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2021.12.17

太宰治が旅立った「玉川上水」愛と謎に満ちた史跡の宝庫を歩く

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江戸時代、羽村取水堰(しゅすいせき)から多摩川の水を取り込み、新宿御苑横の四谷大木戸まで引かれた玉川上水。人口が増加した江戸の水道網を充実させるために、約8ヵ月という驚異の短期間で掘られたとされます。

JR青梅線羽村駅西口から歩いて10分ちょっと。坂道を下って突き当たった奥多摩街道を渡ると、多摩川の流れが見えました。道路のすぐわきには、いくつか水門があります。ここが玉川上水の羽村取水堰です。

すごいスピード感!神田上水の完成から60数年後に作られたんですって。

手がけたのは、玉川兄弟。取水堰横の広場には彼らの銅像が建っています。庄右衛門、清右衛門兄弟が、上水工事の功績により、玉川の名字を賜り帯刀を許された、とされますが、実はこの兄弟については諸説紛々。江戸の町人説が有力ですが、なぜ町人が玉川上水という超難工事(その理由は後ほど)に関わったのか? という疑問も当然わきます。そもそも、工事を指導したのは別人だったという話もあるのです。

実は謎が多い玉川上水。その近辺には、玉川上水の水が流れる酒造場、地下5階で実際の下水道が見られる施設、住宅街にある必見の小さな美術館などがあり、そして太宰治のあの現場があります。

多彩な見どころを訪ねる、およそ43kmの玉川上水散策紀行に出発! ですが、まずは羽村駅近くの外せないスポットへ。

時田さんの大作!玉川上水と散策への情熱を感じる!

まいまいず井戸

羽村駅東口からすぐの神社の境内に、広く囲まれた一角があります。そこには渦を巻くように小道が降りていて、真ん中には井戸らしきものが。これが「まいまいず井戸」。まいまいずとは、かたつむりのことです。小道の形が似ていることから名づけられたとのことです。

たしかに渦巻いてるみたい!


解説版によると、つくられたのは鎌倉時代と推定され、その後、江戸時代などに数回修復されてきたそうです。武蔵野台地は砂などが多い地帯で、昔の技術では井戸を垂直に掘るのが難しかったため、このような形になりました。地表での直径は約16m。深さは約4m。すり鉢状のくぼ地の中央に、深さ約6mの井戸が掘られています。

すり鉢を2周ほどして井戸に降り、水を汲んで、また登っていく。水を得ることが、どれだけたいへんな仕事だったが想像できます。この砂礫層地帯が広がる武蔵野の土地の特性も、玉川上水と深く関わってくることになります。

玉川上水の開削工事

東京都水道局のサイトなどを参考に、玉川上水の歴史についても、最初に触れておきましょう。江戸の西、武蔵野台地は井戸を掘るのが難しい。東は湿地帯か埋立地で、井戸を掘っても塩気の多い水しか出ない。江戸で水を確保するのは、初めから大きな課題となっていて、まず神田上水が整備されたのは前述のとおりです。

3代将軍徳川家光の頃、参勤交代制度が確立されると、江戸には大名やその家族、家臣が住むようになり、人口は急激に増加していきました。家光の時代に新しい水道として玉川上水が計画され、家光の死後は4代家綱が引き継ぎます。『上水記』によれば1652(承応元)年、計画が立てられ実施が決定。翌1653(承応2)年4月4日に着工され、同年11月15日に四谷大木戸まで、約8ヵ月(この年は閏年で6月が2度あったため)で開削されました。さらに、江戸城などへの排水管が敷設されたのは、その翌年6月のことです。

約43kmの距離を8ヵ月で開削するというのは、それだけでも驚異的なことですが、羽村から四谷大木戸まで約92mの標高差(100mでわずか約20cmの高低差)を利用して水を流すというのは、かなり高度な技術が必要とされます。そこで最初の疑問。町人の玉川兄弟にそんなことはできたのか?

玉川上水ミステリー!

玉川兄弟は失敗した?

玉川上水の歴史をまとめた前出の『上水記』。実は、書かれたのは玉川上水の完成から140年後のこと。同時代の記録ではありません。『上水記』の12年後に書かれた『玉川上水紀元』には、玉川兄弟の工事は2度失敗し、頓挫しかけたものの、上水工事総奉行の松平信綱が家臣に命じて、成功させたとあります。

江戸研究に生涯をささげ、江戸学の祖と呼ばれる三田村鳶魚(えんぎょ)は「玉川上水の建設者 安松金右衛門」(『鳶魚江戸文庫20 江戸人物談義』収録 中公文庫)で、そのことを詳しく書いています。「折角の計画であるこの玉川上水案を放棄するのを残念に」思った松平信綱は、「自分の家来に安松金右衛門という水利に達した者があるので、その安松に命じて、新たに玉川上水路の設計をさせ、首尾よく全国無二の長距離、大規模の工事を成就」させたというのです。玉川家については「自分の威福のために都合のいいように、手前勝手なことばかりを書き上げたように思われる」と手厳しい書きようです。

また、『徳川実記』には、関東郡代・伊奈忠治が水道奉行を命ぜられるとありますが、この伊奈忠治は、利根川のつけ替え工事を行った人物とされます。玉川上水の工事でも、重要な役割を果たしたのではと考えられます。三田村鳶魚も、玉川兄弟が発案し、願い出たことは確かかもしれないが、「安松の設計によって、伊奈の手で工事」がなされたという見解です。

どれが真実であるかは、今でもよくわからないものの、江戸時代のエキスパートたちが知恵を絞り、試行錯誤で設計、工事を行い、最後に、水を江戸に引くという目的を達成したことは事実。しかも、結果として、その技術力は非常に高いものでした。玉川上水が完成したことで、江戸は世界一ともいえる大都市へと発展することができたのです。

ではいよいよ、散策へと出発しましょう!

段丘を越えていく清流

羽村取水堰は、川をせき止める投渡堰(なげわたしぜき)、第一水門、第二水門から成り、玉川上水に水を引いています。おもしろいのは、投渡堰。杉丸太、そだ(木の枝を束ねたもの)、砂利などを使って作られた堰で、台風など大雨のときは濁流を玉川上水に流さないように、堰を壊してしまうのです。“天然もの”で作られていますから、多摩川に流しても問題はありません。作り直すのも簡単です。これは江戸時代からの土木技法とのこと。江戸のエコには、改めて驚かされます。

右側に見えるのが投渡堰。水の流れは多摩川

右奥にあるのが第一水門

第二水門
江戸時代にそんな工夫がされていたなんて!

取水堰横の広場を9時55分に出発。水門から取り入れられた水は、第二水門から勢いよく流れていきますが、すぐにゆったりとした清流の姿に。玉川上水沿い、下流に向かって右側には小道が続きます。上水の対岸には奥多摩街道、右手には住宅街が広がりますが、15分ほど歩くと、山道のような木立の中へと入っていきます。

第二水門から流れ出たばかりの玉川上水は幅が広く、ゆったりとした流れ

左下が玉川上水。多摩川は右手、住宅街の向こうを流れる
爽やかな鳥の声も聞こえてきそう!

先ほどまで間近を流れていた玉川上水は、だいぶ下の方を流れています。ここが段丘を越えているあたり。土地が高くなっているため、深い場所を掘って、流れるようにしているわけです。高低差がないことは記したとおりですが、それだけではなく、さまざまな難所が玉川上水には立ちはだかっていました。そのひとつが、新堀橋一帯の段丘です。

玉川上水沿いの道はゆるやかな坂を上がっていき、山道のように

段丘を越えるため、道からは深いところを流れる

なお、「玉川上水散策地図」がサイト上にあり、リンクフリーで印刷、配布も自由になっています。トイレの場所なども記されていて、とても便利です。
玉川上水散策地図

予約して見学したい分水 田村酒造場

段丘を越えた玉川上水は、武蔵野台地の稜線を流れていきます。ほかの土地より高いところを通っているため、玉川上水からは多くの分水が引かれました。『上水記』には、1791(寛政3)年頃、33の分水が記録されています。分水は、飲料水や水車の動力、また灌漑用水として利用され、水を得ることが難しい武蔵野台地の開発に大きく貢献しました。

羽村取水堰から徒歩30分ほどの「田村酒造場」(福生市)では、分水を見ることができます。田村家は、福生村を切り拓いた旧家のひとつ。村の名主などを勤めてきました。

田村酒造場側から見た玉川上水

酒蔵の横を流れる分水

酒造業を始めたのは、1822(文政5)年のことです。酒造りを始めるとき、敷地内で井戸を掘ると清冽な泉が湧いて出ました。秩父奥多摩伏流水と呼ばれる中硬水で、酒造りには最適な水でした。9代目はこの水を「よきいずみ」とたたえ、酒銘を「嘉泉(かせん)」と命名。田村酒造場を代表する銘柄となっています。

古い煙突が印象的な酒蔵。ただし現在、煙突は使われていない

幕府から取水権を得て、田村分水を敷地内に取り入れたのは1867(慶応3)年でした。「酒造りには井戸水を仕込み水として使っていますが、そのほかにも酒造業では水をたくさん使うため、そちらで分水を利用しています」と社長室長の吉原勝さん。田村分水は、下流の水田開発や生活用水として利用され、福生の地を潤してきました。

庭のケヤキは樹齢800年。東京で最古のケヤキともいわれる

予約をすれば、酒蔵だけではなく、田村分水も見学することができます(見学の受け入れについては要確認)。来年は創業200年を迎える田村酒造場。いろいろな意味で注目したい、玉川上水沿いの見どころのひとつです。

田村酒造場の商品の数々

田村酒造場

難所 水喰土(みずくらいど)公園

田村酒造場からは、奥多摩街道をしばらく歩きます。右手が開けたところでは富士山も遠くに見えました。

奥多摩街道。玉川上水は街道の右側を流れる

わ〜富士山だ!結構大きく見える!

五日市街道と交差する牛浜交差点を過ぎ、ほたる通りを左に入ります。玉川上水に架かる青梅橋は、愛称がほたる橋。夏には、上水にホタルが飛び交うようです。

青梅橋から眺めた玉川上水の風景。白サギが悠々と歩いていた

そのまま上水から離れて、JR青梅線の踏切を渡り、しばらく線路沿いを歩きます。その先にあるのが、水喰土公園。「みずくらいど」とは恐ろしそうな名前ですが、実際、玉川上水の開削工事はここで一度挫折しています。水が地中に吸い込まれてしまったのです。まさに「水喰土」。

結局、北側の新たなルートを掘り進め、この難所をなんとか乗り越えたのでした。工事が失敗した跡は今も残されていて、その一帯は現在、公園となっています。

水を通すのが大変なのがよくわかる。

川の立体交差

11時に水喰土公園を出発し、拝島駅のそばを通ってさらに進みます。羽村取水堰から拝島駅までは約6km。駅の先からは昭島市へ。駅周辺のにぎやかな場所を抜けると、閑静な住宅街に入ります。やがて玉川上水を挟んで右手に、広々とした昭和の森ゴルフコースが現れました。

しばらくは、その横を歩いていきますが、一部、上水は暗渠になります。戦時中に、飛行場の滑走路延長のため、玉川上水にはふたがされ、そのままとなっているのです。今はゆったりとした遊歩道になっています。ゴルフ場の端まで歩いたところでちょうど12時。昼食を食べて12時35分に再び玉川上水沿いの道を歩き始めました。ゴルフ場の先からは、立川市になります。

滑走路延長のため暗渠となっている場所

20分ほどすると、あまり見られない不思議な光景が。いわば、川の立体交差です。玉川上水と残堀川が十字にクロスして流れているのですが、玉川上水は残堀川の下をくぐっています。「ふせこし(伏せ越し)」と呼ばれる工法で、サイホンの原理を応用しているとのこと。

「ふせこし」は外から見てもよくわからないが図で解説されている

昔、残堀川は玉川上水に合流していましたが、水が汚れてきたため、明治時代には今とは逆に、残堀川が玉川上水の下を「ふせこし」て流れていたそうです。その後、1963(昭和38)年に残堀川の氾濫対策などもあり、玉川上水が下をくぐるようになりました。

川幅20mほどの残堀川の下をくぐった玉川上水は、ふたたび地表を悠々と流れていきます。「ふせこし」から40分ほど歩くと、多摩都市モノレールが見えてきました。玉川上水駅に到着です。拝島駅からここまでは約7kmです。

玉川上水の川面に降りられる場所

玉川上水駅から10分弱歩くと小平監視所という施設があります。そのすぐ先の上水小橋は、玉川上水の川面に降りられる唯一の場所です。

このあたりからは、最初に掘られた分水である野火止(のびどめ)用水が分かれています。埼玉県の新座市を通って志木市に続く野火止用水は、上水工事総奉行・松平信綱の功績により1655(明暦元)年に許可されました。信綱は川越城主であり、領内に分水を引くことができたのです。

玉川上水は、後述するように明治以降も淀橋浄水場(新宿区)に新水路ができて活用されましたが、1965(昭和40)年、利根川の水が東京へ導かれるようになると淀橋浄水場が廃止となり、玉川上水も野火止用水との分岐点である小平監視所までで終了。ここから下流の玉川上水は流れが途絶えていました。

しかし、玉川上水を愛する人たちの尽力もあり、1986(昭和61)年、清流復活事業が進められ流れが復活します。現在、小平監視所からは、東京都下水道局多摩川上流水再生センター(昭島市)で処理された水が流れています。

小平市ふれあい下水道館

上水小橋からは、玉川上水を右に見ながら歩きます。と言っても、上水の流れは緑の木々に覆われていて見えませんが。上水沿いの道も木立の中を進んでいきます。

15分ほど歩き、ちょうど14時に小川橋へ。この少し手前から新堀用水という細い分水が玉川用水の左側すぐ隣を流れています。しばらく先で、田無方面へ向かっていきますが、それまでは2本の流れが平行に続いていきます。

14時35分、西武国分寺線の線路に差しかかりました。すぐ先には鷹の台駅があります。玉川上水駅、鷹の台駅間は約4km。この駅から徒歩約7分、府中街道沿いにあるのが「小平市ふれあい下水道館」です。下水道の仕組みや歴史、小平の水環境などがわかりやすく展示されています。

小平市ふれあい下水道館の外観

この施設がユニークなのは、1階から地下へと展示が続いていくこと。そして、一番下の地下5階では、直径4.5mの本物の下水道菅を見学することができるのです。予約なしで見学が可能な施設は、日本でもここ一か所とのこと。とても貴重な施設ですので、ぜひ立ち寄ってみたいものです。

実際に使われている下水道菅を見学できる(画像提供:小平市ふれあい下水道館、撮影:白汚 零氏)

小平市ふれあい下水道館

下水道は毎日使ってるけどよく考えてみたことなかったな。

小平市平櫛田中(ひらくし でんちゅう)彫刻美術館

小平市ふれあい下水道館から玉川上水へ戻り、新堀用水との間に続く小道を歩くこと15分ほど。住宅街の中にある「小平市平櫛田中彫刻美術館」も見逃せません。

玉川上水は右側を流れる。左の水の流れは新堀用水

平櫛田中は1872(明治5)年、現在の岡山県井原市生まれ。大阪の人形師のもとで彫刻修業をしたのち、上京して高村光雲(たかむら こううん。『道程』や『智恵子抄』で知られる高村光太郎の父)の門下生となります。昭和初期以降は、木彫り彫刻に彩色の使用を試み、表現の可能性を追求しました。1962(昭和37)年には、彫刻界での功績が認められ、文化勲章を受章しています。

この美術館は、1984(昭和59)年に平櫛田中の旧宅を「小平市平櫛田中館」として開館。その後、展示館を新築し、2006(平成18)年に、「小平市平櫛田中彫刻美術館」と館名を変更しました。

平櫛田中が東京都台東区からここへ転居したのは1970(昭和45)年。98歳のとき。107歳で亡くなるまでの約10年間を過ごしました。今回ご案内いただいた平櫛田中の孫の平櫛弘子館長は、「ふだんはやさしいおじいちゃんでしたが、作品に向かうときは厳しさを感じました」と言います。

繊細かつ大胆な力強さに満ちた作品を鑑賞すると、平櫛田中の人物像も浮かび上がってくるかのようです。その一方で、「六十 七十ははなたれこぞう おとこざかりは百から百から」と言っていた平櫛田中。なんだかとってもチャーミングで魅力的な人だと思いませんか?

「鏡獅子」(木彫彩色 1965年) 平櫛田中の集大成ともされる作品

「気楽坊」(木彫 1961年) 見ているだけで楽しくなる。今のような時代にこそ鑑賞したい

「福聚大黒天尊像」(右 木彫彩色 1970年)と「満徳恵比寿尊像」(木彫彩色 1971年)

制作中の平櫛田中(4点とも画像提供:小平市平櫛田中彫刻美術館)

小平市平櫛田中彫刻美術館

どことなく厳しさを感じる作品!おとこざかりは百からなんて、ステキ…!

小金井公園の横を通って三鷹駅へ

小平市平櫛田中彫刻美術館を出て玉川上水沿いを歩いていくと、やがて西部多摩湖線の踏切を渡ります。新堀用水はこの辺りから田無方面へ向かい離れていきます。その先からは、五日市街道沿いの歩道をしばらく歩くことに。

途中、20分ほどファストフードで休憩して、15時40分に出発。小金井橋に16時到着。ここから左手先には、小金井公園が広がっています。面積約80ヘクタール(日比谷公園の約5倍、上野公園の1.5倍)という広大な公園の中には、「江戸東京たてもの園」があります。1993(平成5)年、江戸東京博物館の分館としてオープンした同園は、約7ヘクタールの敷地にさまざまな歴史的建造物を移築し、復元、保存、展示。見学できる建物も多く、1日いても飽きることはありません。

あ!ここすごく気になってるところだ!玉川上水の近くにあるのか〜

江戸東京たてもの園の風景。ほかにも多彩な建物が見られる(画像提供:江戸東京たてもの園)

江戸東京たてもの園

鷹の台駅から小金井橋までは約4.7km。小金井橋からは小金井市に入ります。玉川上水沿いの道は、しばらく草むらの小道のようになり、その道が終わったあたりで武蔵野市へ。小金井公園はこの辺りまでで、道幅も広くなり、交通量も増えてきます。

小金井公園に沿って続く道は、そこだけ草木が繁っている

田無と武蔵境を結ぶ幹線道路の交差点に着いたのは16時40分頃。斜め前には境浄水場(非公開)があります。大正時代にできた施設で、水は多摩湖や狭山湖から引き入れているとのこと。緩速濾過(かんそくろか)方式という、砂の上に水を流して濾過する浄水場としては日本最大規模です。砂の輸送のためにJR武蔵境駅から引き込み線がかつてはあり、近くの公園などにはその名残が見られます。

左が境浄水場。右を玉川上水が流れる

引き込み線跡は公園や遊歩道になっている

境浄水場の先からは、玉川上水が武蔵野市と三鷹市の市の境界線となっています。住宅街を20分ほど歩くと、三鷹駅へと着きました。小金井橋からは約5km。時刻は17時10分。玉川上水の流れは、JR中央線三鷹駅の真下へと続いています。羽村取水堰から三鷹駅まで約27km。昼食や休憩なども含めておよそ7時間。暗くなってきたので、今日はここまで、です。

奥に三鷹駅がある。駅手前では、玉川上水の脇に降りられる
2日目はどんな旅になるのか楽しみ!

太宰治と山本有三

後日、再び三鷹駅を11時30分に出発。三鷹駅近辺は玉川上水沿いの散策の中でも、最もよく知られた場所だと言えるでしょう。その理由は、太宰治が過ごしていたのが三鷹であり、そして玉川上水で命を落としたからです。

昔『人間失格』とか『走れメロス』読んだな〜

2008(平成20)年、太宰ゆかりの酒店跡地に「太宰治文学サロン」がオープンし、2020(令和2)年には、三鷹駅南口からすぐの三鷹コラルビル5階にある三鷹市美術ギャラリー内に、「太宰治展示室 三鷹の此の小さい家」がオープンしました。太宰治ゆかりの場所が載った地図やさまざまなグッズなども販売されていて、いまだに太宰人気は衰えていません。

太宰治文学サロン(画像提供:三鷹市スポーツと文化財団)

太宰治展示室 三鷹の此の小さい家(画像提供:三鷹市スポーツと文化財団)

しかし、三鷹には太宰と同時代、ほかにも多くの文人や著名人が住んでいました。中でも有名なのが山本有三でしょう。有三が住んだ洋館は、1996(平成8)年から「三鷹市山本有三記念館」として公開されています。

三鷹市山本有三記念館(画像提供:三鷹市スポーツと文化財団)

『人間失格』『斜陽』などが代表作の太宰治と、『路傍の石』『真実一路』などで知られる山本有三。太宰は学生の頃に自殺未遂を繰り返すなどスキャンダラスな面ばかりが注目されてしまいますが、有三は戦後、参議院議員となり国語問題などにも取り組むなど活躍しました。その作風も人生もまったく異なり、接点もない二人なのですが、微妙(?)な関係はあります。

太宰治が三鷹で暮らしたのは、1939(昭和14)年から1948(昭和23)年。山本有三は1936(昭和11)年から1946(昭和21)年。7年ほど重なっています。ただし、二人が接触した記録は残っていません。

1935(昭和10)年、太宰治が第1回芥川賞の候補となり、受賞を逃したことは知られていますが、このときの詮衡委員のひとりが有三でした。彼は選評で、「予選に入った太宰、高見、衣巻、外村、石川等の諸君の作が何れも相当に書けており、態度の真面目なのが嬉しかった」(『芥川賞全集 第一巻』文藝春秋)と記しています。

太宰治文学サロンの吉永麻美さんは、こう話します。「有三は太宰に対して批判的な評価は与えていませんが、太宰は、詮衡委員の中でも自身の作品を推してくれた佐藤春夫に師事しました。また、太宰の弟子の回想によれば、電車内で有三を見かけた太宰が、有三に対して好意的ではない証言を残しています。当時、新聞連載を抱える有三は作家としての立場が自分に比べて高いですし、作品の毛色もまったく異なりますから、太宰が、有三との交流を避けていた可能性もぬぐえません」

太宰が玉川上水に身を投げたのは、有三の洋館からわずか徒歩5分ほどの場所。洋館が進駐軍に接収されることとなり、有三が三鷹から転居してから、およそ1年8ヵ月後のことでした。

(太宰治文学サロン、太宰治展示室、山本有三記念館の情報は、三鷹市スポーツと文化財団のサイトを参照)
三鷹市スポーツと文化財団

太宰の妻 津島美和子の回想

太宰治については、今もいろいろな書籍が出たり、雑誌等で特集が組まれたりしています。死後70年以上経ってもこれだけ取り上げられる作家は珍しいでしょう。今回は、太宰以外、特に女性たちが記したものに注目してみました。

三鷹駅から先の風景。玉川上水は左側を流れる

1940(昭和15)年に太宰と入籍(挙式は前年)した石原美和子は、太宰の死後30年経って『回想の太宰治』(津島美和子 講談社学芸文庫)を刊行しました。三鷹については、こう記されています。

家は「六畳四畳三畳の三部屋に、玄関、縁側、風呂場がついた十二坪半ほどの小さな借家ではあるが、新築なのと、日当たりのよいことが取柄」だったものの、「道路はまだふみ固まって居らず、上水下水は原始に近く、耳に入るのは諸国のお国訛、生活の不便はこの上無く、新開地というより満州開拓地に住んでいる感じ」で、美和子は「いつまでもこの土地と家とに親しむことが」できませんでした。

駅から3分ほど歩くと、道路の右手に『乞食学生』の一説が記されたプレートが

太宰の書斎については、「北向きの玄関の障子をあけて入ると、とっつきの六畳間が太宰の書斎兼客間で、左手は一間の押入と一間の床の間、右手は襖で、家族の居間の四畳半としきられて」いて、「南は三尺巾の縁側で、ささやかな庭に面して」いたと記されています。そして、「文筆業でありながら蔵書を持たず、従って書棚もなかった」とのことです。

太宰の人物像、周囲とのつきあいや作品についても、美和子は幅広く描いています。その内容は、鋭い批評のようでもあり、興味深いものです。次の文章は、太宰治の人物評として印象的でした。

風景にもすれ違う人にも目を奪われず、自分の姿を絶えず意識しながら歩いてゆく人だった。連れ立って歩きながら、この人は「見る人」でなく「見られる人」だと思った。彼に比べたら、世の人は案外自分で自分を知らず、幻影の交じったいい加減な自分の像を作って生きているような気がする。       『回想の太宰治』「点描」の中の「自画像」より

そういう方だったんだ!かっこいい!

太宰とともに旅だった山崎富栄

太宰治が玉川上水で入水自殺したことは、太宰ファンでなくても知っているかもしれません。山崎富栄という女性との情死でした。1948(昭和23)年6月13日夜半に入水。死亡推定時刻は14日午前1時と推定されています。遺体が発見されたのは、6月19日午前6時50分頃のことでした(『太宰治全集13』筑摩書房)。

山崎富栄について自分が知らなかったこと、そして、彼女の本当の姿を知って驚いたことをきっかけに、『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』(光文社文庫)を2009年に刊行したのは、作家の松本侑子さんです。松本さんは、周囲の編集者などにも、富栄が何をしていた人物か尋ねてみましたが、「芸者」「バーのマダム」「知らない」など答えはばらばら。自分同様、誰もよくわかっていなかったといいます。

富栄は美容学校校長の令嬢で、自身も最新の美容術を学んだ美容師でした。英語とフランス語も理解し、太宰と初対面のときには、太宰から聖書ではどんな言葉を覚えているかと問われ、旧約聖書と新約聖書から1節ずつ答えています。

富栄は戦争で夫を亡くし、鎌倉の美容室で働いていました。その当時、毎週のようにその美容室に通い、富栄をよく知る梶原悌子は2002年に『玉川上水情死行──太宰治の死につきそった女』(作品社)という評伝を上梓しています。富栄は背が高く色白で、明るい性格であり、親切で有能だったと回想されています。

1946(昭和21)年11月、富栄の父が校長をしていた美容学校の卒業生、塚本サキが開いた三鷹駅前のミタカ美容院に、富栄は移ります。この美容院があった場所には、現在、三鷹コラルビルが建っています。前述のように、この建物の5階にあるのが「太宰治展示室 三鷹の此の小さい家」です。

同じ11月、太宰も疎開先の青森から三鷹に戻っています。三鷹に移り4か月ほどして、富栄は同僚から、次兄と同い年で同じ学校を卒業した作家が近くに住んでいることを聞きます。富栄の次兄は、太宰と同じ、青森県の旧制弘前高校を卒業後、急病で亡くなっていました。この同僚の紹介で、富栄は太宰と知り合います。場所は三鷹駅前の屋台のうどん屋。1947(昭和22)年3月27日のことでした。太宰は38歳、富栄は28歳です。

みたか観光案内所の角を入った通り。左側のビルの場所に太宰いきつけの小料理屋「千草」があった。太宰は、1947(昭和22)年7月から2階を仕事部屋として使った。その筋向い、右手前の建物は、富栄が下宿していた家の跡

富栄の下宿(野川家)跡には、太宰と富栄がここから玉川上水に向かったという解説プレートがある

その日から、富栄は日記をつけ始めます。現在、その日記は『太宰治との愛と死のノート 雨の玉川上水とその真実』(長篠康一郎編 学陽書房女性文庫)で読むことができます。それを読むと、富栄がまじめで純粋であり、教養のある令嬢であることがよくわかります。むしろ、純粋すぎると思えるほどです。

太宰と富栄の関係は不倫ではありますが、富栄は罪の意識を自覚し苦しみ、なおかつ太宰をいたわり、思いやっていて、献身的に看病もしています。それが情死後、富栄は「知能が低い」「魅力がない」などと噂され、「太宰を死に導いた」「太宰を殺した」などとも言われたのでした。そんな“悪女”としての富栄像をつくっていったのが、実は有名な作家や評論家たちだったことが、松本侑子さんや梶原悌子の本を読むとわかります。

どんなフィルターを通すかで、人の印象がかなり変わることがわかります

太宰の墓の斜め前は森鴎外。では正面は?

太宰治と山崎富栄の遺体は、井の頭公園の先、新橋のあたりで見つかりました。二人はひもで結ばれ、抱き合っていたといわれます。太宰担当の編集者たちが、ひもを切り、抱き合う腕をほどいて、別々に寝かし、むしろをかけました(書籍によって描写は異なります)。太宰の遺体は、出版社が手配した霊柩車で運ばれ、編集者たちも去りました。

富栄の遺体が土手に残され、冷たい雨にうたれていた。父はレインコートをぬいでムシロの上からかけてやり、自分が濡れるのもかまわず傘をさしかけた。(中略)増えていく観衆の物見高い視線をあびながら、晴弘(注・父の名)はその前に立ちはだかって娘の亡骸を人目から守った。泥に汚れたムシロから、ロウソクのように白くなり、傷ついた素足がのぞいていた。           
松本侑子『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』


その後二人の遺体は、太宰いきつけの小料理屋「千草」で検視されました。火葬場は、太宰は杉並区の堀之内、富栄は田無と別々にされました。太宰の告別式は6月21日、三鷹の自宅で行われ300人ほどが参列しました。

富栄の遺骨は、山崎家の菩提寺である永泉寺(東京都文京区)に埋葬されましたが、父は娘が世間を騒がせ申し訳ないとの思いから、富栄には白木の墓標を立てただけで、富栄の墓所については公表しませんでした。富栄の墓所を長年にわたり探し続けたのは、先ほど触れた富栄の日記を編集、刊行した長篠康一郎です。太宰の研究家として知られた長篠は、なんの手がかりもないため、山崎姓の家を一軒ずつ飛び込みで訪ね歩いたといいます。その経緯については、『太宰治文学アルバム 女性篇』(広論社)に詳しく記されています。

『乞食学生』のプレートから1分ほど歩いた先には、太宰の故郷である青森県金木町が産する県天然記念物の「玉鹿石(ぎょっかせき)」が置かれている。二人はこのあたりで通りの向こう側を流れる玉川上水に入水したとされる

太宰の遺骨は7月18日、三鷹の禅林寺に納められました。山崎家の墓碑が新しく建立され、富栄が墓所に入れられたのは1961(昭和36)年、亡くなってから13年後のことでした。太宰の命日が桜桃忌であることは有名ですが、富栄の命日は白百合忌と呼ばれています。

なお、太宰の墓の斜め前が森鴎外の墓であることもよく知られています。小説『花吹雪』に、崇敬する森鴎外の墓がある禅林寺の墓地に、「私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れない」とあるため埋葬されました。

では、森鴎外の隣、太宰の墓の正面は? 実は、塚本家の墓。富栄が働いていたミタカ美容室の塚本サキが眠っているのです。『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』によれば、塚本サキは富栄に、太宰と別れるように説得を続けていました。塚本サキは、そして太宰は、今どんな気持ちで向かい合っているのでしょうか。

三鷹駅から武蔵境方面へ徒歩5分ほどの「三鷹跨線(こせん)橋」。太宰ゆかりのスポットのひとつとして知られるが、2021年6月、解体・撤去をJR東日本が決定した。撤去の時期は未定とされるが、見たい方は早めに訪ねた方がいいようだ
これまでの経緯を知ると色んな気持ちが混ざり合いながらのお墓参りになりそう。行ってみたい。

現在の玉川上水の終点? 浅間橋へ

ところで、三鷹あたりの玉川上水の流れを見ていると小川のようですが、かつては「人喰い川」とも呼ばれた水流だったといわれます。深さは4mくらいあり、岸は水流でえぐられ、落ちるとはい上がれませんでした。『玉川上水ぶらり散歩』によれば、昭和40年以前には、毎年10人ほどの投身自殺があったそうです。

「玉鹿石」から5分ほどのところに「山本有三記念館」があり、さらに5分ほど歩くと、井の頭公園に到着。公園の途中から三鷹市に入ります。公園の中を玉川上水は流れ、歩いて10分ほどの公園を抜けた先に架かる新橋のあたりで太宰と富栄の遺体が発見されたのは、前に触れたとおりです。

玉川上水は井の頭公園の中を流れていく

ここからは住宅街の中を進んでいきますが、あいかわらず玉川上水は緑の木々に覆われています。緑に恵まれた静かな住宅街から、交通量の激しい幹線道路に出たのは、新橋から40分ほど経った12時30分頃。京王井の頭線の久我山駅から続く道路で、ここを渡った先は杉並区。きれいに整備された都立玉川上水緑道が続いています。

都立玉川上水緑道

ゆったりとした緑道は心地好く、自然が豊かです。もっとも、これまでの玉川上水沿いの散策も、緑に恵まれた環境で、鳥のさえずりも聞こえていました。都会の中でありながら、ちょっと不思議な感じもします。

1時近くなって緑道も終わり、目の前には中央自動車道の高架が見えてきました。その手前の浅間橋は、実は、現在の玉川上水の終点とも言えます。小平監視所から流れていた再生された清流は、ここから地下水路を流れ、600mほど北を流れる神田川に、京王井の頭線高井戸駅付近で放流されているためです。この先は、大部分が暗渠となっています。

浅間橋からの風景。この先は暗渠となる

玉川上水の流れは淀橋浄水場へ

中央自動車を上に眺めつつ歩き、環状8号線を越えますが、ずっとふつうの歩道です。甲州街道(国道20号線)と交わる少し手前で、左手の細い道へ。ここからは暗渠の上が細長い公園となって続いていきます。「あとは、こんな感じか」と思っていると、京王線代田橋付近で再び水の流れを見ることができました。

さて、「玉川上水の川面に降りられる場所」の章で、1965(昭和40)年に玉川上水が小平監視所までで終了となった話をしました。明治初期、玉川上水を船が往来することを新政府が許可しますが、当然、水質が悪化したため、わずか2年で通船は廃止されます。コレラなども流行し、玉川上水への汚水流入も問題に。浄水場でろ過し給水する近代水道の建設が必要となりました。

そこで建設されたのが、淀橋浄水場。1898(明治31)年、玉川上水の代田橋付近から新しい水路が作られ、淀橋浄水場に流されました。しかし、1965(昭和40)年、利根川の水が東京に引かれ、淀橋浄水場はその役目を終え、玉川上水も野火止用水との分岐点である小平監視所までで終了となったわけです。1653(承応2)年に完成した玉川上水が、312年もの間“現役”だったというのは驚きです。玉川上水は江戸だけではなく、東京も潤していたのです。

淀橋浄水場跡には京王プラザホテルをはじめ超高層ビルが建ち並び、現在の新宿副都心と姿を変えました。

312年の間現役だったことも、現在の新宿副都心が淀橋浄水場跡だったというのも驚き〜!

最終地点、四谷大木戸へ

代田橋付近で目にした水の流れは、淀橋浄水場への水路とは関係はありません。水道局に聞くと、雨水の流れとのこと。代田橋のあたりは世田谷区。京王線の線路をくぐると再び緑道となり、環状7号線の下を細い地下道で渡ります。

代田橋駅の近くで見えた水の流れ

環7の下をくぐる細い地下道

そのすぐ先で渋谷区へと入り、小川の流れも再び現れます。小川は笹塚駅向かって流れ、駅のあたりでUターンするように離れていきます。駅付近では暗渠ですが、駅を離れるとまた小川が姿を見せます。ちなみに、三鷹駅から笹塚駅までは約12km。笹塚駅には15時15分頃の到着です。

しかし、小川が見えるのも、わずかの間だけ。あとは暗渠となり、その上を緑道や遊歩道が続きます。それでも、橋の欄干の一部が残っていたり、欄干をイメージしたオブジェがあったりと、玉川上水が流れていたことを示すものがいくつも見られます。「玉川上水を忘れていない」という地元の人たちの気概が伝わってくるようです。

「きたさわばし」と記された昔の石碑

水の流れはなくても欄干が作られている

かつて玉川上水にあった水車をモチーフにしたデザインも

西新宿2丁目交差点近くにある玉川上水のモニュメント。「明治時代に新宿駅構内の地下に設けられた、玉川上水の煉瓦造りの暗渠をモチーフとし、当時の煉瓦を一部使用して、ほぼ原寸大で再現したもの」と解説版に記されている

16時30分頃、新宿駅付近に着きました。駅東口側へ渡れば新宿区。新宿御苑横の道を歩いて、日が暮れ始めた17時、四谷4丁目付近にある四谷大木戸跡に到着。笹塚駅からは約6km。羽村取水堰から43kmちょっとを2日かけて歩きました!

前回の神田上水の終点が隅田川の風景だったのとは異なり、都心の交差点の片隅に立つ高さ460cmの「水道碑記(すいどうのいしぶみのき)」が終点です。玉川兄弟がここまで引いた玉川上水は、この先、石や木で作られた配水管によって、江戸城や四谷、麹町や芝、京橋方面へ給水されました。現在は、下水道の幹線に接続され、雨水などを流しているそうです。

いろいろと異なった見どころにあふれた玉川上水沿いの散策。今回紹介したところ以外にも、気になるスポットはまだまだありますし、季節によっても魅力は多彩です。歴史や工事の難しさ、江戸東京を潤し続けてきたことに想いを馳せながら、ぜひ歩いてみてください。

想像以上に見どころ満載!旅気分に浸りました!

書いた人

1968年、北海道オホーツクの方で生まれる。大学卒業後、アフリカのザイール(現コンゴ)で仕事をするものの、半年後に暴動でカラシニコフ銃をつきつけられ帰国。その後、南フランスのマルセイユで3年半、日本の旅行会社で3年働き、旅行関連を中心に執筆を開始する。日本各地や都内の路地裏をさまよい歩く、または右往左往する日々を送っている。

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編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『藝大アートプラザラヂオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。