「一服一銭」は人の多い場所に出て茶を売り歩いたといわれる。国立国会図書館デジタルコレクション『日本喫茶史料』より部分
千利休とキリスト教の関係
弟子たちとキリスト教
利休には弟子の数が多かったといわれますが、信長の茶頭から秀吉の茶頭へ、そして天下一の宗匠となるにつれ、純粋に茶を学ぶというよりも、立身出世や保身のために弟子になりたいという人も増えていきます。
公家のように和歌管弦などの教養を持たなかったこの時代の新興の大名や武士にとって、茶は習得しやすい、新しい教養として受け入れられ、しだいに政治活動の一環になったからです。
でも利休にもっとも近い弟子たちと言えば、やはり後世に「利休七哲(りきゅうしちてつ)」と呼ばれる弟子たちでしょう。
彼らは利休自身が決めたものではなく後世の人がノミネートしたもの。そのため7人の顔ぶれには変動がありますが、この中にはキリスト教に関係の深い人が多いという事実が。
利休の没後七十年頃に書かれた『江岑夏書(こうしんげがき)』によれば、「利休七哲」は、高山右近、蒲生氏郷、細川三斎、柴山監物、瀬田掃部、牧村兵部、古田織部となっており、すべて武人で大名茶人です。
そして、「ジュスト高山右近」の洗礼名を持つ高山右近、同じく「レオン蒲生氏郷」はキリシタン大名として知られ、瀬田掃部、牧村兵部、古田織部にもキリシタン説があります。また、細川三斎はキリシタンのガラシャ夫人を妻に持ち、実母や息子も受洗していたといわれています。
利休自身はキリシタンではなかった
利休は禅宗の僧ですが、最初の妻である女性との間の娘のいずれかが後に堺でキリスト教に入信したという話も残っています。
このように身近にキリシタンが多かった利休が、ひょっとして改宗したのではないかという疑問も浮かびますが、それについては「キリシタンではなかった」という説が一般的です。
その根拠は、利休がキリスト教で禁止している自殺をしたことにあると見る人が多いようです。
たしかに、細川三斎の妻のガラシャ夫人は、関ケ原の戦いで石田三成の人質になることになることを拒み、自害ではなく家来の斬首により命を絶っています。
また、当時の大名や富裕な商人がキリシタンに興味を持っても入信しなかった最大の理由は女性問題にあったといわれ、1586年のイエズス会日本年報によると豊臣秀吉も「多数の妻をもつことを許さぬ禁令をゆるくすれば、我もまたキリシタンになるであろう」と言ったとか。
利休は最初の妻との間に一男三女、二人目の女性との間には二男三女をもうけました。
さらに三人目の宋恩という女性の連れ子が利休の娘と結婚し、千家の養子となって利休の死後に京千家の創始者となったといわれています。
このように複雑な家族関係を持つ利休にとって、キリスト教の教えが馴染まなかったという説もあるようです。
キリスト教のミサと茶道の共通点
茶道や禅に詳しい方は、「茶禅一味(ちゃぜんいちみ=茶道は禅から起こったものであるから、求めるところは禅と同一であるべきである)」という言葉をご存知かもしれません。
利休が改宗しなかったのであれば、利休が影響を受けた宗教は禅宗のみで、そこにはキリスト教の要素などみじんも無いように思えます。
しかし、岡倉天心が明治の時代、西洋へ向けて日本の茶道を紹介した『茶の本』に、「僧侶たちは(中略)ただ一個の碗から聖餐(holy sacrament)のようにすこぶる儀式張って茶を飲むのであった。この禅の儀式こそはついに発達して15世紀における日本の茶の湯(Tea-ceremony) となった」という記述があります。
もちろん、岡倉天心が「聖餐のように」と説明したのは、茶の湯を知らない西洋人が理解しやすいよう配慮したことは明らかで、茶の湯と聖餐(式)の雰囲気や部分的に似ているところがあっても偶然と言えばそれまでですが、目にした人の印象として「似ている」ことは否めないのかもしれません。
濃茶と聖杯の「飲みまわし」
茶道とミサ(教派により聖餐式、聖体礼儀など。ここではミサに統一)の「似ている」箇所をあげるとすると、まず茶道の濃茶では一つの茶碗から抹茶をまわし飲みし、ミサではパンとぶどう酒の入った聖杯(カリス)をまわし飲みするところです。
濃茶の場合
「濃茶」は一つの茶碗で飲みまわすのが一般的ですが、利休より前の時代は、濃茶も一服ずつ点てられていました。
天文年間(1535-55)の茶会記『宗達自会記』という資料からは、すでに現在のように一つの茶会の中で、最初に濃い茶、最後に薄茶が出され、濃い茶は飲みまわすものでなく、各服だてであったことがわかります。
また、利休の死から100年後に書かれた『茶湯古事談』には、「むかしハ濃茶を一人一服つつたてしを、其の間余り久しく主客共に退屈なりとて、利休か吸茶(回し飲みのこと)に仕そめしとなん」とあり、各服だての濃い茶を回し飲みの形式にしたのは利休だとされています。
利休が、かつて目にしたことのある聖杯の飲み回しを参考にしたのではないかという説もあり、その根拠として、宣教師フランシスコ・ザビエルが来日した際に世話をした堺の豪商の屋敷内で、利休が間近でミサを見たことがあったといわれています。
また、農民一揆などの前には神前で酒を飲みまわし、一味同心の感情を喚起したことから、回し飲みによる連帯感や一体感を目的としたという説も。
しかし戦国時代の世、連帯感が強まる一方で、回し飲みの際に茶に毒を入れられる危険がともないます。
亭主が飲みまわされた濃茶の茶碗が戻ってくると自分も茶碗に湯を加えて濃茶の残りを飲むのは、毒の危険がないことを示すためだったとか。
ミサの場合
いっぽう、キリスト教の聖杯の飲みまわしは、そのルーツをあの「最後の晩餐」に持ちます。
イエスが十字架にはりつけにされる前夜、エルサレムのある二階座敷で、弟子たちとともに記念の晩餐をしたという場面は有名ですよね。
十二弟子とともに食事の席についたイエスが、パンをとり、祝福してこれを割いて「とって食べよ、これはわたしの体である」、また杯をとり、感謝して「みな、この杯から飲め、これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」と言ったと聖書で伝えられています。
ローマ法典によると、ミサの中で司祭はパンを裂いて一部をぶどう酒に浸してこれを飲食し、さらにその聖体を信者に配り、信者もこの聖体拝領を行い、その時に聖杯に入ったぶどう酒をまわし飲みします。
また、現在のミサは日本でも立って行うものですが、キリスト教が普及し始めた頃は仏教寺院を教会堂として使用することも多く、この頃に日本で行われていたミサは、畳に座って行うことがほとんどでした。両者はますますよく似ていたといえそうです。
茶巾と聖布
まわし飲みと並び、両者が似ているといわれるのが、茶道の「茶巾」と「聖布(プリフィカトリウム)」の使い方、特にそのたたみ方です。
茶道の場合は、濃い茶のまわし飲みの後、帰ってきた茶碗にお湯を入れて回してすすぎ、そのお湯を捨ててから茶巾という長方形の白い布で拭く所作があり、ミサのほうは、聖体拝領が終わった後はパテナ(パン皿)を拭いて、カリス(聖杯)に水を注いですすぎ、掃除布(プリフィカトリウム、聖布とも呼ばれる)という、こちらも細長い白い布で拭きます。
両方ともこれを縦に三つ折りにして使いますが、これを横に二つ折りにするか、それをもう一度二つ折りにするかという違いはあるものの、たたむ動作を見ている人には非常に似ている印象を与えます。
にじり口は聖書の言葉に通じる
さらに、茶室の入口である「にじり口」も利休の創作とされていますが、露地の中門も狭い門であり、にじり口は、身を小さく縮めなくては入れないごく狭い入口です。
これは「狭い門から入れ」という聖書の言葉(マタイ福音書7:13)に通じるのではないかといわれています。
茶道具に残るキリスト教の影響
他にも、当時のキリシタン大名の特注の抹茶碗などに十字架紋が描かれているものがあります。
特に、利休七哲にも登場した古田織部の指導で作られたといわれる織部焼には、キリスト教の十字架を模したかどうかは不明であるものの、イエズス会の象徴である「十字紋に三本の釘」を連想させる十字紋と釘の模様がほどこされた茶碗なども残っています。
また、茶庭などに置かれた灯籠の中には「織部灯籠」や「切支丹(キリシタン)灯籠」と呼ばれ、マリア像に見立てられてキリシタン弾圧後にもひそかに崇拝の対象となったとされるものも。
これらは茶道そのものへの影響というよりは、利休が生きていた当時、茶とキリスト教は現在の私たちが思うよりもずっと近い関係にあったと考えることができそうです。
茶道の様式にキリスト教の影響があったと確実にいえるわけではありません。
しかし、一説には、この頃にキリスト教に改宗した日本人は九州や近畿を中心に15万人にものぼったともいわれ、貧富や身分の差、老若男女を問わず急速に普及したキリスト教は、現在の私たちが想像するよりもずっと身近なものだったのではないでしょうか。
信長や秀吉のように、世界を視野に入れた権力者の側近くに仕えた利休が、当時、最先端の文化であったキリスト教を何かの形で取り入れた可能性はあるかもしれません。
利休が茶道をどのように後世に伝えようとしたのか、一服のお茶をいただきながら想いを馳せてみてはいかがでしょうか。
参考文献:
『茶道と十字架』増渕宗一著 角川書店 1996年2月
『茶の本』岡倉覚三著 村岡博訳 岩波文庫 1929年3月
※アイキャッチは『座敷八景 台子の夜雨』 鳥居清長