日本刀、というと、どんな刀工の名前を思い浮かべますか? 村正、虎徹、藤四郎吉光、正宗、同田貫……小説や時代劇、漫画やゲームの世界にも、いろいろな刀工の名前が出てきますよね。
孫六(まごろく)もその1つで、現在では「関(せき)孫六」が包丁の一大ブランド名にもなっています。
誉れ高い美濃の名工の作。動乱の幕末、この「孫六(初代孫六)」の打った1振の刀が、時代を揺るがせる事件にたびたび関わっていたのです。
幕末を揺るがせた、孫六の刀
幕末は、刀剣にとってかなり特異な時代です。
意外なようですが、刀剣はこの時代以前、合戦のメイン武器としては扱われていませんでした。
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また、幕末においても刀剣がメインで使用されたのは屋内や市街戦などで、戦闘の規模が大きく、激化していくにつれ、主役は銃や大砲となっていきました。
新選組の土方歳三も、戊辰戦争の折には「もう刀や槍ではなく、銃や大砲の時代だ」と語ったとされます。
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桜田門外の変
安政7(1860)年3月3日、幕府大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」が起きます。井伊の首級を上げたのは、水戸浪士たちに交じって襲撃に加わっていた薩摩人・有村治左衛門(ありむらじざえもん)。有村がこの時知人から借り受けて使っていたのが、孫六の刀でした。
寺田屋事件
大老を討った孫六は、2年後、またも事件の現場へ駆り出されます。
有村に孫六を貸していた奈良原喜八郎(ならはらきはちろう)を含む8名が、文久2(1862)年4月、伏見の船宿寺田屋に急行。これは薩摩藩主の父・島津久光の上洛に呼応して、薩摩藩士や浪士ら約50人が暴発する動きがあり、危ぶんだ久光が奈良原らを鎮撫使として、彼らのいる寺田屋に派遣したのです。しかし寺田屋の藩士らは説得に応じず、鎮撫使と激しく衝突します。鎮撫使の奈良原も孫六の刀を抜き放って奮戦しました。
生麦事件にも?
寺田屋事件の4カ月後、島津久光の行列をイギリス人数名が乗馬のまま横切ろうとし、下馬の命令に従わなかったリチャードソンが久光の供の者に斬り殺された「生麦事件」が発生します。
この時の「供の者」は、寺田屋事件で活躍した奈良原喜八郎の兄・喜左衛門とされますが、一説に喜八郎だったとも言われます。もし喜八郎だったとすれば、1振の孫六の刀が、幕末の重大事件に3度も関わったということになります。
幕末の渦に飲み込まれた、1振の孫六の刀。戦乱の世に生まれ、長い泰平の時代を過ごし、また動乱に巻き込まれた刀には、何が見えていたのでしょうか。
番外編・青木兼元(真柄切兼元)
徳川家康の家臣・青木一重(あおきかずしげ)は、元亀元(1570)年の姉川の戦いで、朝倉家の猛将・真柄十郎左衛門(まがらじゅうろうざえもん)を討ち取りました。この時の刀が孫六兼元で、所有者の名前を付けた「青木兼元(あおきかねもと)」あるいは討ち取った武将の名前を付けた「真柄切兼元(まがらぎりかねもと)」と呼ばれています。
孫六という刀工
「孫六」の名前を持つ刀工は1人ではなく、兼元(かねもと)一族やその他の美濃の刀工複数名が共通して持っていた称号と見られています。
最も有名な孫六は「初代孫六=2代兼元」で、現在、単に「孫六」というとこの刀工を指すことがほとんどです。美濃国赤坂(現在の岐阜県大垣市北部、旧・不破郡赤坂町)で室町時代末期に活躍した刀工で、関から赤坂(どちらも美濃国内)に移り住んだ初代兼元の子とされます。なお、「兼」の字は美濃や美濃の流れを汲む刀工に非常に多く見られるものです(無関係なものもあります)。
「孫六の三本杉(さんぼんすぎ)」と呼ばれる、杉の木が3本連なったような刃文が特徴的と言われますが、初代の作品にはあまり明確な「三本杉」は見られません。波のように互い違いに上下する「五ノ目(ぐのめ・互ノ目とも)」の刃文の中に、尖った形が交じっているものが初代の作には多く、はっきりした三本杉となるのは2代目以降、後の世代になるにつれてくっきりとした形が描かれていきます。
また、孫六は、うかんむりの下に「之」という特徴的な「定」の字を銘に切ったことから「之定(のさだ)」の愛称で知られる「和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)・2代兼定」と兄弟の約束をした、という伝説が残っています。どちらも名工中の名工と讃えられる美濃の至宝です。
幕末~明治にかけて活躍した会津11代兼定も美濃の流れを引く刀工で、2代兼定と同様に「和泉守」の受領名(ずりょうめい、官職名のこと)を拝領し、2代兼定と同じような特徴的な「定」の銘字を切りました。この会津11代兼定も、はじめの頃には孫六と同じ「兼元」という銘を切っていた刀工です。会津藩ゆかりの刀工だったため、土方歳三など新選組メンバーにも愛用されたのでした。