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2021.08.24

東京へ向かうのになぜ“下り”?埼玉県北本市「中山道」謎を紐解くぶらり旅【北本奥の細道】

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梅雨明け前の曇り空のもと、埼玉県北本市までぶらりと散歩に行ってきました。
北本といえば、雑木林と縄文遺跡のまち。縄文のタイムカプセルと呼ばれるデーノタメ遺跡のあるまちです。
でも、今日は雑木林でも縄文遺跡でもなく、北本市内を走る中山道(なかせんどう)をあるきましょう。案内してくださるのは、北本の文化財保護に携わって四半世紀以上になるという、地域史に詳しい磯野治司さんです。

北本生まれ、北本育ちの私も取材に同行しました!

「青天を衝け」にも登場、和宮が江戸へ下った中山道

北本駅東口

JR北本駅の東口を出て直進すると、すぐそこを高崎線と並行してはしるのが旧中山道です。戦国時代にはすでに道の原形があり、江戸時代のはじめに五街道のひとつとして整備されました。木曽に関所があったことにちなんで、木曽街道(あるいは木曽海道)とも呼ばれます。

五街道言えますか?私は東海道と中山道の2つしか言えませんでした!


黄色線が中山道。赤く囲まれた部分が今回訪れた場所。全体図はこちら

中山道は大河ドラマ「青天を衝け」にも登場する和宮が、将軍徳川家茂のもとへ降嫁するときに下った道です。江戸と京都を結ぶ道といえば東海道がまず思い浮かびますが、なぜ和宮は中山道を通ったのでしょう。

「東海道五十三次、中山道は六十九次。たしかに中山道の方が遠回りになります。でも、東海道には箱根の山越え、渡し船のない大井川の川越えなどの難所がありました。中山道のほうが安全だったのでしょう」とのこと。東海道よりも通行料が少し安く設定されていて、実際、利用する人がとても多いルートだったそうです。

現在の中山道

2つの立場と間の宿。ややこしいぞ、中山道上る下る

それではさっそく、和宮も通った中山道をぶらり。まずは北本駅からあるいてすぐの「三軒茶屋」へ向かいます。
今も三軒茶屋通りという名が残っていますが、ここは江戸時代、旅人が休憩する茶屋や売店が並んだ立場(たてば)という場所でした。

知人からよく「北本に三軒茶屋があるの!?」と驚かれていました


中山道を2.7㎞ほど南へ下るともうひとつ「下茶屋」と呼ばれる立場があり、その間には街道の目印となる松並木が続いていました。
上下に2つの立場があったことから、このあたりが桶川宿と鴻巣宿の間の休憩地点、間の宿(あいのしゅく)として栄えていたことがわかります。

和宮が下ったころの北本宿の宿並(「本宿付近」『中山道分間延絵図』第2巻 東京美術1976より)

上の図の左側(北側)、右下に三軒茶屋が見える(「東間付近」『中山道分間延絵図』第2巻 東京美術1976より)

ところで、東京方面へ向かうのに中山道を下ると言うのは何故なのでしょう。電車とは逆です。
ヒントは「和宮も下った中山道」という言葉にありました。和宮は仁孝天皇の皇女で、孝明天皇の異母妹にあたります。
江戸時代までは天皇が住む御所が京にあったので、京へ向かう道が上り、反対が下り。ややこしいのですが、理由が分かればすっきりしませんか。

ちょっと寄り道、馬のお墓参り。馬が大切にされたわけ

「珍しいものをお見せしましょう」といわれて訪れたのは、三軒茶屋通りの近くにある勝林寺というお寺です。そこには小さな馬の供養塔が並んでいました。

「石碑に馬の顔が彫ってあるのが見えますか?かわいいでしょう。昔の人が馬を大切にしていたことが伺えます」うっすらとしていますが、見えました!馬頭観世音の文字の上に馬のお顔。

左手前には馬の顔が3つ、右奥には立体的な馬の顔が彫られています(勝林寺)
これこれ!かわいかった〜


なぜ馬を大切にしたのかというと、街道沿いの村々には助郷(すけごう)といって、物資の輸送や情報の伝達が滞らないように、必要に応じて人足(にんそく、荷物を運んだりする労働者のこと)や馬を供給する義務があったからなのです。

旧立場(南下茶屋)の曲家

「下の立場には昔、曲家(まがりや)がありました。人が住む家と馬小屋とがL字にくっついた形です。馬が人と同じ家に暮らして、家族のように大切にされていたと分かります」と、こんなこぼれ話もしてくれました。
「宿場には人が集まるから、働きに出るとお酒を飲んだり女の人と遊んだり、そういうことも覚えちゃう。だから助郷などの義務には人を出さずになんとかお金を払ってすませたいと、そういう風潮もあったみたいですよ」
なるほど、単身赴任で羽目をはずしちゃう感じでしょうか。なんだか江戸時代の人が身近に感じられるエピソードです。

お寺と神社をのぞいてみたら、庶民の暮らしが見えてくる

馬のお墓参りをした勝林寺を出て中山道を下り、次に訪ねたのは北本市本宿にある多聞寺とそのお隣の天神社です。
多聞寺は古くからある本宿の人々の菩提寺。門をくぐると、まず目に飛び込んでくるのがムクロジ(無患子)の木です。

北本市本宿にある多聞寺

奥にもう1本ムクロジの大木があり、そちらが県の天然記念物に指定されています(多聞寺)

「小さな実がたくさんついているのが見えますか?もっと大きくなって黄色く色づいたムクロジの実を、水でぬらして手でこすると泡が立ちます。昔の人は石鹸のかわりにしていたんですよ。黒い種は数珠や羽子板の羽根の先に使われていました」と教えてもらって、なるほど!お正月に飾る羽子板が厄除けの縁起物とされるのは、人々の健康を守る木の実を使っているからなのでしょうか?興味深いですよね。

「子が患わないと書いて、無患子。ムクロジと読みます」と教えてくれる磯野さん。シャイな方なので後ろ姿でご紹介いたします(多聞寺)

本堂の隣には庚申塔が立っていました。中国の道教の教えでは体の中に虫が住んでいて、60日に1度の庚申(かのえさる)の日の夜、寝ているうちに体を抜け出して、天帝にその人がした悪事を告げると考えられていました。そこで庚申の日には夜を徹して念仏を唱えたそう。これを庚申待ちといって、3年間18回続けた記念に建てられたのが庚申塔です。

庚申信仰の本尊は(しょうめん)青面金剛という鬼神。踏みつけているのが邪鬼、左手にぶら下げているのが人の体に住むという三尸(さんし)の虫です(多聞寺)

「庚申塔は市内のあちこちにあります。当時の人々にとっては貴重な娯楽だったのでしょう」と聞き、寝ないで念仏を唱えることが娯楽?と意外に思いましたが、実際には集まって一晩中語り明かして過ごしたそう。
羽根つきをして遊ぶ子どもたち、ときには夜通し集まる大人たち。なんだか江戸時代の人々の暮らしが目に浮かんでくるようではありませんか?

続けて、多聞寺の斜め奥に建つ天神社へ。神仏習合で多聞寺の鬼門(北東)を守るように建っているここは、古くからの地元の鎮守様です。まつられているのは学問の神様といわれる菅原道真公。拝殿の横には学業成就の絵馬がたくさん飾られていました。江戸時代にはここで地元の人たちが俳句の練習をしていたというから驚きませんか?俳句の練習ってレベルが高いですよね。
「そう、江戸時代の識字率は80%ともいわれ、文化レベルがとても高かったんです。北本市内には地元の俳句連が立てた松尾芭蕉の句碑がいくつかあり、俳句の上達を目指して熱心に活動していたようです」とのお話。

北本市本宿にある本宿天神社

かつて、鴻巣宿は北本にあった!ここは幻の宿場「本宿」

ところで、多聞寺と天神様が建つのは現在の北本市本宿。かつては「本宿村」でした。
磯野さんは「本宿という地名が、元々ここが宿場だったことを示しています」と話します。実は徳川家康が江戸に入って、中山道が整備された当初の1590(天正18)年、鴻巣宿はここ本宿に設置されていたというのです。

宿場が現在の鴻巣に移されたのは1592~96年の文禄年間のこと。隣の桶川との距離が近かったことなどが理由と考えられます。
その後、もともと鴻巣宿だったという意味で「本鴻巣村」と呼ばれるようになり、元禄時代にもともと宿場だったという意味の「本宿村」となりました。
北本より南に位置する浦和にも元宿という地名があったことから、区別するために「北本宿村」となったのが1871(明治4)年。「北本市」になったのが1971(昭和46)年のことです。
北本が宿だったという歴史をあらわす言葉を、なぜ地名から取ってしまったのでしょう。なんだか惜しい気がしますね。

これは地元民でも知っている人は少ないと思う!


多聞寺の門を入って左手に大きなお地蔵様がいらっしゃいます。苔で見えにくいのですが、その土台には「元鴻巣村」の文字が刻まれていました(多聞寺)

古い地名を辿って見えてきた、かつて北本にあった宿場の歴史。もしも宿場が移されることなく、北本にあったとしたら……?もしかしたら北本はもっと多くの人が住むまちとなって栄えたのでしょうか。でもそのかわりに、雑木林は消えてしまったかも。縄文遺跡はビルの下だったかも。
歴史って地層のように積み重なっていて、とてもおもしろいですね。

貴重なお話をたくさん聞かせてくださった磯野さん、ありがとうございました。
取材に同行して写真を撮ってくれたのは、北本出身の和樂webスタッフとま子さんです。
連載 北本奥の細道、次回は「赤子が富士山にのぼるまつり」のひみつに迫ります。お楽しみに!

歴史を知ることって今を知ることなんですね、勉強になりました!

「連載 北本奥の細道」

第一回 東京へ向かうのになぜ“下り”?埼玉県北本市「中山道」謎を紐解くぶらり旅

アイキャッチ:木曽街道六拾九次 第八 岐岨街道鴻巣吹上富士遠望(渓斎英泉)
国立国会図書館デジタルコレクション

おくのほそ道に関する基礎知識はこちら

3分でわかる記事は以下よりどうぞ!

書いた人

岩手生まれ、埼玉在住。書店アルバイト、足袋靴下メーカー営業事務、小学校の通知表ソフトのユーザー対応などを経て、Web編集&ライター業へ。趣味は茶の湯と少女マンガ、好きな言葉は「くう ねる あそぶ」。30代は子育てに身も心も捧げたが、40代はもう捧げきれないと自分自身へIターンを計画中。