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2024.01.11

建てたのは、ブリが助けた悪代官? 幻想的な海中鳥居の秘密【佐賀県大魚神社】

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どうにも変な感じである。
なんと表現すればいいか迷うところではあるが、据わりが悪いというか、落ち着かないというか。心がざわつくのである。

なんら緊張する場面でもない。いつもと変わらない、参拝の一コマだ。鳥居の前で頭を下げて一礼。清らかな気持ちで鳥居をくぐる。手慣れたはずの一連の動作も、今回だけは戸惑ってしまう。

すべては、ただ1つ。
ここが「海の底」だからだ。

安心してください、浦島太郎の竜宮城へ行っちゃったわけではありません。

「海の底」というと大袈裟に聞こえるだろうか。
無論、水深は浅いかもしれないが、正真正銘、今まで海水があった場所にいるのは確か。なんでも潮の満ち引きの関係で、干潮になると参道が現れるという不思議な鳥居なのだ。

今回は、佐賀県太良町(たらちょう)にある、コチラの神秘的な海中鳥居をご紹介する。
誰がどのような目的で建てた鳥居なのか。
佐賀県に伝わる伝承も含めて、その謎に迫りたい。

干満の差は日本一

佐賀県の南端、有明海沿岸部にある太良町。
じつは、長崎県との県境に面したこの町には、独特なセンスの異名がある。その名も「月の引力が見える町」。情けないが、すぐには意味が飲み込めず。何度かリフレインした末に、ようやく頭の中に入ってきた。

このネーミング、意図は有明海の干満の差にあるという。日本の海の中でも有明海は干潮と満潮の差が日本一。じつに6mにもなるのだとか。6mというと、だいたいマンションの2階の高さほどである。それだけ潮位が動くとなれば、かなり見える景色も違ってくるだろう。道理で、有明海の中にある「海中鳥居」の参道も消えるというワケだ。

ちなみに、今回の取材では撮影できなかった「海の中に佇む鳥居」がコチラ。実際に海水が満ちてくると、また違った印象を受ける。

潮の満ち引きにより、実際に参道が海に消えた「海中鳥居」(出典:写真AC)

鳥居自体には何の変化もない。
ただ、季節や時間、また潮位の影響により、周囲の状況が刻々と変化する。それらすべてが、まるで違う鳥居だと錯覚させるようだ。

そんな予備知識を詰め込んで、早速、現地を訪ねた。
取材当日は、雨男のカメラマンでさえも手が出ないほどの晴天。件の海中鳥居は、JR多良(たら)駅から徒歩で7分ほどの場所にある。海風を横に受けながら海岸沿いの道を歩いた。

意外にもネタバレは早かった。
歩くこと数分で、斜め前方に複数の小さな鳥居を発見。干潮だからか、海の様子は完全に干潟そのものである。

しばらくして開けた場所に出ると、見えてきたのがコチラの大きな鳥居。快晴だったこともあり、じつに青空に映える大きな朱の鳥居だ。扁額には「沖之神(おきのかみ)」という文字が見える。

海中鳥居の前にある大きな鳥居。コチラは岸に建っており、海の中にはない

そうして海の方へと視線を下げると、真正面に三基の鳥居が揃ってお目見え。コチラの鳥居も全て「沖之神」という文字が確認できる。

はて。
「沖之神」とは?
疑問を抱きつつ、いざ海中鳥居へと向かう。ゴロタ石で足をくじかないよう慎重に鳥居へと近付いた。

鳥居の先は「沖ノ島」

不思議だ。
地面だけを見ると、大小の石が転がっているだけで、何ら変わりはない。ぬかるんだ泥の場所もあるが、雨が降ったあとの神社と同じである。だが、顔を上げると、途端に景色が変わる。周囲には何もない。ただ三基の鳥居が存在するだけ。

そして、その先にあるのは広大な海。
じつに不思議な感覚だ。

一礼して鳥居をくぐる。鳥居の高さは約2.5m。そこまで高くはない。ゆっくりと歩きながら、なかなか普段では味わえないこの感覚をひとり楽しんだ。いうなれば異世界に迷い込んだような。いや、もちろん迷い込んだことはないのだが、期待と畏怖を混ぜこぜにした奇妙な感じだ。

岸から最も遠い三番目の鳥居

それにしても、と訝しむ。
ここまで違和感が生じるのはなぜだろう。これまでお参りした神社の多くは、土地の上にあった。単に海の中の鳥居が馴染みのないだけなのか。それでも何かが足りない気がする。だから、少々戸惑っているのである。

海の先を見つめながら、ふと思った。
一体、この先には何があるのか。

その瞬間に、違和感の正体が分かった。
そうか。この海中鳥居には「先」がないのだ。

鳥居ならば、その先には神社そのものがあるはずだ。そもそも、鳥居は神域の領域を表すもの。だから、神域との境目に存在することが多い。だが、この海中鳥居には、参道があってもその先の「神社」自体がない。なるほど。落ち着かない理由は「海の底」だけではなかったようだ。

さてさて、どうしたものかと観察すること数分。カギとなるのは、扁額の「沖之神」という文字。考えながら岸に戻ると、答えは意外にも近くにあった。そばに立つ佐賀県遺産の解説板である。

佐賀県遺産に認定されている海中鳥居

なんと、海中鳥居の先は「沖ノ島(おきのしま)」。
ややこしいのだが「海の正倉院」と称される、玄界灘にある「沖ノ島」の方ではない。全くの別の島で、コチラは鹿島市七浦地区から東へ約5㎞の沖合にある「沖ノ島」。有明海で唯一の島であり、男島と女島の2つからなるという。

この沖ノ島、「島」とはいうものの、実際は「岩礁」だ。簡単にいえば、水中に隠れている見えない岩なのである。潮が引くと姿が見えるが、逆に潮が満ちると海の中へ。船の航行が危険となるため、昭和26(1951)年に無人の灯台が設置されたという。

岩礁の島、で、私も一瞬「アレ」を思い浮かべてしまいましたが、それは「沖ノ鳥島」、日本最南端のサンゴ礁の島で、小笠原諸島にあります。

位置関係をみると、確かに「沖ノ島」に向かって鳥居が存在する。佐賀県遺産に認定されている名称も「沖之神への参道」だ。

海中鳥居と「沖ノ島」との位置関係

ただ、どうして「沖ノ島」に向かって海中鳥居が建てられたのだろうか。どうやら、ヒントは「沖ノ島」にありそうだ。

「沖ノ島」の謎

海中鳥居の直線上に位置する「沖ノ島」。
調べてみると、地図上では「沖ノ島」だが、地元では「オンガミサン」や「オシマサン」と呼ばれ、皆に親しまれているとか。名前にまつわる伝説や信仰が残っており、一部の資料では「女人禁制」とも書かれている。

ちなみに、先ほどの「オンガミサン」だが、漢字で表せば「御髪さん」。そもそもどうして「髪」なのか。その理由は、肥前鹿島藩藩主の鍋島直条(なべしまなおえだ)が記した「鹿島志」に記述があった。

「浜津の東海上七里余に小島あり、御髪と称す。(中略)俗伝に、昔神あり、其の髪を剃りて之を海中に投ず。留りて島となる。因て之を名づく」
(文化庁文化財保護部著『無形の民俗資料 第16集 (有明海の漁撈習俗)』より一部抜粋) 

「鹿島志」によると、神様の髪が海中に留まって島となったというもの。実際に「沖ノ島」には「御髪大明神」が祀られているという。ただ、どのような祭神かは不明で、幾つか説はあるが確定には至っていない。

そんな謎多き「沖ノ島」に向かって建てられた海中鳥居。
両者の関係に触れた伝承が地元には残されていた。まずは話の大筋を、福岡博著『佐賀豆百科 : 郷土の歴史と文化をさぐる no.3』をベースに紹介しよう。

海中鳥居の全景

330年ほど前の話だという。
昔、1人の代官がいた。それも、欲張りで意地が悪いという典型的な「悪代官」。

村の人たちには重い年貢を科し、自分は贅沢三昧の暮らしぶり。困ったのは村の人たちだ。彼らの生活は大層苦しく、このままでは死んでしまうと一念発起。代官に年貢軽減を頼むのだが、お前たちの働きが足りないと予想通りの門前払いとなった。

そこで、村の人たちはこっそり集まって相談をしたという。出された結論は、至ってシンプルなもの。

「ヤツ(悪代官)を亡きものにしよう」
こうして悪代官を倒す機会を待つことにしたのだとか。

海中鳥居のそばの掲示板にあった「悪代官」のイメージ図

そんな彼らの元へチャンスは突然やってきた。悪代官が舟遊びをしたいと言い出したのである。待ってましたとばかりに村の人たちは舟を出し、有明海の「沖ノ島」へと向かったという。

おっと。ご注目あれ。
あの「沖ノ島」のご登場である。

これが最後と、村の人たちは盛大に酒盛りをし、悪代官をもてなしたという。そんな企みがあることなど露知らず、悪代官は島でぐうぐうと高いびきをかき寝入ってしまったとか。

ここで、なんと。
村の人たちは……コロス?

いやいや。そうではなく、忍び足。
こっそりと皆で合図をして、村の人たちだけで舟を出し帰ってしまったのである。

海中鳥居を建てたのは誰?

悪代官は島でひとり。
つまり、置き去りにされたのである。思いのほか、村の人たちは優しいなと思いきや、よく考えればそうでもない。そもそも「沖ノ島」は島ではない。岩礁だ。時が経つにつれて潮が満ち、海の中へと沈んでいくスリル満点の場所なのだ。

そう考えれば。
まあまあな心理戦である。いや、心理戦だけではない。物理的にも待ったなしの状況だ。そんな事態に陥っているにもかかわらず、悪代官は気持ちよく寝ていたという。ようやく波の音で起きたのもつかの間、迫りくる海水に悪代官は大パニック。助けてくれと叫んでも舟は姿形なし。

とうとう最後は神頼みである。
悪代官は「神様仏様」と、神にすがったのだとか。

この願いが聞き入れられたのか、突如、悪代官のそばには大きな魚の姿が。当時、大魚(ナミノウオ)と呼ばれていたコチラの魚、どうやら「ブリ」のことらしい。

出世魚と呼ばれる「鰤(ブリ)」(出典:写真AC)

──悪い政治をやめて、村の人を大切にする代官になるなら助けてやろう

ブリの言葉に、悪代官は涙を流して反省し、もう二度と村の人に意地悪をしないと約束したという。

こうして、まさかのまさか。
ブリの背中に乗って、無事に生還を果たした悪代官。予想を裏切っての再登場。

これには、村の人たちも一様に驚きを隠せない様子。どんな罰を受けるのかと心配していたところ、なんと悪代官は村の人たちに手をついて謝罪したという。こうして悪政から一転、代官の村は次第に豊かになったとか。

ここからが微妙に話の詳細が分かれるところ。
代官が亡くなるときに、村の人たちに「ブリ」を神様として祀るようにと命じたとする内容もあれば、代官自身が無事に帰れたことに感謝して祀ったという内容もある。佐賀県遺産の説明は後者だ。悪代官か村の人たちか。どちらにしろ、ブリの名前を取って「大魚神社(おおうおじんじゃ)」と名付け、沖ノ島との間に海中鳥居を建てたという。

そんな大魚神社へと足を運んだ。
海中鳥居からは歩いてすぐのところ。看板を見つけられず、危うく通り過ぎるところだった。社務所などもなく、誰もいない。映えスポットとなっている海中鳥居とは打って変わって静かである。

海中鳥居の近くにある「大魚神社(おおうおじんじゃ)」

佐賀県遺産の説明では、以下のような内容となっている。

「その魚を大魚大明神として祀り、その奉賛として木の鳥居を大魚大明神の前の石の鳥居と沖ノ島との間に建て、大魚大明神の一の鳥居として区民や漁師から崇められている」
(「佐賀県遺産」のホームページの説明より一部抜粋)

太良町観光協会に問い合わせをすると、現在、大魚神社の宮司は、近くにある「太良嶽神社(たらだけじんじゃ)」の宮司が兼任されているとのこと。基本的には地区の方々がお世話されているという。

これで、海中鳥居が建てられた経緯は判明した。
忘れることのない「ブリ」への恩だったのだ。

ブリは成長するにつれて呼び名が変わる「出世魚」。「出世」する縁起の良い魚ですが、この地域ではそれだけでない特別な魚なのですね!

取材後記

海中鳥居は他と違う。
それは、なにも立地条件だけではない。鳥居をじっくりと観察すると、ちょうど1m辺りから下の方が白くなっていることに気付く。潮が満ちて海水が上昇する高さだろう。塗装が剥がれたとも思ったが、何やらびっしりと張り付くフジツボのようなものを発見。

鳥居の柱に張り付き、朽ちさせてしまうという

「海の中に建てとる杉の木は、付くムシが食べてしまうもんやけん、長くもたんとですよ」

栄町(さかえまち)町おこし会会長の山口渡(やまぐちわたる)氏はこう話す。新聞をはじめ多くのメディアが、海中鳥居は30年ごとに建て替える習わしがあるとの情報を伝えていたが、それはもう昔の話だという。

「30年ごとって書いてあるばってん、今の杉の木と300年前の杉の木は違うたいねえ。昔の杉の木は自然木たいねえ。今の杉の木はハウスの中で育てたような杉の木でしょう。今建てよる海中鳥居は10年くらいで腹いっぱいですよ」

弱ってくるペースも早くなる。ただ、悪いことだけではない。周期が30年ではなく10年ほどであれば、鳥居のつくり方を教え、後進を育てることができるという。

「結局どれも弱っとるけんですね、三基とも一気に建て替えんばいかんとですよ。年明けたらすぐ建てるです。用意をしとっとですよ」

これまで、海中鳥居の建て替えを担ってきた栄町町おこし会。取材をして、この地区に住む人たちが、実際に海中鳥居を支えていることを知った。

最後に。
もう1つだけ、どうしても尋ねたいコトがあった。

悪代官を助けた「ブリ」。
だから、この地区ではあまりブリを食べないという記事があったのだが、本当なのだろうか。

「そぎゃんと思うとですね。昔の書物に書いてあるし。このへんの栄町区の人は大きな魚を食べんとか、その話は本当にあるとですね」

大魚神社と海中鳥居をお世話する。
毎年、決まった時期にお祭りをする。
長年続けることは大変だが、「有形」のモノを引き継ぐことは、比較的可能といえるだろう。

だが、ブリのような大きな魚を食べない。
もし、そんな風習が未だ残っているとすれば。
「無形」のモノまでしっかりと現代に引き継がれているということだ。

意図せずとも。
あの時の「感謝」は、今もなおこの土地に刻まれている。

撮影:大村健太

基本情報

名称:沖之神への参道 大魚神社と海中鳥居(佐賀県太良町)
住所:藤津郡太良町多良1874-9、1897
公式webサイト: なし

参考文献
『有明町史』 有明町教育委員会著 1969年
『ふるさとの散歩道 : 肥前・筑後』 花山院親忠著 金華堂 1971年
『無形の民俗資料 第16集 (有明海の漁撈習俗)』 文化庁文化財保護部著 1972年
『佐賀豆百科 : 郷土の歴史と文化をさぐる no.3』福岡博著 金華堂 1974年

書いた人

京都出身のフリーライター。北海道から九州まで日本各地を移住。現在は海と山に囲まれた海鮮が美味しい町で、やはり馬車馬の如く執筆中。歴史(特に戦国史)、社寺参詣、職人インタビューが得意。

この記事に合いの手する人

人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。