転職は、もはや珍しくもなんともない。
確かに、終身雇用が保証された時代では、ある種の「逃げ」と非難されることも。しかし、それはかつての話。なんてたって、今は「キャリアデザイン教育」という言葉まであるのだから。キャリアアップのためにと、積極的に転職を選択するのも、一つの生き方。
一方、戦国時代はというと、忠義が重んじられて……と思いきや、意外にも、主君を変える「転職」は普通に行われていたという。
ただ、今回の主役は、少々事情が複雑。
というのも、他家へ転職する理由が見当たらないからだ。動機、時期、出奔先。いずれも、どうして?と首をかしげるばかり。時が経っても深まる謎。歴オタのみまらず、ミステリー好きの関心をも引く出来事なのである。
戦国時代、徳川家康には多くの家臣がいた。
家康が織田信長や豊臣秀吉と決定的に異なるのは、自ら滅ぼした一族の遺臣をも召し抱えていたコト。家臣に対しても公平な扱いを心がけ、徳川家臣団の中でもとりわけ三河家臣団は結束が高いといわれている。
しかし、ただ一人。
そんな徳川家臣団から出奔(しゅっぽん)した者がいる。
その名も、石川数正(いしかわかずまさ)。
西三河の家老まで昇りつめ、家康の信任が厚かったにもかかわらず、なんと豊臣秀吉の元へと去っていくのである。
一体、石川数正に何が起こったのか?
今回はこの謎を追ってみたい。
人質交渉を成功に導いた外交担当の実力者
天下のご意見番と名高い徳川家の家臣、大久保忠教(おおくぼただたか)。彼が著した『三河物語』に、このような一節がある。
伯耆守(ほうきかみ、石川数正のこと)は大髭(おおひげ)を風になびかせ、若君を鞍の前に乗せ奉り(中略)通られるときの見事さ
若君とは、徳川家康の息子、信康(のぶやす)のこと。永禄3(1560)年5月。桶狭間の戦いで今川義元が敗れると、長年、人質として今川家に属していた家康は、独立へと動き出す。ただ、息子の信康と正室の築山殿は、共に今川氏真(うじまさ)のもとに人質として留め置かれている状況であった。
動きたくても動けない。そんなジレンマの中で、今川方との人質交換を成立させたのは、ほかでもない、石川数正。無事に2人を救出し、岡崎城へと帰還するのであった。『三河物語』からは、大事な家康の息子を連れ帰った数正の誇らしさがうかがえる。
さて、この石川数正とは、どのような人物か。
石川氏の始祖は「清和源氏」。『尊卑分脈』では、八幡太郎源義家の孫、義基(よしもと)が河内国石川郷(大阪府)に居住して「石川氏」と名乗ったのが始まりだとされている。その後、子孫は三河国(愛知県)へと移り、代々、家康の出身である松平家に仕えるようになった。
そのため、石川氏は家康の家臣の中でも大古参。数正も家康の幼少期より仕えている。家康よりも10歳年上で、駿府(静岡県)の今川義元に人質として差し出された際には、付き従った28人の家臣のうちの1人だ。当時、家康(幼名は竹千代)は6歳。心細い人質生活の中で、数正は苦楽を共にした数少ない家臣ということになる。
その後、今川氏から独立する徳川家康。この重要な局面で織田信長との同盟に尽力し、外交面でその実力を発揮したのが石川数正だ。これらの実績が買われて、数正の叔父である石川家成(いえなり)が担っていた「西三河の旗頭」を、数正が引き継ぐ形となる。
交渉術に長け、多くの場面で使者として折衝を行い、活躍した。だが、それが、皮肉にも豊臣秀吉との出会いに繋がるのであった。
豊臣秀吉はヘッドハンティングが好き?
じつは、豊臣秀吉には困った癖がある。
女性関係ではない。もちろん、こちらも問題視されることではあるのだが。男性に対してである。ぶっちゃければ、他家の重臣に対して、「お誘い」してしまうのだ。いわゆる、引き抜きである。
秀吉は、これまで多くの戦いに参戦してきた。そこでは、必然的に様々な戦国武将と対峙することになる。敵側としての場合もあれば、味方となる場合も。どちらにせよ、戦場での勇猛果敢な戦いぶりを目にして、我慢できなくなるのだろう。「是非とも、うちに(豊臣方)」と、つい触手が伸びるといった感じか。
そのスカウト歴は、まあまあなものである。
やはり徳川家の家臣は別格なのか。今回の石川数正だけでなく、本多忠勝(ほんだただかつ)にも声をかけている始末。他家に対しても節操がない。伊達政宗の重臣、片倉景綱から、上杉家を支えた直江兼続(なおえかねつぐ)。他にも、小早川隆景や立花宗茂など、錚々たるメンバーだ。数え出したらキリがない。
また、すぐに様々なプレゼント攻勢をかけるところも、秀吉らしい。ある種、成金的な匂いがしなくもないが。派手好きで人間的な魅力に溢れた秀吉だから、できることなのかもしれない。
問題は、石川数正へのスカウトはいつから行われたのかというコト。
最初の出会いは、豊臣秀吉が亡き信長のポストをかけて、柴田勝家と争った「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」の戦勝祝いの場。天正11(1583)年のことである。徳川家康が使者として遣わしたのが、石川数正であった。一説には、この頃から秀吉の引き抜き工作が始まっていたとも。ただ、真偽は不明である。
その翌年、天正12(1584)年に、徳川家康と豊臣秀吉は「小牧・長久手の戦い」で対峙。勝敗がつく前に、家康との連合軍であった織田信雄(おだのぶかつ、信長の次男)が秀吉と講和を結ぶ。こうして、小牧・長久手の戦いは、不完全燃焼で幕を閉じる。家康と秀吉が、互いの力を認め合った戦いでもあった。この戦後の交渉役についたのも、当然のことながら外交担当の石川数正である。
そして、講和の翌年。
天正13(1585)年11月、突然、石川数正は徳川家康の元から出奔。
向かった先は、あの「豊臣秀吉」だったのである。
突然の出奔…理由不明の謎
石川数正の出奔のミステリーは、多くの小説の題材にもなっている。
確かに、複数の憶測が飛び交うだけで、確定的な事実はない。だからこそ、作家は料理し放題。格好のネタになるのだろう。ここでは、大きく2つの説をご紹介したい。
1つは、徳川家康と豊臣秀吉の板挟みに疲弊した末での出奔という説。つまり、額面通りに受け取って、数正が家康を裏切って豊臣方に走ったというモノ。
これは、数正が置かれた微妙な立場に起因する。「小牧・長久手の戦い」後、徳川家臣団の中には、豊臣秀吉との決戦を望んだ者が多数いた。事実、「小牧・長久手の戦い」の最中でも、秀吉不在の敵陣を襲撃することを主張した酒井忠次(さかいただつぐ)を制止している。家中での意見の衝突に、次第に孤立していく数正。
加えて、秀吉が家康に対して上洛を要求した際には、家康側の使者として何度も秀吉の元へと向かう。東海道の往復だけが増していき、数正は次第に心身共に疲弊していく。結果、全てに嫌気がさし、しがらみから解き放たれたいと願う。こうして、数正は徳川家康の元を去るのである。
もう1つの説は、徳川家康の命を受けて、もしくは同意の下、あえて豊臣秀吉側の家臣となったという説。つまり、数正は家康を裏切っていないという筋書きである。私個人としては、コチラに1票を入れたい。というのも、どうしても数正の裏切りに納得がいかないからである。
冒頭でご紹介した通り、家康の三河家臣団の結束力は強い。ただ、時に家康への忠義が試される状況に陥ることも。それが、家康の危機の1つの「三河一向一揆」である。三河の一向宗門徒が起こした一揆は、結果的に、徳川家臣団を2つに引き裂いた。普段であれば、主君である家康に従うところ、信仰となれば、話は別。家臣団の多くは一向宗門徒である。家康の友といわれた、家臣の本多正純(ほんだまさずみ)でさえも、反家康側へと寝返ったくらいなのだ。
それでも、一向宗門徒でありながら改宗までして家康に従ったのが、本多忠勝。そして、同じく石川数正も、一向宗門徒だったが、一揆側には参与しなかった。それなのに、孤立や疲弊が理由で裏切るとは考えにくい。信仰をも勝る家康への忠義が、その確たる証拠ではないだろうか。
もう1つの根拠は「小牧・長久手の戦い」である。この戦いで、石川数正は小牧城留守居役を任されている。主君の不在時に城を預かる大役は、絶対的に信頼のおける人物でないと務まらない。というのも、敵方と通じれば、即刻落城の危機に。それが糸口となり、敗戦となる場合があるからだ。戦いの際の「留守居役」の人選は、慎重に行う必要がある。
そんな留守居役を任され、戦後の交渉も含めて取り仕切ったのは、石川数正。どう考えても、徳川家康と石川数正は運命共同体だ。あの、狸オヤジの家康のこと。裏切る可能性が僅かでもある人物を選ぶワケがない。
こう考えれば、いかがだろうか。
正直、血気盛んな三河家臣団の多くは、秀吉をなめていた節がある。どこの馬の骨なんだと。しかし、交渉役として秀吉に接した数正だからこそ、秀吉の実力や恐ろしさは百も承知。もちろん、家康も痛いほどわかっていたことだろう。どうすれば、今後、秀吉とうまくやっていくことができるのか、その方法を模索したはずである。
出奔という名目で、数正を「スパイ」として潜り込ませる中途半端な戦略は、秀吉には通用しない。となれば、取る手段は1つ。思いきって徳川家康と縁を切り、豊臣秀吉の直臣となる。そして、秀吉側から家康をサポートするという方法だ。
じつは、この方法は、他にもメリットがある。
「小牧・長久手の戦い」で秀吉と対峙し、家康はある事実に気付く。このままの徳川家の体制では、いつか負ける時が来ると。軍体制の見直しを図りたいところではあるが、家臣団の反発も予想できる。一方で、最強の武田家遺臣を召し上げたこともあり、軍体制を「武田流」へと変更したい思惑も。もし、徳川家の軍事機密を知り尽くした数正が出奔すれば、軍体制を変えざるを得ない。その言い訳にもできるのだ。
ちょうど、パズルのピースがピタッと当てはまるように、全てがうまくいく。タイミングは、「小牧・長久手の戦い」で秀吉と対峙したあと。秀吉の実力を目の当たりにしては、ぐずぐずなどしていられない。早急に改革へと取り掛かる必要がある。そう、家康は判断したのではないだろうか。
どちらが先に言い出したのか。
徳川家康が命じたのか。それとも、石川数正から提案したのか。そもそも、そんな密約さえなかったのかもしれない。全ては、私の想像の域を超えず。
それにしても、こんな筋書きだからこそ、出奔の理由が「不明」で片づけられたともいえるのでは?
やはり、謎は深まるばかりである。
最後に、ダメ押しで。
石川数正の子孫に嫁いだ女性、石川豊子氏の言葉を、ある本から抜粋しよう。
「家康公については、岡崎の方々にしても悪く言うのを聞いたことがありません。これは主人も同じで、どちらかというと太閤秀吉については、あまりよく言いませんでした。数正は家康公から離れて秀吉のほうに行ってしまいましたから、なぜなのかと思ったことはありますけどね」
(小和田哲男著『徳川家家臣団―子孫たちの証言』より一部抜粋)
是非とも、私の勝手な想像だと聞き流してもらいたい。
徳川家康に不満があっての出奔であれば、それらしきことが、子孫に口伝で伝わっていた可能性が高い。しかし、実際は、秀吉の方があまりよく言われていなかった。子孫の方の個人的な感想なのかもしれないが、つい、出奔には何か裏があったのではと勘ぐってしまう。
やはり、石川数正は家康の命を受けて…
いやいや、自らを犠牲に志願して…
400年以上経った今も、想像は膨らむばかり。
妄想なのか、幻想なのか。
真相は闇の中。
知るのは秀吉、家康、数正の3人のみ。
あの世で、声高らかに大笑いしているのかもしれない。
参考文献
『徳川家家臣団―子孫たちの証言』 小和田哲男 静岡新聞社 2015年4月
『別冊宝島 家康の謎』 井野澄恵編 宝島社 2015年4月
『徳川四天王と最強三河武士団』 井上岳則ら編 双葉社 2016年11月
別冊太陽『徳川家康没後四百年』 小和田哲男監修 平凡社 2015年4月