浮世絵師というと、一枚刷りの浮世絵を描いているイメージがありますが、彼らは本の挿絵も多数描いていました。今でいうイラストレーターのような存在でもあったのです。
現在、放送中の大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』に、後の出版プロデューサーとなる蔦屋重三郎が吉原で貸本を広げ、遊女たちが手に取るシーンが出てきます。これらは赤本や青本と呼ばれる絵本で、赤本には子ども向けの昔話やお伽話、青本には大人向けの芝居のあらすじや伝説などが書かれていました。こういった絵本に挿絵を描いていたのも、浮世絵師たちだったのです。ここではその一人、北尾重政(きたおしげまさ)について詳しく紹介します。
華やかな錦絵を描いて人気絵師となった北尾重政
その一人として名を残しているのが、北尾派の創始者である北尾重政です。彼は、華やかな浮世絵を描く一方で、数多くの赤本や青本、黄表紙※1などの草双紙(くさぞうし、絵入りの娯楽本)に挿絵を描いていました。
黄表紙、洒落本についてはコチラ
江戸時代の「大人向け小説」黄表紙と洒落本に書かれていたものとは?
赤本についてはコチラ
花咲か爺さんは外国人? 桃太郎はニート!? 日本昔話の語られざる姿をのぞいてみた
北尾派の創始者である北尾重政ってどんな人?
重政は元文4(1739)年に、江戸小伝馬町の書肆 (しょし・江戸時代の出版社兼書店)、須原屋三郎兵衛(すはらやさぶろべえ)の長男として生まれました。幼い頃から絵が得意だった重政は、独学で学び、絵師の道に進みます。そして、家業は弟に譲り、自分は絵本の挿絵を描いていくようになるのです。
明和2(1765)年頃から1色ないしは2~3色だった浮世絵が、多色刷りの美しく華やかな錦絵へと変化していきます。絵師たちはみな、錦絵に力を入れ始め、あっという間に広がっていきました。その先頭に立っていたのが、鈴木春信です。当時26歳だった重政もその影響を大きく受け、女性たちをリアルに描き、文化や流行を取り入れた画風で人気を呼びました。
蔦屋重三郎と組んで、ヒット本を生み出す
浮世絵師として注目を集めた重政は、11歳下の蔦重が企画した『一目千本』※2の絵師として抜擢され、話題の人となります。大河ドラマでは、若かりし頃の重政を橋本淳さんが演じています。
蔦重と仕事を共にした重政は、その熱意や仕事ぶりが気に入ったのか、その後、蔦重が出版する黄表紙や洒落本などに挿絵を描き、数多くのヒットを飛ばしました。
蔦重の仕掛けた錦絵本で押しも押されぬスター浮世絵師に
安永5(1776)年には、蔦重が企画し、重政と、北斎の師匠と言われる勝川春章(かつしかしゅんしょう)の共作で作り上げた錦絵本『青楼美人合姿鏡 (せいろうびじんあわせすがたかがみ)』が大ヒットとなりました。高位の遊女たちが、琴や書画、歌、香合、すごろくなどの芸ごとや座敷遊びに興じている様子を描いたもので、大河ドラマの中では、将軍に献上する本として登場します。
勝川春章の記事はコチラ
浮世絵師・勝川春章とは? 葛飾北斎の師匠の人生と功績
多数の優秀な門人を生んだ育ての親
重政の門下には、後に戯作者(げさくしゃ)・山東京伝(さんとうきょうでん)となる北尾政演 (まさのぶ)や、鍬形蕙斎(くわがたけいさい)となる北尾政美(まさよし)などがおり、有能な絵師を多数輩出していました。門下生ではありませんが、喜多川歌麿の才能を伸ばしたのも重政だと言われています。このように多くの弟子の生みの親である重政でしたが、弟子たちがこぞって浮世絵を描いても、若手の仕事と言われていた挿絵を中心に描き、蔦重の出す本を支えていきました。北尾重政の名前は、弟子の山東京伝や歌麿ほど一般的には知られていませんが、本屋に生まれた重政だったからこそ、本にこだわり、職人として、82歳の生涯を終えたのかもしれません。
山東京伝についてはコチラ
山東京伝とは? 重い処罰を受け、吉原を愛したマルチクリエイターの生涯
鍬形蕙斎についてはコチラ
江戸時代の絵師・鍬形蕙斎は、ゆるかわ動物王だった
アイキャッチ画像『青楼美人合姿鏡』 北尾重政 勝川春章 メトロポリタン美術館蔵
参考資料:『出版文化のなかの浮世絵』 鈴木俊幸 勉誠出版『蔦屋重三郎と江戸アートがわかる本』 歴史の謎を探る会【編】河出書房新社 『日本国語大辞典』小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)