「老舗に大事なのは、変えない強さです」
そう話してくれたのは、約150年の歴史を持つ「上野精養軒」の総料理長・富田高彦氏。
上野精養軒は日本に現存する中でもっとも古い西洋料理店で、洋食文化を日本に広めた草分けの存在。精養軒の歴史は、日本の洋食文化発展の歴史とともにありました。
上野精養軒の創業から現在に至るまでの歴史を、洋食の歴史とともにご紹介します。
築地精養軒〜上野精養軒の創業経緯
外国人の接待用施設として「築地精養軒」が創業
精養軒の創業は、1872(明治5)年。現在の本店は上野恩賜公園内ですが、創業当時には本店は築地にありました。その理由は「外国人居留地」が築地にあったから。
外国人居留地とは、政府が外国人の営業と居住を認めた区域のこと。幕末に締結された、日米修好通商条約など欧米5ヶ国との条約により、開港場である横浜・神戸・長崎・新潟・函館を中心に国内数カ所に居留地が設けられていました。
それぞれの居留地には、外国人を接待するための西洋料理を提供する施設がありましたが、東京には本格的な西洋料理店がありませんでした。この状況を改善しようと精養軒を創業したのが、岩倉具視の家臣だった北村重威です。
北村重威は岩倉具視へ西洋料理店の開店を進言し、三条実美の援助も受けつつ、皇居近くの馬場先門(現在の丸の内2・2丁目付近)に、精養軒をオープンします。
しかし、なんと開店初日に店舗が火事になってしまいました。その後、1872(明治5)年4月頃に木挽町での仮営業を経て1873(明治6)年、改めて采女町(現在の銀座5丁目付近)に「築地精養軒」をオープンしました。
築地精養軒は、創業当初は料理の提供のみでしたが、1876(明治9)年に外国人宿泊許可を取得した後は、正式に宿泊施設も兼ねていました。
上野恩賜公園の開園とともに、「上野精養軒」がオープン
築地精養軒をオープンした数年後、岩倉氏から北村重威の元へ「上野に『公園』を作るので、そこに支店を出してほしい」と要請がありました。
幕末の戦争で荒れていた上野の地。当初は国立病院を作る予定でしたが、オランダ軍医・ボードワン博士の「自然や眺めがいいので、病院よりも公園を作るのがいいんじゃないか」という提案がきっかけで、上野恩賜公園が誕生しました。
ちなみに、もともと日本には「公園」という概念がなかったようです。屋敷の庭園はありましたが、国や公共団体等が管理し、市民が使える公共の場としての「公園」は、ヨーロッパから入ってきた文化です。
上野恩賜公園が公園地として指定を受けた1876(明治9)年、公園内の不忍池のほとりに、上野精養軒がオープンしました。
上野精養軒は開園式典のレセプション会場として使われ、式典には明治天皇や大臣、宮内省(現在の宮内庁)、外国からの要人などが多数参加し、盛大に執り行われました。
その後、1923(大正12)年の関東大震災により築地精養軒は焼失したため、上野精養軒が本店となりました。
当時の築地・上野精養軒は国策の一環として作られた施設だったため、一般の人々はなかなか利用できる場所ではありませんでした。
大衆に西洋料理が広まり、「洋食」と呼ばれ親しまれるようになるまでの過程には、2つのターニングポイントがありました。
ひとつ目は関東大震災、2つ目が第二次世界大戦です。
日本で西洋料理がどのように発展していったのか。そして、どんなきっかけで庶民にも親しまれる存在となっていったのか——。
ここからは精養軒の歴史とともに、詳しく解説していきます。
精養軒の歴史は、洋食発展の歴史とともに
日本における洋食文化は、外国船が多く訪れる九州(宮崎、鹿児島)、関西(大阪、神戸)、関東(横浜、築地)の三箇所で、それぞれ発展していきました。
この章では関東地区、特に精養軒が店舗を構える東京における洋食の歴史について取り上げていきます。
創成期:レシピも食材もないところからスタート
見たことも聞いたこともない「西洋料理(フレンチ)」。料理人たちはメニュー名を見ても、どんな料理なのかさっぱりわからない状態でした。
そこでまず精養軒では、築地の外国人居留地からシェフを招き、西洋料理のレシピを学びました。
ただ、居留地にはいろいろな国の料理人がおり、レシピを教えてくれたシェフがどこの国のどんな料理人だったのか、はっきりとした記録が残っていないそう。そのため、当時教えてもらった内容が本場のフレンチのレシピだったかどうかは定かではありません。
この頃には、材料の調達にもかなり苦労しました。輸入品はある程度あったので、小麦粉やワインは手に入ったものの、特に手に入れにくく苦労したのは牛肉でした。
日本ではもともと牛や豚を食べる習慣がなく、食用の牛肉は公に販売されていませんでした。江戸の後期に牛鍋が流行りましたが、これは農耕用の牛を使っていたのだとか。
築地精養軒の時代には、横浜港まで足を運んで外国船から食材を分けてもらいつつ、「洋風な料理」をなんとか作っていたそうです。
「レシピも食材もない中だったので、ほとんど無国籍料理のようなものでした。ただ宮内省との関係もあったので、『しっかりとした西洋料理を提供しなければ』という心構えはあったようです(富田総料理長)」
食材が揃い、料理人たちの技術がある程度向上してきたのは、明治中期以降。
フレンチに欠かせない乳製品を確保するため、明治政府が千葉の房総半島に牧場を作ったことで、酪農が盛んになりました。そこから、牛乳やバターに近い乳製品(※)が手に入るようになっていきました。(※ちゃんとしたバターではなく、バターに似たものを作り代用していたそう)
同時期に、日本人料理人が修行のためフランスに渡るようになっていきました。築地精養軒のシェフも、「近代フランス料理の父」と呼ばれた有名シェフ・エスコフィエのもとで修行を積んだそう。
本場フランスで修行を積んだ彼らが日本に技術を伝えたことで、日本の西洋料理が本格的なものへと一歩近づきました。
ターニングポイント1:関東大震災
明治期の西洋料理は、限られた上流階級の人だけが食べるものでしたが、ある出来事がきっかけで、一般の人々にも西洋料理が広まっていきました。
それは、1923(大正12)年に起きた関東大震災です。
震災の影響で、築地精養軒をはじめ各地の西洋料理店が営業できない状態になり、多くの料理人が職を失ってしまいました。職を失った彼らは「こうなったら自分で店を開こう!」と考え、その頃から、各地に小規模な西洋料理店(洋食店)が次々と生まれました。
また震災で被害を負った日本には、外国からたくさんの食材が支援されました。小麦粉やとうもろこし、バターなどを一般庶民も食べるようになり、西洋の食材に対する感覚が少しずつ変化してきたのです。
これらの理由から、一般の人々も西洋料理を食べるようになっていきました。
西洋料理が、和食に対し「洋食」という呼び名で人々の間に浸透していったのは、おそらくこの時期からだったのではないか、と推察されます。
「一般の人々向けの洋食店では、従来よりも価格帯はかなり下げられました。ただそれでも、蕎麦やうどんの3〜4倍の値段はしたそうです。
『流行り物だからお金を出しても食べてみよう』という人がいたからこの値段で出せた……という時代背景があったのかもしれません(富田総料理長)」
一方、上野精養軒は引き続き皇室、軍人、政治家たちの利用がメインだったため、まだまだ一般の人々が足を運べる場所ではありませんでした。
ただ、精養軒はほかにも飲食事業を多数手がけており、その中には一般人でも比較的利用しやすい価格帯の店舗もありました。
大正時代、銀座にはカフェーブームが到来していました。カフェーブームを牽引した有名店はいくつかありましたが、そのうちのひとつが精養軒が運営していた「カフェーライオン」です。
※カフェー・ライオンは、1931(昭和6)年6月に大日本麦酒株式会社(現サッポロビール株式会社)に経営が移りました。その後、幾度かの店名変更・移転を経て、現在は「ライオン 銀座五丁目店」(株式会社サッポロライオン経営)として営業しています。
カフェーブームについて詳しく知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
▼「カフェー=エロ」の時代があった?!純喫茶の歴史を深堀りしたら「不純なカフェー」に辿り着いた
https://intojapanwaraku.com/culture/144336/
現代とは違い、当時の「カフェー」はお酒や洋食を提供するレストランのような店も多く、ライオンではビールとともに洋食を提供していたそう。
「ビールは高級品だったので、それに見合う洋風のおつまみとして、オムレツやソーセージ、ハム、パン粉をつけた揚げ物などを提供していたようです(富田総料理長)」
一般の人でも利用ができる店とはいえ、この時点での洋食店は、文学者や芸術家、軍人など、社会的地位があり裕福な人々が足を運ぶ場所でした。
では、より大衆向けの洋食店が誕生したのは、いつからだったのでしょうか?
ターニングポイント2:第二次世界大戦
2つ目のターニングポイントがやってきたのは、第二次世界大戦のあとです。
1939(昭和14)年〜1945(昭和20)年の大戦中には、日本の洋食文化は完全にストップ。もちろん、戦後もすぐに店を再開できる状況ではありませんでした。
「終戦後の精養軒は、米軍相手の仕事をしていました。国からの要請でガソリンスタンド事業も行っていたようです。1952年(昭和27年)にGHQが引き上げたタイミングで、また一からスタートを切りました(富田総料理長)」
戦後しばらくしてからデパートブームが到来し、それにともない、デパート内にレストランや食堂が設けられるようになりました。
このタイミングで、お子様ランチやエビフライ、オムライス……といった洋食が、「一般の人でもちょっと贅沢をすれば食べられるもの」になりました。
こうして、より多くの人に洋食が浸透していったのです。
渋沢栄一、森鴎外、太宰治など、著名人が多数来店
日本における洋食文化の礎を築いた精養軒には、多くの著名人が訪れました。
皇室をはじめとする上流階級の人々が主に来ていた時代には、政財界の社交場として使われることが多く、中でも渋沢栄一は式典や会合などで頻繁に利用していたそう。
1879(明治12)年に上野精養軒で開催されたグラント将軍(南北戦争のアメリカ軍の総司令官、大統領も務めた人物)の歓迎会にも、渋沢栄一は出席していました。
また、文豪も数多く訪れていたそうです。総料理長・富田さんにお聞きしたところ……
谷崎潤一郎、森鴎外、芥川龍之介、高村光太郎、太宰治 中原中也 夏目漱石 島崎藤村 与謝野晶子 三島由紀夫 小泉八雲 檀一雄 武者小路実篤(順不同)
といった、当時の文壇の超一流がこぞって利用していたそうです。
「本の出版時、ベストセラーになった際の祝賀会、外国へ行く際の送別会や結婚式など、築地店・上野店ともに、いろいろなシーンでご利用いただいておりました(富田総料理長)」
永井荷風の『断腸亭日乗』の一節には、森鴎外が亡くなった後の食事会が上野精養軒で開かれたとの記載があります。荷風は度々上野精養軒を利用していたようで、同書内には「観劇後に友人と精養軒を利用した」という記載もありました。
また精養軒は、明治天皇の頃から皇室とのかかわりも深く、現在も園遊会や千葉、埼玉の鴨場(賓客の接遇の場として使用される皇室関連施設)での料理提供も担っています。
大正〜昭和にかけての「天皇の料理番」として有名な秋山徳蔵も、築地精養軒の出身。宮内省でのレセプションや晩餐会の折には、秋山徳蔵から「料理人やサービススタッフを貸してほしい」とオファーがよく来ていたそうです。
創業時の味を堪能できる、ドミグラスソースとコンソメスープ
現在の上野精養軒は本店として、伝統的なフランス料理を提供する「グリルフクシマ」と、昔ながらの洋食が味わえる「本店レストラン(洋食)」の2店舗を構えています。この2店舗では、創業当時からの味を今でも味わうことができます。
中でも、ドミグラスソースとコンソメスープは、時代に応じて微調整はしているものの、創業時からほとんどレシピを変えていないそう。
コンソメスープは、まずチキンブイヨンを取って1日置き、その後チキンと牛すね肉を煮込んでから漉す作業を繰り返して、4日目に味付けをすれば完成。
スープとしてそのまま提供するのが基本ですが、コンソメを煮詰めたものをソースとして使うこともあるそう。
ドミグラスソースは、野菜や鶏がら、牛すじなどを煮込んでは漉して、また煮込んでは漉して……と何度も繰り返し、7〜9日かけてやっと完成します。
ドミグラスソースを使った一番人気のメニューは、「本店レストラン(洋食)」で食べられるビーフシチューです。
私も取材時にいただきましたが、一口食べると口の中に濃厚な味わいが広がり、最高に幸せな気分に。
ちなみに、「デミグラス」ではなく「ドミグラス」と表現するのが上野精養軒流。
ドミグラスの表記は「demi-glace」(フランス語)で、英語だと「デミ」、フランス語だと「ドゥミ」の発音になるそう。「ドゥミ(demi)=半分」「グラス(glace) =煮詰める」という意味です。読み方ひとつとっても、本格フレンチに起源をもつ精養軒ならではのこだわりを感じます。
「本物を提供する」コロナ禍を経て、精養軒が見据える未来
最後に、精養軒の歴史をたっぷりと教えてくださった富田総料理長から、今後の精養軒についてのお話を伺いました。
富田:実は、コロナ禍を経て改めて、「今一度、基本に立ち返ろう」と考えるようになったんです。
バブル期以降の上野精養軒では、抱えている料理人の数に対し、ご予約いただける宴会の数が多い状況が長らく続いていました。そうなると、料理の工程を部分的に簡素化していかなければ、仕事がまわりません。
もちろん、料理の質は落とさないように……というのは念頭に置きつつ、経営面も考えながら店舗運営をしてきました。ただ、昔から精養軒で働いてくれている料理人の中には、“変わっていく精養軒”に対して何かしらの思いを抱えていた人もいたんじゃないかと思います。
富田:新型コロナウイルスの影響で宴会のご予約が減り、良くも悪くも時間的な余裕ができたことで、今一度上野精養軒が向かうべき方向を考えるようになりました。
そこで、「本物のおいしいものを提供しよう」という方針を打ち出し、上野精養軒の「本店レストラン(洋食)」で提供する洋食のクオリティを、今まで以上に磨きをかけていくことにしたんです。
老舗にとって大切なのは「変えない強さ」です。その時代ごとのブームはありますが、ブームはあくまでも一過性のもの。何十年、何百年と歴史を重ねていく老舗がやるべきことは、先人が築いた財産を大切にしながら、とにかくおいしいものをお客様に提供することなんじゃないか、と。
洋食文化が廃れることはないと、私は考えています。ハンバーグやオムライスなど、小さい頃に食べた洋食の味は、大人になってもずっと自分の中に残っているものだと思うんです。
昔からのお客様には「やっぱり精養軒はおいしい」と言っていただきたいし、初めて来たお客様には「精養軒ってこんなにおいしいんだ!」と思っていただきたい。
150年の歴史を感じられるような料理とサービスを提供していくのが、うちの本分だと考えています。
富田総料理長の「とにかくおいしいもの、本物を提供する」という言葉からは、老舗の重みが感じられました。
上野精養軒では、本物の味をより多くの方に届けるために、富田総料理長監修のもと自家製クッキーや冷凍食品ギフトのオンライン販売をスタートしたそう。
▼上野精養軒オンラインショップ
https://uenoseiyoken.shop/
歴史や伝統を重んじ、変わらぬ味を守り続けながらも、その味をより多くの人に届ける手段としてオンラインを活用しているところから、柔軟な姿勢を感じます。
「変えない」こだわりだけでなく柔軟な部分も併せ持っているところが、約150年もの長きにわたり、上野精養軒が多くの人に愛されてきた理由なんだろう……と思いました。
創業から変わらず、不忍池のほとりに店を構える上野精養軒。春先には、店内から満開の桜が眺められるそう。もしかしたら、桜を楽しみに、毎年春の季節に来店されるお客様もいるのかもしれません。
新型コロナウイルスの影響がまだまだ大きく、外出も控えがちな昨今。季節の移ろいも感じにくい日々が続いています。
春先には、桜を楽しむ余裕があるような状況になっていることを願いつつ、本稿を締めたいと思います。
※参考URL
サッポロライオン 沿革
https://www.ginzalion.jp/company/history/