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2022.07.24

いちま~い、にま~い…怪談「皿屋敷」のお皿が実在!滋賀県長久寺にお菊さんを訪ねて

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──「愛」というものが目に見えればいいのに

馬鹿げた考えなのは百も承知。しかし、恋愛を経験した人なら、1度は思ったことだろう。

そこに「愛」という言葉はあっても、残念ながら姿形はない。それゆえ、人はモノや言葉、態度で「愛」の存在を必死に証明してみせる。だが、いくら努力したところで、結局は同じだ。目に見えないコトには変わりないのだから、相手を信じて受け入れるしかない。

だから、思う。
「愛」が有形であれば、どれほど良かっただろうかと。今回の取材を終えて、まさにそう実感した。もし、現実に「愛」が見えていれば、2人の身にこんな悲劇は起きなかったかもしれないからだ。

男の名前は「政之進(まさのしん)」
女の名前は「お菊(きく)」
──「お菊」という侍女が「皿」を割ったせいで「手討ち」にされて……

あれ? これって、どこかで聞いた話ではなかったか。
「お菊」「皿」「手討ち」というパワーワード。
まさしく、怪談で有名なあの「皿屋敷」の話ではないか。

いちま~い。にま~い。さんま~い。よんま~い……1枚足りない。っていう、番町皿屋敷!

しかし、滋賀県彦根市の「長久寺(ちょうきゅうじ)」に伝わる話は少し違う。似ているようで全く似ていない「愛」の物語。その上、このお寺には事件の元となった「皿」や「お菊」のお墓まで実在するというではないか。

今回は、そんな滋賀県彦根市に伝わる「お菊さん」のアナザーストーリーをご紹介しよう。ひょっとすると、おどろおどろしい「皿屋敷」への見方が変わるかもしれない。

そこにあったのは「怪談」などではなく、悲しき「愛」の物語であった。

※本記事の写真は、すべて「長久寺」の承諾を得て撮影しています

怪談「皿屋敷」と何が違う?どこが違う?

訪れたのは、滋賀県彦根市にある「普門山 長久寺(ふもんさん ちょうきゅうじ)」。JR彦根駅から3㎞ほど離れた場所にあるお寺だ。

「普門山 長久寺(ちょうきゅうじ)」 実際の最寄駅は近江鉄道の「ひこね芹川(せりがわ)」駅となるが、参拝するなら、JR彦根駅からレンタルサイクルの利用がおススメだ

長久寺は、長久3(1042)年に高野山の学僧である善應(ぜんのう)僧都により開創された。ざっと1000年近くもの歴史がある真言宗の古いお寺である。また、地理的に彦根藩のお膝元ということもあり、江戸時代には彦根藩の「富城堅固・福徳安全」の守護祈願寺に定められていたようだ。

境内に一歩入ると、見事な樹齢800年の紅梅がお出迎え。
この紅梅は、源頼朝が自ら手植したと伝えられている。なんでも頼朝が上洛の際に、風土病を患い当山に祈願。無事に病気平癒したことから、当山のご本尊である千手観世音菩薩に、この紅梅を献納したという。

長久寺の樹齢800年の紅梅「御覧の梅」

ちなみに、徳川家康が石田三成の佐和山城を陥落させるときには、当地の上にある「千鳥ヶ丘」に陣を張ったとか。千鳥ヶ丘から下りてくる際に、家康がこの紅梅を目にしたため、「御覧の梅」とも呼ばれているという。

なかなかみどころ満載のお寺だが、そろそろ本題へ。
「長久寺」といえば、やはり忘れてならないのが怪談「皿屋敷」との繋がりだろう。

今回、取材を快く受けてくださったのは、「普門山 長久寺」の松山貞邦(ていほう)住職だ。早速、彦根市に伝わる「お菊さん」についてお話をうかがった。

「普門山 長久寺」松山貞邦(ていほう)住職 ※写真撮影時のみマスクを外して頂きました

まず、最初に聞きかったのはコレだ。
「実際に『お菊さん』は実在する方なんですか?」

「ええ。お話としては、ここで実際にあった話と言いますか……。(皿屋敷)の伝説は伝説として、ここにも伝わっている伝説があるわけですよ。ただ、ちょっと内容が違うんですね」と松山住職。

1枚、2枚……と恨めしそうに井戸から出て皿を数える「お菊さん」。夏の風物詩として有名な「四大怪談」の1つ、「皿屋敷」の話である。

じつは、全国至るところに、この「皿屋敷」の話が伝わっている。その数、一説には48ヵ所ともいわれているから驚きだ。各地に伝わる話の大筋は、非道な主家に対する報復談となっている。主家の秘蔵の「皿」を女中が割ってしまい、そのせいで井戸に身投げして自殺、もしくは惨殺される。無念の思いで亡くなった彼女は亡霊となって現れ、夜ごと皿の枚数を数えるという内容が多い。

芳年「新形三十六怪撰 皿やしきお菊の霊」 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

なかでも興味深いのは、各地で伝わる「皿屋敷」の内容が同じではないコト。先ほどご紹介した基本的なストーリーに、地域によってはプラスαで様々な要素が追加される。横恋慕や妻の嫉妬、はたまたお家騒動や家督争いなど、まさに多種多様。

加えて、亡霊となる女中の死に方も異なる。折檻や拷問の途中で自ら命を絶つケースもあれば、主君に手討ちにされるといった場合も。

各地に似たような伝説があるなんて。少しずつ違う、ということは、そこにも深い意味がありそう。

ただ、結局のところ、それはあくまで「フィクション」だと思っていた。
確かに「怪談」の発端となるような事件は、各地で実際に起こっていたのかもしれないが、たかだか「噂話」の範疇を超えないくらいの、あやふやなものと思っていたのである。

だが、松山住職はこう話す。
「『お菊』が生まれた生家も、ついこの間まで……と言っても、だいぶこれも何十年も前でしょうけど。市内にありますんでね。菩提寺にお菊の亡骸も含めて預けられたということが伝えられていますので、ここでは事実としてあったと思います」

滋賀県の彦根に伝わる「皿屋敷」で登場する主家は「孕石(はらみいし)」家。
彦根藩の代々の高官武家だという。その孕石家の世継ぎとなるのが「政之進(まさのしん)」。今回の事件の当事者の1人だ。彼には、身分を超えて相思相愛の仲となる女性がいた。これが侍女の「お菊」である。彼女は足軽の娘だったとか。

彦根駅前にある彦根藩初代藩主の「井伊直政」公像。井伊直政は徳川家康の「四天王」の1人として名高い武将で、武勇伝には事欠かない

ただ、2人の愛の行方は、シンデレラのような結末とはいかなかった。というのも、政之進には亡き親が決めた許嫁がおり、後見人の叔母が彼の結婚を急かしていたからである。

「いわゆる『皿屋敷』のような怪談と全然違いますよね?」
「はい。ここの伝説では、お菊が誤って皿を割ったのではなくて、わざと割ったと。つまり、主人である政之進の気を引こうと思ってとなっています」

許嫁のいる政之進の本心が分からない。焦ったお菊は思い余って予想外の行動に出る。孕石家に先祖代々伝わる家宝の皿10枚のうちの1枚を、故意に割ってしまうのだ。ただ、政之進の気持ちを確かめたかった。家宝の「皿」とちっぽけな「自分」のどちらが大事なのかと。そこに「愛」が存在するのか知りたかっただけのこと。

「誤って割ったと思って、一度は、政之進はお菊を許すんですよ。けれど、自分の心の内を確かめるために割ったことが分かり、武士の意地が立たぬと。そこで政之進は腹を立てて、お菊の目の前でわざわざ残りの皿を全て割って、手討ちにしたといわれています」

そこには、お家騒動も折檻も何もない。
すれ違った心ゆえに起きてしまった「悲劇」なのである。

「一般的に、(皿屋敷は)井戸にまつわる話として芝居化され(世の中に)知れ渡ったんですけれども。ここでは、男女のロマンの話として伝えられてるんです。そのような意味で、若い人たちもよく見に来るようになりましたね。ちょっと前までは、おどろおどろしい感じに見られていたんですけども、どうも最近はそんなふうには見られてないみたいですね」

家宝の皿をすべて割って見せて、ということは。政之進の気持ちがそこに透けて見えるようです。

実在する……割れた「お皿」

「お皿も実存するんですか?」
「はい」
「あの『井伊直政』公のお皿をもらったと?」
「この孕石家は静岡の出身の一族で。静岡っていっても三河の方のね、なんせ井伊家の井伊神社というのが向こうにもあって。その近くに孕石神社っていうのもあるそうです。元々は『関ヶ原の合戦』の武功で、徳川家康から井伊直政公が拝領したお皿だそうで。今度は、『大坂夏の陣』などの功績で、そのお皿を孕石家に下げ与えたことになっています。そう聞いてますね」

それにしても、よくぞ現在まで残っていたものだ。
ただ、1つ引っ掛かる。
政之進は激怒して、残った皿も割ったのではなかったか。

「当時、お菊さんの前でお皿を割られたんですよね……。つまり、その割ったお皿が復元されて今もあるってことですか?」
「そうです。当初は9枚残ってたんです」

松山住職は言葉を継いだ。
「普通なら何年か経ったら菩提寺とかに、こういうものは処分してくださいって持って来るんですね。それが、たまたまお皿そのものが残ってしまったんですね。処分できなかったのか……割れたかけらごと箱に入ってそのままお寺に残っていて。末寺がなくなったから、うち(本寺)へ全部戻ってきた訳ですね」

それでは早速、ご紹介しよう。
コチラが、長久寺に残されている「お菊の皿」である。

長久寺で保管されている「お菊の皿」

「お菊の皿」のうちの1枚。独特の文様が見える

南京古渡りの白磁の洲浜文様の皿だという。寛文4(1664)年6月12日、お菊の母より当山の末寺へ納められたとか。

確かに、バリバリに割れている。
ただ、思いのほか粉々ではなかった。上から皿を落として割ったという印象は受けない。

寺の記録によれば、心を試されたと分かった政之進は怒り心頭で、刀の柄頭をもって皿を勢いよく打ち割ったと伝えられている。その通り、まさしく打ち砕かれたという言葉が当てはまる形状だ。

不思議と「怖さ」は感じられなかった。
別に霊感があるワケではないが、400年近くも前に起こったことだからか、妙な気配も一切漂っていない。よくぞ今まで残っていたなと感心するばかりである。

「お菊の皿」の説明書

ちなみに、過去にはテレビ番組の依頼で、「お菊の皿」をスタジオに持ち込んだこともあったとか。なんと、番組の中で実際に年代鑑定まで行われたという。最近では新聞社の展示で寺の外へと持ち出されたようだ。現在は、このように箱の中に入れて施錠し保管されている。

「当初は9枚残ってたんですが。戦後、博物館とかデパートに貸し出されたことがあったそうで。今は6枚しかないです」
「……?」
「紛失したようで」
「ああ。貸し出された時に?」
「ええ、まあ。恐らくそうだと思います」
「持ち出される時は法要をされるんですか?」
「簡単にしますけども。あまり大々的に取り立ててというのではなく、普通の扱いにしています」

じつは、今度の「千日法要(8月9、10日)」の際には、2日間だけ「お菊の皿」が公開されるという。

「不特定多数の方を対象とした観音様のお祭りなんですけど。その2日間だけは、どうぞ勝手に見てくださいって公開しているんですね。それ以外は、この日に見せてほしいって日が合うときだけですね。紛失したらいけないし、飾っておくもんでもないし。でも、しまったままでもねえ。なかなか扱いは注意しないといけません……」

「お菊の皿」が実際に見られる機会が年に2日間だけある!?

「お菊の皿」のうちの1枚。この皿はあまり割れておらず、保存状態も良い

「怪談の『皿屋敷』では心霊現象があるじゃないですか。こちらは全く違うお話なんですけれども……例えばそういう怖い出来事とかはあったんですか? それとも事件が起こっただけですか?」
「表立っては分かりませんけれども。孕石家のお屋敷は、実際に今も人が住んで普通に暮らしておられますのでね。あんまり騒ぎ立てたくないので、そうっとお菊を祀った小さな祠を庭に祀っています。ここのお家の方は、今も本当に丁寧にお祀りされてます」
「今もですか……」
「ついこの間も供養に行ったんですけど。今になっても庭に祀るってことは、何かがあったということだと思います。真剣に、そこのお家のご家族は祀ってます。女性が近づかないようにして。(お菊が)嫉妬するとかなんとかってね。そんなのは謂れなんですけど。それでも祀るっていうのは、何か普通の形ではないということだけは確かですね」

そういえばと、松山住職がとある話を教えてくれた。
以前に長久寺を取材したマスコミの1つが、その後の政之進の追跡調査をしたというのである。

「事件を起こしたあと、政之進は出家してしまいます。その後の追跡調査では、出家の際に『近江江州で女性を殺めた刀を預かってくれ』と、その近くの民家に刀を預けたと」
「ほお」
「孕石家はなぜか断絶していません。事件を起こせば本当は続かずにお家断絶とかあるんでしょうけど。詳しいことは私どももあんまり知らないんですが。その代は政之進で終わったんですが、次の代には分かれて、その後も代々続いています」
「つまり、分家みたいなもので?」
「そうです。その後、私も刀を預かっているお寺に行ってきましたけれども。静岡の『身延山(みのぶさん)』を本山とするお寺に刀が保管されていると。全く知らなかったですけどねえ」
「実際にお寺に行かれて、刀は現存してたんですか?」
「現存してますね」

長久寺とは別の場所に、お菊を殺めた「刀」が現在も残っているという。
数々の物証からも、やはり「悲劇」は実際に起こったのだと、改めて実感した。

1年後に浮かび上がった「法名」

「皿」に「刀」。
だが、これだけではない。さらに「お墓」があるという。

「お菊さんのお墓もあるということで?」
「境内の無縁塔の方に移しました」と松山住職。

長久寺の境内。山門から入ってすぐ左手に無縁塔がある

「昔は長久寺に末寺がありまして、4つあったうちの1つでね、江戸時代に廃寺になったんですけど。その『養春院(ようしゅんいん)』という末寺にお墓だけが残ってしまって。寺はなくて墓地だけです。それを早く整理しなきゃいけないということで、全部本寺の方へ移しました」
「元々は、その『養春院』にお菊さんのお墓があったんですか?」
「そうです。つまり、そこに預けられた。その末寺をお菊の菩提寺としてたんです。お墓とそれに遺品が預けられて。遺品はもっと早くから、事件が起こった江戸時代にお位牌と共にこちらに来たんですけど。お墓だけが末寺に残ってしまって」

松山住職は、小学校時代に長野県から滋賀県へと移り住んだという。その時には、長久寺の境内にはお菊さんのお墓はなかった。

「お墓だけが残って放置されてましたんでね。石塔も荒れてしまっていて。私の代になって無縁仏を整理しようと、40数年前にこっちに全部持ってきたんです」
「お墓の移動って大変そうですよね?」
「『墓相学』っていうんですか、当時の墓相関係の団体の人たちや、うちの檀家さんも全部出て、石塔を磨いて積んだんですよね。墓相に合わせてね。当時はそれが信じられていて。コンクリートで固めてはいけない、ただこう並べていくとか。そういう形で、まあ積んであるんですけれども」

長久寺の無縁仏のお墓(一番手前が「お菊さんのお墓」)

当時は、あまりにも古くて法名が判読できず、2つの墓のうち、どちらがお菊さんの墓なのかが分からなかったとか。

「お菊さんの墓と思われるものが2つあって。どっちかこっちかってわからなくて並べて置いて。1年経って磨いてると、ちょうど見えなかった字が見えるようになって」
「ええっ? そんなことってあるんですか?」
「まあ、洗われて1年経ったら徐々にねえ……。それで、法名が一応見えるようになったんです」
「2つのうち、『こちらだ!』と分かったんですね」
「そうそう。だから最初にテレビ取材を受けた時は、多分どっちかはわからなかったと思います。ちょうど1年後くらいに、はっきり法名(戒名)とお墓に書かれた文字が一致しましたので」

取材の最後に、そのお墓に案内して頂いた。
まずは手を合わせてから、法名を確認する。

──「江月妙心(こうげつみょうしん)」

「お菊さんの墓」 うっすらと「江」などの文字が見てとれる

お墓に刻まれた日付は、寛文4(1664)年6月15日。
近江の「江」という文字が入っている。

寛文4年は江戸時代初期、4代将軍徳川家綱の時代ですね。合掌。

1年後に浮かび上がってきたという法名。
お菊さん自身が、自ら墓の存在を知らせたのだろうか。世の中には、常識では理解できないこともある。色々な解釈もあるだろうが、まずはそれが事実だと受け止める。どう解釈するかは、個人それぞれの話だろう。

なんだか「取材」ということで、あれやこれやと騒ぎ立てて申し訳ない。
そんな思いを胸に再度手を合わせ、取材を終えた。

取材後記

取材の最後にと、松山住職に1つだけ追加で質問した。
長久寺に残る「寄進帳」についてである。

長久寺に残る奥女中らが記帳した「寄進帳」

なんでも、彦根屋敷、そして江戸の三屋敷の奥女中(江戸時代に武家の奥向に仕えた女性の総称、奥方女中とも)総勢292人が寄進して、お菊の供養のため法要を営んだというのである。292人とは、またとてつもない人数である。女中1人のために、大がかりな法要が営まれたというコトだろうか。

それにしても違和感が半端ない。
当時、このような扱いは珍しいのではないかと、ふと気になったのだ。

「お菊の死を憐みってことなんですけど。奥方女中が寄進料を出し合って、向こうの江戸屋敷で法要を営んだと。それはそれでいいんだけど。『お菊』という1人の女中奉公、当時の言い方だと『奉公した者』にわざわざ奥方女中が法要を営むかってことを考えたら、普通はしないと思うんです。ところがのちにやったってことは……。よほど何かあったんじゃないかっていう推測がされますよね」

──かわいそうだと、あくまで任意で供養の法要が営まれたのか
──致し方ないと、供養の法要をせざるを得ない「理由」があったのか

実際に、当時何が起こったのかは定かではない。
既に400年もの時が流れているのだ。すべては状況証拠であり、やはり憶測の域は出ない。これらを繋ぎ合わせると「何かあった」とも思えるが、結局はそこまでだ。真相は藪の中である。

ただ、1つ。
今回の取材を通して確実なのは、2人に悲劇が起こったというコトだ。

この悲劇ののち、「お菊」を殺めた「政之進」は自ら出家した。
自分の心が疑われたのみならず、試された。そんな駆け引きをした「お菊」を「政之進」は許せなかったのだろう。その場で愛する者を手討ちにし、その後、代々続く「孕石家」を振り返りもせず、彼は俗世を離れた。

だが、その行動こそが、お菊の問いに対する「答え」そのものではなかったか。

いや、これも……。
結局は、私の推測にすぎないか。

やはり、真相は藪の中なのである。

参考文献
「日本の皿屋敷伝説」 伊藤篤著 海鳥社 2002/5/1

基本情報

名称:普門山 長久寺
住所:滋賀県彦根市後三条59

書いた人

文筆家。生まれ育った京都を飛び出し、現在は日本各地を移住して執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。