Culture
2020.05.17

いよいよ「麒麟がくる」越前へ!なぜ朝倉義景の時代に越前の文化都市は滅ぼされたのか?

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歴史上、ある時代に栄華を誇った「文化都市」というものはいくつか見られます。例えば、古くは古代ローマのポンペイや古代ギリシャのアテネ、ルネサンス時代のフィレンツェや大英帝国時代のロンドンなど…。日本でも、平安時代の京都や江戸時代の江戸などがそれにあたります。

しかし、こうした「文化都市」のラインナップに、戦国時代の越前国(現在の福井県)にあった都市・一乗谷(いちじょうだに)が挙げられるということをご存じの方は、意外と少ないのではないでしょうか。福井県民の方にたいへん失礼なのは承知の上ですが、私たちからすると「福井に文化都市があった」というのは、ちょっと想像つきません。が、戦国大名・朝倉氏の本拠地として知られるこの場所は、近年の研究で当時目覚ましい発展を遂げていた文化都市であることが分かってきたのです。

大河ドラマ『麒麟がくる』でも登場が予想される一乗谷は当時どのような姿をしていたか、また一体なぜ一乗谷の地が発展することになったか。この2点を見ていきましょう!

「小京都」と呼ばれ、経済的にも文化的にも恵まれた

越前一乗谷の地がいつ頃から朝倉氏の本拠地になったかということは、詳しく分かっていません。従来『朝倉始末記』という史料をもとに文明3(1471)年からその歴史が始まったと考えられていたのですが、近年ではもっと古い時期から朝倉氏が支配していたと判明しており、歴史像が大きく変化しつつあります。

そのため、移転当時の朝倉氏はまだ越前守護・斯波氏(しばし)の家臣であったと考えられますが、ちょうど文明3(1471)年に主君・斯波氏の混乱に乗じて権力を奪取。以後、越前国の守護職に命じられ、朝倉氏は戦国大名への道を切り開いてゆくのでした。

朝倉氏は越前国を平定すると、戦国時代としては比較的大きな戦乱に巻き込まれることのなかった一乗谷は栄華を誇るようになります。彼らが経済的・軍事的に優れていたことはもちろん、家臣として歴代の当主を支えた朝倉宗滴(あさくらそうてき)のように優秀な人材も多く、国の支配も安定していたことから順調に戦国乱世で力を伸ばしていきました。『麒麟がくる』の予告で「金が要るならくれてやろうぞ」と朝倉義景(あさくらよしかげ)役を演じるユースケ・サンタマリアさんが発言した背景には、こうした事情があったのです。「金がない、金がない!」とケチっぷりを発揮していた美濃斎藤家とは資金力が違います。まさにマネーイズパワー。

一乗谷の文化的な特色としては、京都譲りの貴族風な文化が極めて盛り上がっていたことでしょう。連歌や和歌はもちろん、絵画・猿楽に仏教まで、当時の高貴な文化はたいてい一乗谷に揃っているという状況でした。加えて、戦国大名が大切にした兵学や医学といった実践的な学問も充実しており、周辺諸国の誰もが羨ましがるような都市だったのです。

一乗谷発展の背景には「京都の荒れっぷり」がある?

しかし、一体なぜ越前の一乗谷がこれほど発展したのでしょうか。戦国時代にしては比較的平和で裕福だったことも理由の1つですが、他にもいくつかの偶然が重なってこの栄華は誕生しました。

まず第一に挙げるべき点は、古来より文化の中心地であった京都が当時荒れに荒れていたという事実でしょう。歴史の教科書にも必ず掲載されている大乱「応仁の乱」の影響はあまりに大きく、京都の地は壊滅状態になってしまったのです。

この状況に愛想を尽かしたのが、京都にいた数多くの文化人でした。「芸術を極めようにも都は荒れてるし、もうダメだなこりゃ……」と考えた彼らは、仕方なく京都を捨てて地方へと移り住むことを考えます。結果として多くの文化人が地方に流出し、地方の文化レベルが向上していくのですが、その恩恵を最も受けたのが朝倉氏であり、一乗谷でした。

一乗谷という地は、京都から比較的近くに位置します。今でも京都から福井は特急を使えば1時間半くらいで向かうことができますし、移住する地としては悪くない選択肢でした。加えて国内が安定しているとあれば、彼らにとって恵まれた環境が揃っていたのは間違いありません。

また、この地を治めた朝倉氏が、京都文化を特に愛していたことも大きな理由です。歴代の当主は文化面も優れた人物たちで、移り住んできた文化人たちを積極的に保護・支援しました。さらに、中には朝倉氏自ら文化の普及を目的として文化人を招へいした例もあり、単なる一時しのぎではなく越前の地で生涯を終える者もいたといいます。彼らにとって非常に住み心地のよい場所であったことが分かりますね。

このように移り住んだ文化人たちが積極的に文化を広め、それを朝倉氏が愛したことで一乗谷は文化都市と化していったのです。

朝倉義景の時代に織田信長の手で滅ぼされた

朝倉氏の支配を背景に文化都市としての地位を確立した一乗谷の栄華は、実に100年近くもの間続いていくことになりました。戦乱の世であることを考えれば、驚くべき安定感といえるでしょう。が、やがて一乗谷にも終わりの時が近づきます。その際に朝倉氏の当主を務めていたのが、『麒麟がくる』にも登場する朝倉義景でした。

義景は、天文2(1533)年に朝倉家当主・朝倉孝景の子として生まれました。義景は父が晩年に差し掛かったタイミングで出生したので、天文17(1548)年に父が亡くなると、若干16歳の彼が後を継ぎます。しかし、弘治2(1556)年に先ほども名前を出した名参謀・朝倉宗滴を病で失うと、その勢いに陰りが見え始めました。義景は加賀の一向一揆衆と戦を構え、将軍・足利義昭を越前に迎え入れるなどの活動を見せますが、朝倉氏の軍勢を背景に都への返り咲きを狙っていた義昭の期待には応えることができませんでした。その結果、彼らに愛想を尽かした義昭は国を出て、隣国・美濃へ手を伸ばしていた織田信長のもとへと転がり込んでしまいます。その後、信長は義昭を奉じて上洛し、彼を補佐して実権を握りました。

が、彼らはやがて権力の独占をめぐって不和がささやかれるようになり、その隙をついた義景は義昭と協力。いわゆる「信長包囲網」の中心人物として暗躍します。信長は義景の行動を強く警戒し、大軍を率いて越前へ攻め込みました。このとき朝倉氏は滅亡寸前まで追い込まれますが、信長の背後をついて浅井長政が立ち上がったため、なんとか窮地を逃れることができました。

それでも信長を滅ぼすまでには至らず、戦いは朝倉氏にとって不利な形になっていきます。義景はどうも軍事的なセンスに欠けていたようで、優柔不断な姿勢が災いしていました。やがて、浅井氏の救援に失敗した義景は刀根坂(とねさか)の戦いで大敗。義景は一乗谷を逃れ、この地は放火によって廃墟と化してしまったのです。

結局、義景を含めた朝倉氏も滅亡したため、崩壊した一乗谷の地は長らく忘れ去られてしまいました。

一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉氏館跡

この地がふたたび脚光を浴びるようになったのは、朝倉氏滅亡から実に300年余りが経過した昭和後期のこと。昭和46(1971)年に一乗谷の遺構が評価されて国の特別史跡に指定され、ほとんど手つかずの土地であったために発掘調査で数多くの遺構が発見されたためでした。現在では「一乗谷朝倉氏遺跡」として整備され、当時の様子をうかがい知れる観光地として全国の人々に愛されています。

一乗谷朝倉氏遺跡の復元町並み

昨今は新型コロナウイルス(COVID-19)の影響で気軽な観光が難しくなっていますが、終息後はかつての栄華を感じるべくこの地を訪れてみてはいかがでしょうか?

【参考文献】
『国指定史跡ガイド』一乗谷朝倉氏遺跡
水藤真『朝倉義景』吉川弘文館、1981年。
松原信之『朝倉氏と戦国村一乗谷』吉川弘文館、2017年。

書いた人

学生時代から活動しているフリーライター。大学で歴史学を専攻していたため、歴史には強い。おカタい雰囲気の卒論が多い中、テーマに「野球の歴史」を取り上げ、やや悪目立ちしながらもなんとか試験に合格した。その経験から、野球記事にも挑戦している。もちろん野球観戦も好きで、DeNAファンとしてハマスタにも出没!?