「そ~りゃないぜ、ふ~じこちゃん」
古今東西、裏切りの代名詞といえば…明智光秀…かと思いきや、やはりルパン三世でお馴染みの「峰不二子」だろう。お色気ムンムンのあのムチっとした肢体を武器にルパンにすり寄り、お決まりの「おいしい話」を持ってくる。
それにしても、ルパン三世は一向に学習しない男なのかと呆れながらも、一方で究極の「自分至上主義」を貫く峰不二子のスゴさに驚く。欲しいモノがあれば手段は問わず。ルパンに対しては、大抵最初から騙すつもりなのだが、成り行きで裏切ることになっても、せいぜい「てへぺろ」くらい。彼女は逡巡などしない。「峰不二子」という女の価値基準は、絶対にブレないのだ。
そんな峰不二子に毎度手ひどく裏切られ、それでも笑って許すルパン三世。どこまで懐深いんだかと思いきや、じつは峰不二子の裏切りなど既に織り込み済み。その点は、戦国時代の武将も同じなのだろう。下克上がまかり通る時代なのだから、誰がいつどこで裏切るか、裏切られる側はアンテナを張るしかない。まさしく予想外の場合は、織田信長の「是非に及ばず」(意味:やむなし)の一言に尽きる。
ただ、裏切りが必ずや実を結ぶかというと、そうでもない。成功しても幸せになれるとは言い難く、裏切り方によっては白い目で見られることも。逆に、失敗すればその代償はあまりにも大きく目も当てられない。
それでも、人は裏切りを止められない。
今回は、そんな「URAGIRI-裏切りー」について、その華麗なる美学をお届けしよう。
裏切るためには「方法」が大事⁈
戦国の世は、げに恐ろしや。
自分の領国、家臣、一族のためなら裏切ることも厭わない。だからこそ、多くの戦国大名が誕生し、新旧交代が各地で起きて下克上が進んだわけである。
それでも「裏切り」には一定の作法がある。「裏切りの流儀」とでもいおうか。「いやいや、既にアンタ裏切ってんだから一緒じゃん」と、多くの人から突っ込まれそうなのだが。それも仕方がない気もする。なにしろ「裏切ること」自体が相当酷い行為なのだ。今更、裏切り方をどうのこうのと議論しても結果は同じだろう。
しかし、戦国時代はそこで急に「覚悟」を持ち出してくる。裏切ることで将来が大きく変わっても、本当に全てを引き受ける覚悟があるかどうか。
例えば、今まで仕えていた家臣が主君に謀反を起こす、敵国に攻められたため従属していた自国を裏切って寝返るなど。これらは「返り忠(かえりちゅう)」と呼ばれ、領土や自国の領民を守るなどの相応の理由があれば、許容範囲内との見方が強い。ただ、謀反を起こす場合には、主君を討つ「名分」がなければ、そのあとが続かない。人心は離れ、やがて自身も破滅の道へと進む者が多い。具体例としては本能寺の変を起こした「明智光秀」が挙げられる。
一方で、「盾裏の反逆」と呼ばれる裏切り方もある。これは、戦では共に味方として戦う姿勢を見せつつ、じつは事前に敵側と内通し、戦いの最中に寝返る方法である。いったんは盾を向けて敵と戦う姿を見せ、その後、味方を裏切り敵側には盾を裏返すので、「盾裏(たてうら)」という言葉が使われたのだとか。正直、勧められる方法ではない。どちらかというと、敵からも味方からも白い目で見られる方法だといえる。こちらの具体例は関ケ原の戦いの立役者「小早川秀秋」が挙げられる。
恐ろしい裏切りの代償
これでは、たとえ主君になったとしても、今度は裏切る側から裏切られる側へと転じるだけ。おちおち寝てなどいられない。今後の安泰のためにも、なんとか「裏切り」を阻止せねばならぬ、と考え出されたのが「人質」制度だ。
まず、政略結婚と称して、互いの身内を送り出す方法から。もちろん、従属や同盟が成立し味方となる場合には、彼らは両家の「かすがい」的な役割を果たしてくれる。一方で、婚家先の情勢を探って実家へと伝達するスパイ的な役割も期待されている。織田信長の妹である「お市の方」が夫、浅井長政の裏切りを察知して伝えたのは有名な話。織田信長の娘である「徳姫」が、姑と夫が武田側に通じていると訴えたのも、これまた同じ。徳姫は徳川家康の嫡男である信康と結婚していたため、信長は家康に嫡男の切腹を要求。家康からすれば、正室の築山殿と嫡男の信康を一気に失うことになる。こうしてみれば、織田家では特に、スパイ的な要素が強いのかもしれない。
一方で、政略結婚の末に両家のどちらかが敵側に転じた場合、彼らは「人質」的な役割を担うことに。ただ、期間の長短はともかく、共に過ごしたからだろうか、夫婦の場合は「人質」としての扱いよりも、離縁して送り返されることが多い。結婚までの経緯はともかく、そこには「夫婦であった」という歴然とした事実が存在するからだろう。やはり、情が湧いてしまうのかもしれない。
次に、政略結婚などではなく、主君や同盟先からストレートに「人質」を出すように要求される場合も。こちらは、非常にドライな関係だ。平時は「人質」という名目ではあるが、普段の生活は決して軟禁などされず、ある意味人道的な扱いを受ける。竹千代(のちの徳川家康)は今川義元の下に人質として差し出されたが、貴重な武家教育などを施された。あの名軍師、太原雪斎に勉学を習ったというのだから、江戸幕府を築く礎(いしずえ)にもなったに違いない。
一転して、裏切りが発覚した場合は、見せしめに処刑される。罪人扱いとして、市中引き回しがされ、磔刑(たっけい)か斬首(ざんしゅ)となることが多い。
市中引き回しとは、その名の通り、町中を引き回されること。罪状が書かれた立札を先頭に、人質を馬や車に乗せて晒し者(さらしもの)にするのだ。辱めを受けさせると同時に、世間への見せしめの意味を持つ。
市中引き回しの後は、「磔刑」として磔(はりつけい)にかけられる。槍で突かれるか、鉄砲で撃ち殺されるという無惨な刑である。または「斬首」として、首を刎ねられる場合もある。どちらにせよ、残酷さがウリだ。頭を逆さにして磔にするバージョンから、磔にしたうえでおしりから喉まで一気に串刺しにされる場合も。じつに種類が豊富だ。
このように、処刑が残酷であればあるほど、万が一裏切れば人質が「あんな方法で」「こんな方法で」の処刑が待っていると理解させられる。そもそも、人質として差し出されるのは、彼らの「大事な人」だ。親や子、妻の場合もある。そんな大事な身内が、自身の裏切りで目を覆わんばかりの残酷な目に遭う。だからこそ、家臣や同盟国に対して「裏切ってはならぬ」という強烈な抑止力になるのだ。言い換えれば、裏切るにはよほどの覚悟、大事な人質を見捨ててでも見合うほどの「何か」が必要だということになる。
関ヶ原の戦いで分かれた「裏切り」の明暗
さて、話を「裏切り界」(そんな世界があるのだろうか…)へと進めていこう。
明智光秀とほぼ互角、いやそれ以上に日本の歴史に大きく影響を与えたのが、小早川秀秋だ。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで、裏切り界のニューホープ、若きスーパースタ―が誕生した。西軍に属し、関ヶ原の戦いの前哨戦では伏見城攻めまで参加しておきながら、同年9月15日の関ヶ原の戦いでは、戦い中盤で突如東軍へと転じ、西軍を攻め立てた(寝返った時間は諸説あり)。そんな小早川秀秋の裏切りは、誰もが知っているところ。
しかし、じつは関ヶ原の戦いには、他にも裏切り者が出現した。こちらは、あまり知られていない話。そして、同じく裏切って勝者側についても、その卑怯度合いでその後の明暗が分かれた。
小早川秀秋は、先ほどご説明した通り「盾裏の反逆」に当たる。そもそも、秀秋は豊臣秀吉の正室ねね(のちの北政所)の甥だ。幼少より秀吉とねねの養子として育てられ、バリバリの豊臣一族でもある。ただ、その後、秀吉の側室、淀殿に秀頼が生まれたことで、大きく人生が変わる。毛利勢の小早川隆景(こばやかわかたかげ)と養子縁組をして、小早川家に入ることに。秀吉死後は、関ヶ原の戦いで豊臣側とは敵対する東軍へと寝返った。
ただ、これには大きく叔母である北政所が関係している。秀秋は伏見城落城ののちに北政所のもとを訪れて、徳川家康らの東軍側へと寝返る意向を強めたようだ。最終的には家老を家康のもとへと送って、上方2ヶ国の領地を条件に家康指示を約束した。こうして、秀秋の裏切りは当初から徳川家康と内通してのことであった。だが、実際の行動に移したのは戦いの途中、それも中盤にさしかかりそうなとき。なんなら、戦いの前半は西軍が押して有利だったともいわれている。両軍から再三の催促を受け、満を持して秀秋は西軍を裏切った。味方であった大谷吉継(おおたによしつぐ)の軍へと攻めかかったのである。
じつは西軍の大谷吉継は小早川秀秋を疑っていたという。秀秋の寝返りに備えて、家臣の平塚為広(ためひろ)、戸田重政の軍を準備。というのも、秀秋は前日に関ヶ原の松尾山に布陣したからだ。松尾山は標高293メートルと高く、その場所は関ヶ原の戦いが眼下にはっきりと見える絶好のロケーションであったという。もともと陣取っていた西軍の伊藤盛正を追い出して、秀秋はこの松尾山に1万5000の兵を率いて布陣。不審な行動極まりないといえるだろう。
こうして当日。大谷吉継は秀秋を警戒しつつ、東軍の藤堂高虎など名将らと一線を交えている状況であった。東軍西軍ともに一進一退。そんなときに、催促しても一向に西軍として戦わなかった秀秋が、突如東軍としてこちらに攻めてきたのである。頭では分かっていても、そのパニックは想像以上であろう。結果、大谷吉継軍はあっという間に総崩れとなる。と同時に、勝負の勝敗も一気に東軍へと傾いたのであった。
ただ、次にご紹介する4名に比べれば、秀秋はまだギリギリセーフというところか。徳川家康には事前に支持を表明していたのだから、寝返るタイミングは遅くても、恩賞には預かれるところだろう。
ではその4名とは…。
裏切り4銃士はこちらの方々。脇坂安治(わきざかやすはる)、朽木元網(くつきもとつな)、小川祐忠(おがわすけただ)、赤座直保(あかざなおやす)らである。それぞれ1000の兵を率いていたという。
このうち、脇坂安治だけは、徳川家康に事前に内通の意思を示していた。じつはこの脇坂安治は賤ヶ岳七本槍の一人で、豊臣家での家臣としては古参にあたる。しかし、あっさりと西軍を裏切った。もともと安治の息子、安元(やすもと)は徳川家康らの東軍として戦うつもりで関東に向かおうとしたのだとか。そこを石田三成にとめられ、西軍での出陣を強要されたという。安元はこの事情を家康の家臣に伝えて、近江から大坂へと帰ったとされている。この事前の情報が、戦いの途中で寝返った脇坂安治を救った。関ヶ原の戦い後は、加増されないものの、本領を安堵されている。
一方で残りの3名に関しては、徳川方に何の事前の意思表示もなく、戦いの途中で寝返った。つまり、戦況を分析してこれでは分が悪いと、秀秋に呼応して西軍から東軍に回り、味方であった西軍の大谷吉継軍を攻めたのである。彼らは、黒のなかでも真っ黒。一発アウトである。裏切り方には、ご紹介しなかった方法がある。こうして、状況を分析して途中で寝返るパターンである。勝ち馬に乗るとはまさにこの通り。しかし、この方法は戦国時代に最も嫌われた。裏切るにしても信念がない。覚悟がない。二股膏薬(ふたまたこうやく)ほど、卑怯な手段はないのだ。敵、味方、どちらからも受け入れられず、蔑まれた。
こうして、関ヶ原の戦い後に、3人には厳罰が下る。朽木元網は2万石から9500石へと減封、小川祐忠、赤座直保ら2名は改易。屋敷や所領などが没収される厳しい処分となった。同じ裏切りでも、大きく明暗を分けたといえる。
さて、小早川秀秋はというと、筑前33万石から増加。上方2ヶ国という約束は反故にされつつ、備前・備中・美作(みまさか)と中国地方の51万石の大名となる。ただ、その後は不可解な乱行の噂が絶えず、結果的に関ヶ原の戦いの2年後に死去。21歳(数え年)という若さでこの世を去った。
「人面獣心なり。三年の間にたたりをなさん」
これは、自刃した大谷吉継の残した言葉。後世に創作されたともいわれているが、小早川秀秋は本当に3年内で亡くなってしまったから、真偽は不明。どちらにせよ、吉継の悔しさがにじみ出た言葉であろう。
裏切りの代償はあまりにも大きすぎた。
それは、その後の恩賞や待遇などではない。
自分の心を壊してしまう。それこそが一番の代償なのかもしれない。
参考文献
『戦国武将の病が歴史を動かした』 若林利光著 PHP研究所 2017年5月
『戦国 忠義と裏切りの作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2019年12月
『戦国合戦地図集』 佐藤香澄編 学習研究社 2008年9月
『加賀藩百万石の知恵』 中村彰彦 日本放送出版協会 2001年12月
『別冊宝島 家康の謎』 井野澄恵編 宝島社 2015年4月