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2022.03.10

兵どもが夢のあと。上杉謙信が陣を張った石戸城と徳川将軍の御茶屋跡を巡る【北本奥の細道】

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普段なにげなく目にしている道や建物は、ごく最近開発されたものでない限り、歴史の中でさまざまな人々が往来しています。もしかすると、歴史上有名な人物がその場所に関わっていたかもしれません。今回は、上杉謙信ゆかりの城や、徳川将軍家に関わる御茶屋跡など、北本で繰り広げられた熱いドラマや、昔の人々の暮らしを想像させる場所をご紹介します。

赤で囲んでいるのが今回訪ねた主な場所です。全体図はこちら

石戸城を一夜で攻め落とした「一夜堤」・城下町の名残と鎮守

北本の石戸城は別名「天神山城(てんじんやまじょう)」と呼ばれ、15世紀後半に築かれたとされています。築城以降、東国では関東管領の上杉一族と北条氏が覇権を争い、石戸城は上杉側の城で、岩付城と松山城を結ぶ拠点として重要な役割を担っていました。
そして永禄5(1562)年、北条氏邦は、石戸城の城主である毛利丹後守(もうりたんごのかみ)と戦いますが、毛利側の守りは固く、なかなか城を落とせません。そこで氏邦は一計を案じ、一夜にして沼地に堤を築き、城へ攻めのぼって勝利したという伝承があります。
氏邦が一夜でつくったとされる堤は、後に「一夜堤」と呼ばれ、今は自然観察公園の遊歩道の一部になっています。現在はのんびりとした雰囲気の道ですので、過去の熾烈な戦いを想像して、比べてみると面白いですね。

かつての一夜堤。今は落ち葉が降り積もり、平和な光景です。

石戸城は、歴史的には、永禄6(1563)年、武田信玄と北条氏康に攻められている松山城の援軍のため、上杉謙信が一時逗留したことになっています。
なお、石戸城跡は発掘調査などで、土塁や堀が良好に保存されていることが確認されており、今後も市では保存しながら整備と活用を進める方向にしたいとのことです。

将来的に石戸城跡を整備した際のイメージ鳥観図。石戸城跡は、埼玉県選定重要遺跡にも選定されています。

石戸城の南側に延びる石戸宿の集落は、城下町の名残です。戦前までは街道の中央に堀があり、西の道は「とむらい街道」と呼ばれ、葬列は西側を、祭りの時は東側を通ったそうです。

かつて街道の中央には堀がありました。今は車も通れる道になっています。

石戸宿の鎮守、石戸宿天神社(以下、天神社)では、かつては10月の祭礼の日にササラ獅子舞が奉納されていました。ササラ獅子舞は古い形態の獅子舞で、北本市無形民俗文化財に指定されていたそうですが、今は後継者不足で継承が難しくなってしまったそうです。この伝統ある舞が、いつか復活することを願いたいですね。

天神社の鳥居。青空に赤い鳥居がひときわ鮮やか。

昔は村をあげての行事だったという、天神社のササラ獅子舞。残念ながら継承が難しいそうですが、勇猛な獅子の姿を再び見たいですね。

天神社には、樹齢600年以上、高さ30メートル以上の市指定天然記念物のムク(ムクノキ)が、隣接する放光寺には、「三春の滝桜」(日本五大桜または三大巨桜の一つ)の孫とされるシダレザクラがあり、いずれも見ごたえのある名木です。

天神社の木々。鳥居のすぐ左側で、立派なムクが存在感を示しています。

放光寺の供養塔。石像の閻魔様は珍しいそうです。

石戸城跡・一夜堤 基本情報
住所:北本市石戸宿6
電話番号:048-594-5566(文化財保護課)
アクセス:JR北本駅西口から北里大学メディカルセンター行きバスで15分、「自然観察公園前」バス停下車、徒歩15分
北本市公式HPより

ムク・天神社・放光寺 基本情報
住所:北本市石戸宿6-64天神社
電話番号:048-594-5566(文化財保護課)
アクセス:北本駅から車で15分
料金:無料
営業時間:見学自由
休日:見学自由
北本市公式HPより

あの家康が茶の湯を行ったかも!?
徳川家ゆかりの休憩施設・御茶屋跡に思いを馳せる

石戸宿の集落の東側には、江戸時代の初めの頃に御茶屋が置かれていました。
「御茶屋」とは、徳川将軍が鷹狩※や視察に訪れた時の休憩所を、「御殿」とは、徳川将軍が旅行をする時に宿泊した施設を指し、御茶屋と御殿は東海道を中心に約百カ所以上あったそうです。
戦国武将は鷹狩を好んだとされますが、とりわけ鷹狩好きで有名な徳川家康は、川越(川越市)から忍(行田市)を往復する際には、石戸の御茶屋で休憩を、鴻巣御殿で宿泊したと考えられています。

推定される御茶屋跡の範囲

鷹狩…訓練した鷹に獲物を捕えさせる狩猟技法で、娯楽としてだけではなく、所領の状況を自分で確認できるほか、軍事演習としての側面もあった。鷹狩は権威の象徴でもあり、家康は名だたる鷹匠たちを大勢召し抱えたという。また優れた鷹は茶の湯における茶器と同様、外交手段としても使われた。

御茶屋があったと推測されている場所では、令和3年3月に発掘調査が実施されました。その際には堀跡が検出されたほか、17世紀初頭の志野焼※の皿や、16世紀後半から17世紀初頭の天目茶碗※、寛永通宝(古銭)などが出土したとのことです。
これらは、徳川将軍たちが石戸の御茶屋で茶の湯を行った可能性を示しています。もしかすると、ここで出土した茶碗の欠片は、家康が手にしたものかもしれません。
名将たちが何の茶碗を使ったのか、どんなお宝を披露したのか、いかなる問答が繰り広げられたのか……想像が広がります。

現状の御茶屋跡。歴史に名高い武将たちも来訪していたのかもしれないと思うと、胸が高鳴りますね。

発掘調査の様子。ここから茶碗や皿、古銭などが出土しました。

発掘調査で出土した焼きもの。左:志野焼の皿(17世紀初頭)右:天目茶碗(16世紀後半から17世紀初頭)

志野焼…美濃焼(岐阜県の中で、東濃地方の一部で製作される陶器の総称)の一作風で、白釉をかけた焼きものの総称。釉薬がかかった部分は乳白色でぽってりしており、釉薬のかかりが少ないところは赤みがあり、ぬくもりと個性を楽しめる。

天目茶碗…鎌倉時代に中国の浙江省の天目山に留学した僧が持ち帰った茶碗から生まれた名称で、口縁部がくびれ,胴部がすぼまり,小さめの高台がつく茶碗のこと。後に種類が増え,釉や文様によってさまざまな種類がある。江戸時代も天目茶碗の人気は続き、現代に至っても過去の作品に倣った天目茶碗が焼造されるなど、時代を超えて人々を魅了している。

カラスが刻まれた珍しい庚申塔も
芭蕉句碑がある一里塚の跡

御茶屋跡から少し歩くと、小さな祠と大きな木、石碑などが目をひく場所に着きます。ここは一里塚の跡で、祠の中にあるのは庚申塔(こうしんとう)です。
庚申塔はもともと中国の道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔で、「申」という字が「猿」を表すため、日本の神道では猿田彦や三猿を祀ることもあります。この一里塚跡の庚申塔は、猿田彦太神(さるたひこだいじん)が祀られています。

一里塚の跡。小さな祠と大きな木と、石碑が目をひきます。

庚申塔は、庚申講※を3年18回続けた記念に建立されることが多く、お祀りする主尊や梵字のほか、「見ざる聞かざる言わざる」の三猿や邪鬼などの彫物がなされます。
彫物には、太陽の下に雄鶏、月の下に雌鶏の取り合わせが刻まれることが多いので、ここにある庚申塔は珍しく、月の下にカラスが彫られています。

庚申塔の下部にカラスが彫られています。横顔がユニークですね。(庚申塔は赤い前掛けをしているので、通常、カラスは隠れています。)

庚申講…道教の説によれば、人間の体には「三尸(さんし)の虫」が住み、六十日に一度の庚申の日の夜、就寝中の人体から抜け出して天帝(閻魔大王)に日頃の行いを報告し、悪事も暴露する。庚申講は庚申の日を徹夜で過ごし、虫の告げ口を防ぐ行事あるいは集まりを指し、庚申(こうしん)待ちとも呼ばれる。なお、庚申講は『枕草子』にも登場し、人々が和歌を詠んだりして楽しんでいる描写がある。

祠の傍らにある立派な大木はエノキで、根元には嘉永4(1851)年に建立された芭蕉句碑があります。この句碑は、石戸連(石戸の俳句同好者)の俳人15名が俳句の上達を祈願して建てたもので、表面には「原中や ものにもつかず 啼雲雀」と刻まれ、裏面には石戸連の句が刻まれています。
句碑は一部破損しているものの、ほぼ完全な形で残っており、江戸時代末期の地方の文化を証明する貴重な資料です。

猿田彦太神(石戸宿) 基本情報
住所:北本市石戸宿4-113
電話番号:048-594-5566(文化財保護課)
アクセス:JR北本駅西口から北里大学メディカルセンター行きバスで、「石戸宿3丁目」バス停下車、徒歩11分
北本市公式HPより

芭蕉句碑 基本情報
住所:北本市石戸宿4-113
アクセス:北本駅西口から石戸蒲ザクラ入口行きバスで15分、終点下車、徒歩20分
料金:無料
営業時間:見学自由
休日:見学自由
北本市公式HPより

今回の「北本奥の細道」では、今は遊歩道になっている一夜堤には、戦国時代に城の運命を決めたという伝承があり、現在は畑や人家になっている御茶屋跡では、江戸時代に徳川将軍がお茶を点てた可能性があることが分かりました。当時の様子を想像しただけで、とてもワクワクしますよね。また、一里塚跡のように、江戸時代の末期に市井の人々が集まり、共同で俳句と句碑をつくったという事実も、当時の人を身近に感じて心が温かくなります。
現状、石戸城跡の城郭は復元されつつある段階ですし、御茶屋跡の発掘は一部行われたばかりですので、今後も想像していなかったような宝や、新たな事実が発見されるかもしれません。ぜひ北本に残る遺跡の数々をご覧いただき、見慣れた日常の中に歴史的な一コマがあるかもしれないというロマンに、心を躍らせていただければと思います。

取材協力:磯野治司(埼玉県北本市役所 市長公室長)

「連載 北本奥の細道」

第一回 東京へ向かうのになぜ“下り”?埼玉県北本市「中山道」謎を紐解くぶらり旅
第二回 0歳の赤ちゃんが富士山にのぼる?江戸時代から続く初山参りと浅間山信仰
第三回 武蔵国を駆け抜けた鴻巣七騎とは?岩付太田氏と家臣団をつなぐ岩槻街道を歩く
第四回 塩(しょう)がなかったら高尾へ行け。関東ローム層、大宮台地の最高地点はここだ
第五回 源範頼は伊豆を逃れて生き延びた?日本五大桜「石戸蒲ザクラ」伝説
第六回 縄文SDGs!?タイムカプセル遺跡は語る「コメがなくても、ナッツと果実があるさ」
第七回 北本自然観察公園は生きものたちの楽園!鳥の声や黄葉で季節の移り変わりを体感
第八回 ~兵どもが夢のあと~ 上杉謙信がきた城・石戸城と徳川将軍の休憩施設・御茶屋跡

書いた人

哲学科出身の美術・ITライター兼エンジニア。大島渚やデヴィッド・リンチ、埴谷雄高や飛浩隆、サミュエル・R.ディレイニーなどを愛好。アートは日本画や茶道の他、現代アートや写真、建築などが好き。好きなものに傾向がなくてもいいよねと思う今日この頃、休日は古書店か図書館か美術館か映画館にいます。