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2020.04.30

元婚約者を愛し続けた武田信玄の娘・松姫。「本能寺の変」が生んだ切なすぎる悲恋とは?

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「外出自粛で恋人に会えず、辛いです……」。そんな声がネットやSNS上にたくさんあがっていますね。戦国時代は政略結婚が大半を占め、婚約者と一度も会わずに結婚式を迎えるなんてこともザラだったそうです。そんな時代に、手紙のやりとりで心の距離を縮め、お互いを思い続けたふたりがいました。織田信長の長男・信忠(のぶただ)と、武田信玄の娘・松姫です。今回は、このふたりの悲しくも切ない恋の物語を紹介します。

松姫7歳で婚約

1567(永禄10)年11月、織田家と武田家の同盟の証に、信忠と松姫は婚約しました。このとき、信忠11歳、松姫7歳。ふたりともまだ幼かったため、松姫の織田家への輿入れは先延ばしとなりました。そのあいだは、地元の甲斐(山梨県)で生活していたといいます。

手紙で心を通わせる

婚約者となったのに、一度も顔を合わせることができないふたり。互いに手紙を送り合い、心を通わせていたといわれています。信忠は、松姫にプレゼントも贈っていたそう。現代の感覚だと、小学5年生と1年生のふたりのやりとり。なんだか心がほっこりしませんか?

引き裂かれるふたり

戦国の時代、ほっこりもそう長くは続きません。1572(元亀3)年、松姫の父である信玄が、徳川家康の領地に攻め込む「三方ヶ原の戦い」が起こりました。このとき、信長は家康とも同盟関係にあり、家康から援軍を要請されそれに応じます。これによって、織田家と武田家は手切れに。もちろん、信忠と松姫の縁談も破談に。きっと、会える日をまだかまだかと楽しみにしていたふたり。一度も会わずして切ない別れとなってしまいました。

別れた後も元婚約者を思い続ける……

1573(天正元)年4月に、信玄が病に倒れ亡くなります。武田勝頼が跡を継ぎ、松姫は同母の兄である仁科盛信(にしなもりのぶ)を頼り、高遠城(長野県)に身を寄せました。そのあいだ、いくつもの縁談の話があったそうですが、首を縦に振らなかったそうです。松姫の心の中には、まだ信忠がいたのでしょうか。

愛する人が敵として攻め込んでくる

1582(天正10)年、信玄亡きあとの武田家にトドメをさそうと、信長が動きます。武田氏の領地である駿河・信濃・甲斐・上野を攻め落とした「甲州征伐」。この合戦の総大将に任命されたのが、信忠でした。

信忠の率いる織田軍は、松姫が住む高遠城にも迫ります。松姫は、兄・盛信の3歳になる娘を託され、城から逃げます。その後、勝頼の4歳になる娘、また人質として預かっていた小山田信茂の4歳になる娘を新府城(山梨県)から連れ出し、近郊の寺に逃げ込みました。

兄たちが自害し、武田氏が滅亡

松姫らを逃したあと、高遠城に籠った盛信は、信忠ら織田軍に攻められ自刃します。一方、追い詰められた勝頼も、息子や正室と共に自害。これにより武田氏は滅亡しました。

信忠は、高遠城を攻めた際、盛信に降伏を勧告したそう。「もしかしたら城のなかに松姫がいるかもしれない。このままでは戦に巻き込んでしまう」。そんな考えが頭をよぎったのかもしれません。しかし、盛信は降伏を拒否し、高遠城は陥落しました。

幼い姫たちを引き連れ八王子まで

いつどこに敵がいるかわからない。そんな不安を抱えながら松姫は逃避行を続けます。まだ幼い姫たちを連れて寺を渡り歩き、現在の山梨県から東京・八王子付近まで逃げ延びたそう。車も電車もない時代、女の子だけでこの距離を歩き続けました。辛い旅であったことは想像に難くありません。

このころ、信忠は松姫を探していました。やはりまだ、信忠も松姫のことを思っていたのでしょう。既に側室を迎え子どもをもうけていましたが、まだ正室は迎えていなかったのです。

20年以上思い続けた彼のもとに…

八王子でひっそりと暮らしていた松姫たちを、信忠はついに探し当て迎えの使者を送りました。20年以上思い続けた人からの迎え。松姫の喜びは計り知れません。「あぁ、やっとあの人に会える」。そんな気持ちで八王子を出発したことでしょう。

ふたりを襲う残酷な運命

信忠のもとへと向かう松姫に悲報が届きます。1582(天正10)年6月2日、あの歴史的大事件「本能寺の変」が起きてしまったのです。信長は本能寺で討たれ、信忠も討死。信忠と松姫のふたりは一度も顔を合わせることなく、永遠の別れとなってしまいました。なんともあっけない終わり。松姫はどれほど絶望したことでしょう……。

信忠を弔い、強く生きる松姫

その後、八王子に戻った松姫は、髪を剃り、心源院(しんげんいん)という寺で出家。討死した武田家一族と信忠の冥福を祈り続けました。このころ松姫は22歳。尼となり「松姫」から「信松尼(しんしょうに)」と改名します。「信」の字は父である信玄からとったともいわれていますが、信忠の妻であるという意味が込められているとも伝えられているそうです。どちらも憶測ですが、なんだか心の奥がギュッと締め付けられます。

松姫は心源院で8年間修行をつんだあと、共に逃げてきた姫たちを育てるため、朝から晩まで働きました。姫のなかには、兄・勝頼を裏切った家臣の娘もいましたが、松姫は変わらず大切に育てます。そんな心優しい彼女を、かつて信玄の家臣だった大久保長安(おおくぼながやす)らが積極的に支援。生活を支えていたそうです。

そして1616(元和2)年4月16日、松姫は56歳で生涯の幕を閉じます。生前、長安から贈られた草庵がお寺になり「信松尼」と名付けられました。このお寺には、今でも松姫のお墓が残されているそうです。

松姫を思えば、我慢できる…!

思い続けた人と何度も何度もすれ違い、一度も会えず別れとなってしまった松姫。それでも彼女は強く生き続けました。現代は、会えなくてもオンラインでお互いの顔を見ながら会話ができる時代です。ぐっと我慢して外出自粛を守っていれば、ウイルスに感染することもなく、誰かに移すこともなく、いつかはきっと会えるはず。その日を一日でも早く迎えられるよう、今はおうち時間を充実させることを考え、前を向いて強く生きましょう。

書いた人

1994年生まれのさそり座の女。地元・北千住を愛す。大学在学中、和樂編集部で3年間アルバイトをする。就活に挫折していたところ、編集長に捕獲される。好きになるものの偏りが激しいことが悩み。最近心に響いたコトバは「お酒は嗜好品ではなく必需品」。アルコールは正義だと思っている