「戦後日本最大の発明は何か?」と聞かれたことがある。
その時、筆者は数秒間を置いて「正村ゲージ」と答えた。友人はポカンとしていたが、筆者としてはもちろん本気でそう答えたのだ。
戦後日本の歩みは正村ゲージと、その開発者正村竹一が先鞭をつけた……というのはややオーバーな表現だろうか。しかし、この正村竹一ほど終戦直後の日本を体現している人物は他に見当たらないというのが筆者の感想である。
パチンコ台の釘と戦った男
名古屋でガラス商を営んでいた正村竹一は、同時にパチンコ店を営んでいた。
きっかけは戦前、藤井文一という人物にパチンコ台のガラス盤面の調達を依頼されたことだ。名古屋はベニヤ板の一大産地でもあり、パチンコ台を生産するための材料には事欠かない土地柄。そして藤井は、今現在のパチンコにつながる鋼球式を開発した人物だった。
それが縁で正村自身もパチンコ店を始めることになる。戦時中はさすがに営業を中断せざるを得なかったが、終戦後は大衆の娯楽が極端に少なかったこともあり正村はパチンコ店を再開することができた。
しかし、当時のパチンコ台は「子供の玩具」という色合いが強く、パチンコ店とは即ち駄菓子屋の延長線上だった。景品にタバコを並べるようになったら大人が集まってきたものの、パチンコはすぐに飽きられてしまった。
なぜか?
一言で言えば、当時のパチンコ台は玉の動きが単調だったからだ。釘に沿って玉が落ちるわけだが、「この隙間に玉が落ちれば恐らくこの入賞口に入るだろう」ということが簡単に予測できたのだ。
並の技術者であれば、玉の動きをより複雑にするために釘を多くする。が、正村はそれに疑問を感じていた。当時はパチンコ1台につき400本以上の釘が打たれていたが、正村はそのうちの300本を抜いてしまった。
その代わりに、釘の配置を工夫すればいい。
パチンコは人生を再現する
現在のパチンコ台も、飛び出した玉が最初にぶつかるのは天釘と呼ばれる部分である。
盤面の頂点に位置するこの天釘は、玉の動きにトリッキーな要素を加える。ついでに逆八釘の真下に風車をつけてみた。これにより、玉の動きが誰にも予測できないものになった。
正村の工夫はそれだけに留まらない。パチンコというものは入賞口に玉を入れることが最終目標だが、その入賞口の真上に命釘というものを施した。パラパラと舞い落ちる玉がハカマを通って入賞口手前にたどり着くも、最後の最後で命釘に弾かれるという仕組みにしてしまったのだ。
「正村ゲージ」と名付けられたこの釘配列は、娯楽に飢えていた大人たちの心を鷲掴みにした。
人生は当初の計画通りにはいかない。天釘に道を妨害されながらもどうにか己の目指す目標へ歩み寄る。しかしそこに命釘が立ちはだかる。ここまで何とか上手くやれたのに、結果は実らず。しかし最初は見込みのなかった玉が、不意に命釘をすり抜けて入賞口に入る。パチンコは人の一生そのものを再現していた。
さらに正村は、入賞口にも改良を加えた。この時代のパチンコ台の入賞口は1発入る毎に2、3発の出玉しかなかったが、正村はそれを10発以上に設定した。が、出玉数が多くなったということはパチンコ台の裏機構の改良も必要になってくるということだ。このオーバーフローに関する設計を担ったのは伊藤寿夫という人物である。1950(昭和25)年に発表された新台「正村式オール10」は、正村と伊藤の共作と表現するべきだ。
出玉調整を確立した正村
正村のパチンコ店は「完全師弟制」で知られていた。
たとえば、どこかの大金持ちが札束の詰まったブリーフケースを抱えて「正村さん、あなたのパチンコ台を並べた店を開店してみませんか?」と誘っても、正村はそれを断ってしまう。彼が力を入れたのは目先の金儲けではなく、釘打ち職人の育成だった。
パチンコには「出る日」と「出ない日」がある。それを釘の微妙な打ち直し方で調整してしまうのだ。素人目には絶対に分からない、1mmも満たない傾き具合の変化を毎日の釘調整で実現する。これは修行を積んだ職人にしかできない芸当だ。
そして「出る日」と「出ない日」を人為的に変えられるのだから、たとえばイベント日に赤字覚悟で出玉設定を甘くして後日少しずつシメていく……ということも可能だ。無論、日々の出玉数の統計はしっかり取っておく。現代のホールコンピュータにつながる仕組みを確立したのも正村だった。
正村式オール10とその後継機オール15は、戦争の記憶が未だ残る1950年代の日本人に「ひとときのオアシス」を与えたのだ。