江戸時代最大のベストセラーともいわれる「東海道中膝栗毛」。弥次喜多コンビのコミカルなやりとりには、現代の私たちでもゲラゲラと笑ってしまいますよね。この作品の作者といえば十返舎一九(じっぺんしゃいっく)。彼のあふれるユーモアは、作品の中だけに止まりません。自分の「死」までもネタにして人を笑わせていたのだとか。面白エピソードとともに、一九がどんな人物だったのかを紐解いてみましょう。
「東海道中膝栗毛」をサクッとおさらい
「東海道中膝栗毛」は、1802(享和2)年から1809(文化6)年にかけて出版された滑稽本。滑稽本とは、町人の日常生活を対話式で面白おかしく取り上げた、江戸時代の小説です。「東海道中膝栗毛」の主人公は、弥次郎兵衛(やじろべえ)と喜多八(きたはち)。このふたりが、江戸から伊勢を目指す物語です。道中、さまざまな冗談を言い合ったり、行く先々で騒ぎを起こしたり、そんな楽しい旅の様子がコミカルに書かれています。
十返舎一九ってどんな人だった?
十返舎一九は1765(明和2)年、駿河国(現在の静岡県)に生まれました。一九が江戸に出たのは、1783(天明3)年の19歳のころ。武家に奉公しますが長くは続かず、このあと十数年ふらふらとした生活を送りました。おっと、十数年もふらついていたというと、とんでもないニートを想像してしまいますが、一九はこの期間で香道や浄瑠璃など、さまざまなことを学び歩いていたのだそう。
30歳で人生がガラリと変わる
1794(寛政6)年、30歳のころに転機が訪れた一九は、ふらふら人生に終止符を打ちます。葛飾北斎、喜多川歌麿ら有名浮世絵師と手を組み、いくつもの話題作を世に送り出した版元・蔦谷重三郎(つたやじゅうざぶろう)との出会い。文章も絵も得意だった一九は気に入られ、重三郎の元で人気作家の挿絵や用紙の加工などを手伝うようになります。そのうち、重三郎の薦めで黄表紙(絵本)などを自作するようになりました。出版の裏方仕事を続けながら、洒落本や滑稽本などさまざまな作品を出し、その名を世間に広めていきます。そうして、1802(享和2)年に出版した「東海道中膝栗毛」が大ヒットし、人気作家に仲間入りしました。
ユーモアたっぷりな作品で、江戸の人々はもちろん現代に生きる私たちまで笑わせてくれる一九。大の酒好きで、酒代が無くなると家財を質に入れてしまい、殺風景になった部屋の壁にたんすの絵を描いてごまかす--。なんて、その生き方もぶっ飛んでいたんだそう。
ご臨終までサービス精神旺盛!(?)
1831(天保2)年8月7日、67歳で生涯の幕を閉じた一九。葬儀の参列者を驚かせた、サービス精神旺盛な逸話が残されています。
一九は、死に際に弟子を呼び「私が死んでも湯灌(湯洗いして身を清めること)しちゃダメ。絶対に火葬してね!」と伝えました。遺言の通り、亡くなった状態のまま棺桶に入れ火葬すると……。ドーーーンと激しく花火が打ち上がりました。一九は死装束の頭陀袋(ずだぶくろ)のなかに、花火をたっぷりと仕込んでいたのです。
辞世の句が超カッコイイ
この花火の逸話にもつながるのが、一九の辞世の句。洒落が効いていて、カッコイイのなんのって。
「この世をば どりゃ おいとまに せん香の 煙とともに 灰左様なら」。
ばくっと現代文に訳してみると「ぼちぼちこの世をお暇しますね。線香の煙とともに、ハイ! サヨウナラ」。
『灰』の部分は、線香の『灰』と火葬後の自分の『遺灰』、そしてサヨウナラにかかる間投詞としての『はい』、この3つをかけたダジャレになっているのです。人を笑顔にする作品をたくさん世に送り出した、なんとも一九らしい辞世の句だと思いませんか? 一九が仕掛けた花火は線香花火だったともいわれています。もし本当にそうだったとするならば、『線香の煙』も線香花火とかけているのかもしれませんね!
自分の「死」をもネタにし、死後も人を楽しませた一九。「人を笑顔にしたい」そんなエンタメ作家としての精神を感じませんか?
自分のエンディングを考えてみない?
大切な人の「死」は悲しいし、自分の「死」は怖い。死について考えることはできるだけ避けたいですよね。けれども、元気な今のうちにしっかりと考えておくことが、自分の死後、大切な人たちの苦労を減らすことになるはずです。時間がたっぷりとある今、自分のエンディングとちょっぴり向き合ってみませんか? 一九のように、死後も人を楽しませるアイディアが浮かんできちゃうかも(花火は仕込んじゃダメですヨ)。