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2021.09.03

武蔵国を駆け抜けた鴻巣七騎とは?岩付太田氏と家臣団をつなぐ岩槻街道を歩く【北本奥の細道】

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鴻巣七騎(こうのすしちき)。なんだかかっこいい響き。
戦国時代に現在の埼玉県にあった岩付(いわつき)城主太田氏に仕えて活躍した武士たちのことをいいます。現在の北本市周辺に領地を持っていた彼らが、有事のときに主の元へと駆けつけた道が、北本市の東側を通る岩槻街道*。

鴻巣は埼玉唯一の免許センターがあるところで、北本の隣町です!


埼玉県北本市を歩いて歴史をひもとく連載「北本奥の細道」。3回目は鴻巣七騎の息吹が残る、岩槻街道を歩きます。ナビゲーターは北本の地域史に詳しい磯野治司さん、写真撮影は北本出身の和樂webスタッフとま子さんです。いざ、出発!

青い線が岩槻街道、赤で囲んでいるのが今回訪ねた場所です。全体図はこちら
*岩槻の地名に「槻」の字が使われるようになったのは江戸時代からで、それ以前は岩付と記されていました。

大河をめざせ!鴻巣セブン

岩槻街道を歩くその前に、鴻巣七騎のメンバーをご紹介しておきましょう。

1.大島大炊助(おおしまおおいのすけ)・大膳亮(だいぜんのすけ)【北本市宮内・古市場】
2.深井対馬守景吉(ふかいつしまのかみかげよし)【北本市深井】
3.小池長門守(こいけながとのかみ)【鴻巣市鴻巣】
4.立川石見守(たちかわいわみのかみ)【鴻巣市下谷】
5.加藤修理亮(かとうしゅりのすけ)【北本市中丸】
6.河野和泉守(こうのいずみのかみ)【鴻巣市常光】
7.矢部某(やべなにがし)【鴻巣市下谷】
8.本木某(もときなにがし)【桶川市加納】

地元の友人たちと同じような苗字がちらほら…


彼らが活躍したのは、相模国(神奈川)を支配していた後北条氏の北条氏康・氏政と、越後(新潟)の上杉謙信、甲斐(山梨)の武田信玄らが関東の覇権を争った時代です。その睨みあいの中心ともいえる武蔵国を駆け抜けていたのが鴻巣七騎。

北本には謙信が陣を張ったとされる石戸城もありますね!


埼玉がNHK大河ドラマ「青天を衝け」の舞台となった2021年。もしも次に埼玉が大河の舞台になるとしたら、主役は彼らだったりして。本木某は俳優の本木雅弘さんのご先祖様にあたるといいますから、ビジュアルのイメージもふくらみます。

本木雅弘さんは桶川市出身でPRポスターにも登場しているそうです!


市内宮内の大島義弘家に伝わる鉄製象嵌舌長鐙(てつせいぞうがんしたながあぶみ)。北本市指定文化財。鐙とは馬の鞍の両脇に下げる、足を踏みかけるためのもの。 (画像提供:北本市教育委員会)

ところで7人より多い、そうなんです。途中メンバー交代などがあったのでしょうか、鴻巣七騎として伝えられている人数は7人に限りません。また、住んでいた場所なども諸説がありはっきりとはしませんが、北本市の東側一帯と桶川市の東部、鴻巣市の南東部を含む、戦国時代に「鴻巣郷」と呼ばれていたあたりに所領を持っていた在地武士(地侍)だったと伝えられています。
ミステリアスな鴻巣七騎たち、その素顔に迫ってみましょう。

鴻巣七騎の一人、深井氏が眠る寿命院

まず訪れたのは北本市の北東、深井地区に古くからある寿命院です。「深井の大寺」と呼ばれるここには、鴻巣七騎の一人だった深井対馬守景吉をはじめ、深井氏歴代の墓が並んでいました。

寿命院、市内の中でも大きくて立派なお寺です


1591(天正19)年に徳川家康から「寺領十石を与え、その土地からは税を取らない」とする朱印状を受け、以降代々の将軍からも保護された深井氏の菩提寺、寿命院(北本市)。

歴代の深井領主の墓。宝篋印塔(ほうきょういんとう)という形の石塔です。ずらりと並ぶなかに立つと、戦国時代へタイムトリップしたような気分。

深井氏は桓武平氏の流れをくむ白井長尾氏を祖先に持つ、中世のブランド力のある武士です。深井景吉の子孫も出世を遂げていて、中でもひ孫にあたる松平信綱は川越藩主ならびに江戸幕府3代将軍徳川家光の側近として、幕府の老中首座をつとめました。他にも、子孫が津藩(現在の三重県)や高崎藩の家老をつとめたという記録があります。

すごい出世をしたんですね


「この石灯籠は深井景吉の子孫で、江戸時代に津藩の家老をつとめた廣通が寄進したもの。刻まれている文字を解読したところ、深井氏の来歴がびっしりと記されていました」とのこと。石塔の文字を解読するなんて、インディ・ジョーンズみたい。ロマンです!

系図を見ると、江戸時代の大名が母方の親戚を辿って家臣団を強化していったことがわかります。

寿命院 基本情報
住所:北本市深井4-55
電話:048-541-1635

武蔵三之宮ここにあり、宮内氷川神社

岩槻街道を南へ歩いて次に立ち寄ったのは、大島氏の領地だった宮内地区にある氷川神社です。昔は6000坪もの広大な敷地を誇り、江戸時代後期の1827(文政10)年にはその由緒の古さから武蔵三之宮に認められたという記録があります。村の鎮守様としては立派すぎませんか!?領主だった大島氏の存在の大きさが感じられます。

私が通っていた中学校の通学路の途中にあるのですが、そんなに立派な神社だったとは知りませんでした


緑に囲まれて静かにたたずむ氷川神社(北本市宮内)。

境内の池には弁天様が。北本市がある大宮台地は湧水が豊富。氷川神社は池や川沿いなど水辺の近くに多く鎮座しています。

昔は岩槻街道からまっすぐのびていたという参道。氷川神社が地域にとって重要な場所だったことが伺えます。

「見世棚造」という形式で建てられた旧社殿も貴重なもの。棚板が店のように前に出ているのが特徴です。北本市指定文化財。*現在は屋内に保護されています。 (写真:北本市教育委員会)

正面から見た旧社殿。 (写真:北本市教育委員会)

宮内氷川神社 基本情報
住所:北本市宮内4-136
電話:048-594-5566(文化財保護課)

幻の館跡を探して

住んでいた場所も、名前さえも正確には伝わっていない鴻巣七騎ですが、実は大島氏の館があったとされる場所が、これまでの調査で見つかっています。宮内の氷川神社からさらに岩槻街道を南へ歩いたところにある、古市場の上手(うわで)館跡。江戸時代後期に書かれた『武蔵志』に「古市場に古塁あり」と記述があるものの、長い間その詳細は不明とされていた土塁が、昭和63年頃の調査で発見されたのです。

土塁というのは、館を敵の侵入から守るために築かれた盛り土のことをいいます。写真は発見当時のもの。 (写真:北本市教育委員会)

館跡は広大な敷地で、北東部の低地に飛び出した「出丸」という部分があるのが時代と合致する特徴です。昭和22年GHQ撮影。 (写真:北本市教育委員会)
出丸の部分、よく自転車で通っていました(笑)館があったとはびっくり


また、最初に訪れた寿命院(深井氏の菩提寺)の北側からは、平成30年から行われた発掘調査で幅7m、深さ1.6mもの堀跡が見つかりました。昔は寿命院を含む一帯がお堀に囲まれていて、そこに深井氏の館のひとつと伝えられる「対馬屋敷」があったのではと推測されています。

ところで、地元の領主として立派なお屋敷に住んでいた彼らですが、戦の他にも大変な仕事を任されていたみたいです。

武蔵野の荒野をひらいた開拓者でもあった

鴻巣七騎の一人だった大島大炊助は1559(永禄2)年、当時の岩付城主太田資正から「深井氏と協力して百姓を動員し、郷内の荒野を開発するように」と書状で指示を受けています。
いくら戦をして領地を増やしても、その土地が荒れていては農作物は育たず、食べていくことができません。在地武士はいわば戦国時代の中間管理職。ときに戦国大名の支配争いに馳せ参じる兵(つわもの)であり、ときに荒野の開拓者でもあったのです。

戦国大名のようなスーパースターではない鴻巣七騎が、ドラマの主役になることはないかもしれません。けれども彼らの姿を想像しながら岩槻街道を歩くと、アスファルトの遠くに駆ける騎馬の土煙がたつような気がするから不思議です。
当たり前ですがこの世界を作ったのは、歴史に名を残すような人々だけではないのです。知らなかった戦国の情景が見えてくるような気がした、北本奥の細道でした。

「連載 北本奥の細道」

第一回 東京へ向かうのになぜ“下り”?埼玉県北本市「中山道」謎を紐解くぶらり旅
第二回 0歳の赤ちゃんが富士山にのぼる?江戸時代から続く初山参りと浅間山信仰
第三回 武蔵国を駆け抜けた鴻巣七騎とは?岩付太田氏と家臣団をつなぐ岩槻街道を歩く

書いた人

岩手生まれ、埼玉在住。書店アルバイト、足袋靴下メーカー営業事務、小学校の通知表ソフトのユーザー対応などを経て、Web編集&ライター業へ。趣味は茶の湯と少女マンガ、好きな言葉は「くう ねる あそぶ」。30代は子育てに身も心も捧げたが、40代はもう捧げきれないと自分自身へIターンを計画中。