常、わずか13歳のときである。
じつは、当時、前田家は非常に微妙な立ち位置にいた。というのも、初代の前田利家は豊臣秀吉と懇意の仲であり、秀吉死後も、秀頼の後見人となり豊臣家に忠義を尽くしていた。しかし、前田利家の死後、次の天下人は徳川家康とみた2代目の利長は、関ケ原の戦いにおいて西軍ではなく、東軍である家康への味方を表明する。ただ、利長が兵を率いて戦場に到着したときには、既に関ケ原の戦いは終わっていた。にもかかわらず、徳川家康は当家への忠節を尽くしたとして、120万石もの石高を認めている。
結果的に、前田家は外様大名の中では、ずば抜けて石高が多い大名となってしまった。これでは、いつ徳川家から難癖をつけられて潰されるかわからない。そのため、利長は2つの計らいをする。まずは、徳川2代将軍秀忠の娘の珠姫(たまひめ)を利常の嫁にもらい、徳川家と姻戚関係を結ぶ。珠姫との間に子が生まれれば、徳川家康の直系の孫となるわけだ。前田家を叩き潰す可能性は低くなる。また、珠姫の夫である利常を、少しでも早く前田家の次期当主にする。これで2代将軍秀忠と利常は婿と舅の関係になる。こうして利常は、13歳ながらも家督を継ぎ、3代目当主となる。
このような背景を理解していたからこそ、利常は徳川家には目をつけられないように、愚か者としての姿をわざと見せるようになったといわれている。そのうちの一つが「鼻毛」。前田利常といえば「鼻毛」といわれるほど、鼻から伸び放題の鼻毛が見えていたことは有名だ。あまりの壮絶な鼻毛に対して、見かねた坊主が謹言した際に、放った一言がこちら。
わしの鼻毛が加賀百万石を支えておる
的を得た一言。さすがである。事実、前田利常は、徳川家より謀反の嫌疑をかけられたこともあったが、無事に切り抜けている。利常以降の代も、必ず将軍家より嫁をもらうという姻戚政策を手堅く継続させ、徳川家との絆をさらに強くしている。また、凡庸で無害と見せかけながらも、内地政策においては、産業振興、農政改革も手掛けて、加賀藩の礎を築いている。地元の加賀では、もちろん「名君」といわれているほど。それもこれも、全てはこの「鼻毛」を隠れ蓑にした結果であろう。
島津義久―矜持―
最後にご紹介するのが、九州の名門、島津家当主、義久(よしひさ)の憤怒の一言である。
天正六年(1578年)、九州では、薩摩、大隅、日向三州(鹿児島、宮崎)を島津軍が制圧し南九州をほぼ手中に収めていた。さらに天正八年(1580年)には肥後(熊本)を制圧するも、織田信長から島津・大友氏へ和平を命ずる書状が出され、一度は講和に応じている。ここまでは九州南部を島津氏、北西部を龍造寺(りゅうぞうじ)氏、北東部を大友氏が治めるという形だったが、織田信長の死後、天正一二年(1584年)に龍造寺隆信が島原へ侵攻。援軍を求められた島津氏が逆に龍造寺隆信を撃破したことで、均衡が大きく崩れることになる。そこで、脅威を感じた大友宗麟(おおともそうりん)は、豊臣秀吉に助けを求める。
これに対して、天正一三年(1585年)、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅命という体裁を繕ってはいたが、実際は関白の秀吉が、島津家に停戦を勧告する書状を出している。その文章が非常に高圧的であったとか。「国境の論争は互いの意見を聞いて、追って沙汰する」など一方的で、なおかつ「戦争停止を守らない場合には成敗する」などの内容も含まれていた。また、書状の形式も判だけで、名乗りも一切なかったという。島津家からすれば、秀吉の手紙は明らかに無礼なもの。この書状に対してどのような返答の手紙を書くか、島津家内で議論が行われた。その議論の中で交わされた言葉がこちら。
しかしながら、羽柴という男は、実に由緒のない、卑しい出自の御仁であると世間で取り沙汰されている。その一方で、当島津家は源頼朝の時代以来、違約することのない御家―つまりは名家である。それなのに羽柴ごときに対して、関白殿扱いの返書をなすのは、笑止の限りではないか
もともと島津家は古来より受け継がれた名門の一族。義久は、そんな島津家の長兄にして、性格も堅物だったといわれている。「羽柴ごとき」「笑止の限り」などの言葉から、自身が属する島津家への誇り、そんな名家が一農民出の男にコケにされたという憤怒の情が、ひしひしと伝わってくる。相手は、織田信長の弔い合戦を勝利して、世に関白と認められた「豊臣秀吉」。そうだとしても、島津家はこのような無礼な手紙を許せなかった。こうして、当主の島津義久は、形式的でさえ、関白殿とする返書を出すのが我慢できず、直接送ることはなかった。歌道の師匠である細川幽斎(ほそかわゆうさい)宛に、取り次いでくれるようにとの返答書を出している。
しかし、残念ながら、強硬な態度もここまで。気持ちがあったとしても、それを貫くことはできなかった。というのも、その後、停戦の勧告を無視した島津家に対して、豊臣秀吉自らが九州討伐へと出向くこととなる。その圧倒的な兵力差に、戦国最強といわれた島津軍団も諦めるしかなかった。結果的に、義久は剃髪して秀吉に降伏する。無念だが、一個人のプライドよりも、島津家存続を優先的に考えた末のことだといえよう。ただ、このときの屈辱が、江戸時代末期には薩長連合として明治維新を実現させ、花開くことになる。
言葉ほど、端的にその人を表すものはない。
同じ状況でも人によって発する言葉は違う。逆に、同じ言葉でも状況によっては、全く異なる意味になる場合もある。そういう意味では、言葉ほど、直接的に意思を伝える道具でありながら、多くの解釈を可能とする摩訶不思議さを持つものはないだろう。だからこそ、言葉は面白い。だからこそ、言葉には、感知できない未知な力が宿るのかもしれない。
参考文献
『名将名言録』 火坂雅志著 角川学芸出版 2009年11月
『加賀藩百万石の知恵』 中村彰彦 日本放送出版協会 2001年12月
『古九谷の暗号』 孫崎紀子 現代書館 2019年1月
『手紙から読み解く戦国武将意外な真実』 吉本健二 学習研究社 2006年12月
『戦国武将 引き際の継承力』童門冬二著 河出書房新社. 2009年1月
▼おすすめ書籍はこちら
戦国武将 魂がふるえる名言100 (M.B.MOOK)