最初は、軽い気持ちだった。
宮崎県で、今なお深く信仰されている江戸時代の僧。
その名も「赤面法印(あかづらほういん)」。
珍しい名前に、つい目がいった。
だが、その後。
名前の由来を知ることに。
──超絶美形の僧が
──自ら熱湯をかぶったため「赤面法印」と呼ばれた
週刊誌の見出しのような衝撃的な内容に、正直驚いた。
と同時に、さらなる興味が湧いてくる。
そもそも、超絶美形の僧は実在したのか。
なぜ、自ら熱湯をかぶったのか。
「赤面」と呼ばれたのち、僧はどうなったのか。
調べるうちに。
軽い興味だったものが、いつしか様々な疑問へと姿を変え、さらには1つの謎へと行き着いた。
──なぜ「赤面法印」は現在まで深く信仰されているのか
こうなると、もう気持ちが止まらない。
現地で是非とも話が聞きたいと、早速、宮崎県へ。
訪れたのは「赤面法印」ゆかりの地、宮崎県日南市にある「願成就寺(がんじょうじゅじ)」だ。
それにしても、「願いが成就する寺」って。
名前がステキ過ぎるではないか。
もう、これだけで十分、ご利益が半端ない感じがするのだが。
驚くのはまだ早い。
今回もまた、一連の取材を通して。
思いもよらぬ形での縁、信じられないような逸話を知ることになる。
願成就寺での「不思議」との出会い。
それでは、早速、その一部始終をご紹介しよう。
※本記事の写真は、すべて「願成就寺」に許可を得て撮影しています
出城を兼ねていた願成就寺
宮崎県日南市にある「飫肥(おび)」地方。
九州の「小京都」とも呼ばれるその町並みには、武家屋敷の門構えなど当時の風情が色濃く残る。
かつてこの地では、伊東氏と島津氏の覇権争いが90年近くも続いた。
飫肥城主であった伊東祐兵(すけたか、すけたけ)は島津氏に敗戦したのち、一時的に伊予国(愛媛県)へ。だが、紆余曲折を経て、天下統一を果たした豊臣秀吉に九州征伐の先導の功績が認められ、天正16(1588)年に飫肥城へと戻ることに。以降、明治維新まで、14代にわたり伊東氏が藩主となって飫肥地方を治めたのである。
280年近く栄えてきた飫肥藩の城下町。
その近くにあるのが、今回の取材先である「春日山 願成就寺」だ。
JR飫肥(おび)駅より徒歩8分ほどの距離にある真言宗の寺で、境内には真言宗の祖である空海の「弘法大師像」が安置されている。
お話をうかがったのは、願成就寺第30世「川﨑光俊(こうしゅん)和尚」。
事前に電話で取材の申し込みをした際に、女性の方が対応されたのだが。お会いするまでは、その電話の声の主が、まさか住職ご本人とは思いもよらず。優しく温かみのあるお人柄に、いっぺんで魅了されてしまった。
まずは願成就寺の始まりから。
「伊東氏がこっちに移ってお城ができた時、その鬼門を封じるために建った寺が願成就寺ですね。400年の歴史があるから、(私で)30世になる。(途中で)廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の時期がありますけど、それを繋いで来た感じ」
コチラの願成就寺。
天正年間(1573~1592)に、飫肥藩主である伊東祐兵が飫肥城の鬼門鎮護、そして祈願所として創建したのが始まりとされている。勢海法印によって開山、当時は本堂、開山堂、護摩堂、鐘堂など伽藍配置がなされ、十数ヶ寺の末寺を有していたとか。飫肥藩三大寺の1つにも数えられていたほど、寺の規模は大きかったようだ。
「もともとはね、願成就寺は東北の方角にあったんですよ。もっと山の中に。鬼門の方角に。でも、そこがものすごく不便で。それで、今のところに移した。そして出城(でじろ)を兼ねたんです。だから石垣が頑丈に造られてね」
承応年間(1652〜1654)の城下図には、願成就寺は既に現在の場所に記されているという。そのため、移転は17世紀前半頃と推測される。
それにしても、である。
確かに構造が寺っぽくはないとは思っていたが。
なるほど。「出城」を兼ねていると言われれば、大いに納得である。
「(寺の)階段っていうのは大体直線でしょ。でも、(当寺は)下から上がってきて、1回ぐっと曲がるんですよ。そこから階段が急になって。あの部分を『枡形虎口(ますがたこぐち)』って言って、その造りなんです。あそこで敵の勢いを削ぐんですよ。城郭の石組みがそうなってますでしょ。だから『出城』と言われるのは、そこなんですよ」
鬼門鎮護のみならず、出城の役割もあったという願成就寺。
だが、それだけではない。
じつは「談義所」とも称されている通り、学問所としての機能も有していた。つまり、僧侶が勉強する寺でもあったのだ。
そんな重要な役割を担っていたにもかかわらず。
明治5(1872)年、願成就寺は廃寺の憂き目に遭う。
明治政府の神道国教化政策に基づいて行われた、仏教の排斥運動「廃仏毀釈」によるものだ。
寺の資料によると、仏像や仏具、古文書などが河原で燃やされ、なんと3日も続いたとか。廃寺後は、飫肥農学校や税務署などが建物を利用していたという。
こうして厳しい時代を経て。
奇跡的に残ったのが、コチラの本堂のみ。
この本堂を中心に、大正13(1924)年、第27世の「伊勢木俊照和尚」が願成就寺の再興に着手。長い年月をかけて、現在に至るというワケだ。
なお、現在の本堂は、天保3(1832)年に飫肥藩主13代「伊東祐相(すけとも)」が再建したもので、なんでも飫肥杉の巨木を使用しているとか。一方、石垣と石段はすべて凝灰石の飫肥石で築かれており、山門は飫肥藩内の武家屋敷にあった薬医門が移築された。
これらは歴史的にみても非常に文化財としての価値が高く、本堂、山門、石垣や石段はそれぞれ、日南市の文化財に指定されている。
「赤面法印」は実在した人物なのか?
さて、少々前置きが長くなってしまったが。
本題はここからだ。
そもそも願成就寺に訪れたのも、「赤面法印」なる人物ゆかりの寺だからだ。
果たして、彼は実在するのか。
「(赤面法印は)願成就寺の第五世で。祐遍(ゆうへん)和尚は武家の出なんですよ。(これは)飫肥城のね、古い地図。武家屋敷のところに『右松』って書いてあるのがありません? そこの出なんですよ。飫肥の家老の子どもとして生まれた方が祐遍さん」
「赤面法印」なる人物の名は「祐遍和尚」。
なんと、コチラの願成就寺のご住職で第五世だという。
寺の資料によると、永禄年間(1558~1570)に右松氏の一族として生を受けたとのこと。
当時の武家屋敷の古地図の中央に「右松」という文字が見える。
どうやら、かなり家柄が良かったようだ。
それにしても、どうして出家したのだろうか。
「その当時はですよ。殿様に子どもが生まれたりしたら、その人の教育係っていうのがお坊さんという時代。だから、ある程度そういった武家のところから出てきたんじゃないかなと思うんですよね」
これまで多くの戦国武将について書いてきたが。
武家出身だからといって、そのまま武士になるというワケでもない。確かに、幼少期に出家していたケースもある。寺の資料によると、祐遍和尚の場合は幼少期に出家し、そのまま僧侶の道へ。以下、該当部分を抜粋しよう。
祐遍法印は幼少にして談議所に入寺し剃髪なし京都本山に遊學し真言密教の奥を究め法力特に顕現し歸國(きこく)して談議所の第五世法印となる。
(願成就寺より提供の『祐遍法印奉賛會趣意書』より一部抜粋)
「京都本山」とは、京都の真言宗智山派の総本山智積院(ちしゃくいん)である。
「談議所」とは「談義所 願成就寺」のことである。
「お坊さんとして京都で修行されて。で、こっちに帰ってこられて、この願成就寺に入られて。またここで修行されたんですね」
ここまでは、ごく普通の修行僧のようである。
いや、よく考えると。
普通どころではないか。
そもそも願成就寺は「談義所」だ。
その住職となるには、20年間本山で勉強し、かつ、本山で数年の間、修行もしなければならない。その上、祐遍和尚の場合は「真言密教の奥を究め法力特に顕現し」とある。修行で得た「法力(ほうりき)」、つまり、世間一般でいわれる「不思議な力」をもって、様々な人々の悩みや困りごとを解決されていたのだろう。
もう、これだけでもスゴいのに。
さらに、である。
祐遍和尚は、超絶美形の僧だったというではないか。
一体、どれほどの美形なのか。
寺の資料によると、城下での托鉢(たくはつ)の際には、既婚、未婚問わず、娘や人妻までもが祐遍和尚の元へ。まさに外灯に引き寄せられる蛾の如くという感じだろうか。女性たちはひどく積極的だったそうで、祐遍和尚の黒衣の袖を引っ張る、恋文を袂(たもと)に入れるのは、まだまだ序の口。塀の外より恋文を投げ込む、なんなら寺にまで忍び込むという強者も。
美形のみならず、読経の美声も相まって。
それはもう、多くの女性たちがご執心だったようだ。
僧侶の身でありながら口説かれ、彼女らの煩悩に悩まされていたという祐遍和尚。
それが、なぜ?
「美男子だったんで。自分で顔に熱湯をかぶられて。これで修行に専念できるっていう気持ちになられて。だから赤面法印、赤面になられた」
一般人の感覚からすれば。
言い寄る女性に態度を改めてほしいと、彼女たちの煩悩を責めるだろう。事実、その方が簡単だ。
だが、祐遍和尚は違った。
祐遍憤りて坊主頭を我が拳固でくらはしつゝ、徳薄く、志弱く、行山に浮きたる所あればこそ……(中略)……いざさらば更に苦行を積む其の一つとして怨敵たる斯の我がシャッ面焼きにぢつてくれむと……
(同上より一部抜粋)
あくまで責めるのは自分。
徳が薄い、志が弱い、自分の中に浮わついた部分があるのだと。女性側ではなく、自分の方に理由を求めた。
人々の羨望の的となる己の顔。
だったら、それをなくせばよい。
こうして、さらなる苦行を積むと覚悟を決めて、花も恥じらうほどキレイな顔に自ら熱湯をかけたのである。
それにしても、文字にするのは簡単だが。
実際行うとなると、それは想像を絶する苦痛だったに違いない。寺の資料には、目を覆うような様子が書かれている。
大釜に玉と散る熱湯を掬(すく)ひて花恥かしき美貌惜しげも無くぶつかけぶつかけ小擦り廻して……(中略)……顔は一倍の大さに腫れ起り、面影のそれぞとも分かぬ大火傷なりしか、創痕もやゝ癒えけるも皮破れ、肉輝き丹朱の色鮮かにびんづる尊者を怒らせたらん形相となりしを……
(同上より一部抜粋)
「びんづる尊者」とは、日本では撫で仏として親しまれるコトの多い「おびんずる様」だ。釈迦の弟子である十六羅漢の1人で、全身が真っ赤であることが特徴の1つとされている。
そんな「おびんずる様」を怒らせたような形相となった祐遍和尚に対して。
周囲の人たちはというと。
まさか、かの祐遍和尚だとは気付かず、これまでとは打って変わって「赤面」と呼び、蔑んだのである。
この中には、最近まで付きまとっていた女性たちの姿も。顔を見て笑う者もいたという。
人間とは、こうもなぜ、業が深い生き物なのか。
なんともやるせない気持ちになる。
だが、やはり。
顔は変わっても、声や所作は変わらない。
人間の本質的な部分、内側から発せられる美しさは、隠し通せるものではないのだろう。次第に人々は、「赤面法印」なる僧が、かの祐遍和尚だと気付き始めたのである。
「自分たちがうろうろするために、こんな風なことをさせてしまったんだっていう。そういう気持ちで『赤面法印さん』って慕われたんです」
自らの行いを省みて。
皆、深く反省したのだという。
寺の資料によると、とある女性は出家までしたとか。
後日聞き知りて泣きつ悶えつ、怨めしさ、悔しさ、恥しさに禁えでや髪きりて尼となりぬ。
(同上より一部抜粋)
老若男女問わず。
人々は祐遍和尚を「赤面法印」と呼び、慕ったのだという。
普段は公開されない「祐遍堂」へ
多くの人たちから慕われた「赤面法印」こと祐遍和尚。
確かに、これまでの経緯を知れば、その気持ちも理解できる。
だが、既に400年近くが経っている今、未だ変わらぬ信仰が続いているのは、どういうワケなのか。
「途中、60幾つの時に、まだ修行に専念したいって。そこの『酒谷川(さかたにがわ)』から筏(いかだ)を組んで出ていかれる。第五世のご住職だから、その時に弟子たちに、自分はここから出ていくけど、その後に山の中腹に白い煙を立てるから、そこに自分のお墓を作ってくれって」
どうやら、飫肥地方を流れる酒谷川から太平洋に出て天竺(てんじく)へ。つまり、インドを目指されたようだ。最期まで修行に打ち込まれた祐遍和尚。
だが、その行方は分からず。一説には、延岡市の門川町にお墓らしきものがあると伝わっているが、定かではない。
そして、寛永4(1627)年8月3日。
山の中腹に白い煙が上がったという。
その場所を聞くと、ご厚意で案内していただけるとのこと。願成就寺の近くにある「岩崎稲荷神社」の本殿の横の山道を上がった先にあるとか。
早速、岩崎稲荷神社へと向かう。
「この稲荷神社を開眼されたのも祐遍さん。当時の八幡神社とか稲荷神社とか。(祐遍さんが)開眼法要されたっていうのが棟札(むなふだ)とかに残ってるんですよ」
光俊和尚のあとについて、稲荷神社の横にある山道を進む。
おっと。
意外に鬱蒼としている。
もちろん案内板はあるのだが。矢印の先を見ても、本当にこれであっているかと、不安になるような細い道だ。
前日まで大雨が降っていたせいで、濡れた地面は滑りやすそうだ。これまで、何回取材先で転んだことか。今回は転ばぬようにと、必死で下ばかりを見て歩く。
すると、何やら鋭い音が。
ボキッ。
ボキボキ。
慌てて顔を上げると。
先までの温厚なお人柄からは、到底、想像できないほどの荒業に目を剥いた。
この音、信じられないだろうが。
まさかの光俊和尚の手から繰り出される、素早い一撃にガラ竹(地元ではガラ竹と呼ぶが真竹のこと)が折れる音である。
それにしても、こういう男手が必要な時に限って。
いつものカメラマンはというと。
悠長に写真を撮りながら、100mほどあとをついてきている様子。
「長くなったらね、竹藪になるから。だから長くなる前に、柔らかい時にね。(ガラ竹を)切らないとね」
口調はどこまでもお優しいのだが。必殺技はスゴイ。背中で語るとはこういうコトなのだろう。単純にかっけーなと。光俊和尚になら、お悩み相談とかできそうだななどと、考えていると。
くるりと振り向いて一言。
「タケノコ、お味噌汁なんかに入れる?」
そのギャップに、またしてもやられてしまった。
タケノコは残念だが、このあとも取材が数日続くことを考慮し、丁重にお断りした。
そうこうしているうちに。
赤い色の建物が見えてきた。どうやら目的の場所らしい。
「地元じゃないと本当に分からない」とのお言葉通りである。カメラマンとでは、到着するのにかなり手間取っていただろう。連れて来ていただけて良かったと、まさに感謝しかない。
緩やかな坂道を上がって、無事に到着。
実際に歩いてみると10分もかかっていないようだ。
大きな杉の木に囲まれた場所にある小さなお堂。
その名も「祐遍堂」。
赤い屋根、そして、赤い扉がとても印象的だ。
「(ここは)『新寺(にいでら)』って、末寺なんですけど。ここに白い煙を立てられて。で、お墓が作られて。代々、今に至ってるんですね」
お堂はコンクリートで頑丈だ。
施錠された扉を開けていただく。
「この『祐遍堂』の中にお墓があります。最初はお墓だけだったんですけど、その後にお堂が作られて。そこで護摩ができる形を作ってね」
それにしても、どうして。
最初の疑問が頭をかすめる。
──どうして祐遍和尚は、今なお信仰を集めるのか
「白い煙を立てるから、そこに自分のお墓を作ってくれって。で、(祐遍和尚は)そこに参ってくる人に、1つだけは願いを叶えてやろうっていうのを言い残して旅立たれた。それが今、ここ。祐遍堂なんですね」
ようやく、その答えが分かったのである。
「赤面法印」にまつわる不思議な話
──1つだけ願いを叶えよう
なるほど。
祐遍和尚は、その言葉を残されたのか。
「真正面が祐遍さんのお墓。で、ここで護摩焚いて。毎月3日の午前中だけここを開けて。だからお願い事とか、いろんな悩みとかも一緒に聞いてあげるっていう形でな。地元もやけど、都城、宮崎からも来られて。結構、県外も多いんですよ」
一礼をしてからそっと近づく。
赤い扉の中に置かれた大きな石。
正面には「當山中興開山祐遍」という文字が。
右に「寛永四丁卯年」、左に「八月三日」と刻まれている。
その前に積まれた白い紙。
なんでも願成就寺では般若心経の写経ができ、こうして多くの方が写経を奉納されるという。
「旅立たれたから(亡くなられたのが)いつか分からない。白い煙が立った時が、結局、亡くなられたっていうので。その日、8月3日を亡くなった日としてね」
だから、毎月3日にだけ。
この祐遍堂を開けられるのかと、納得した。
地元の方はもちろん遠方の方まで、様々な悩みを抱えた方が、月命日に参拝に来られるというワケだ。
それにしても、「一願成就」という名目だけで、そこまで人が集まるものだろうか。
そんな疑問を察してか。光俊和尚は不思議な話を聞かせてくれた。
鹿児島県の阿久根(あくね)という地域に住む方の話だという。
「昭和から平成になる頃に。『そちらに祐遍っていう方がなんか関係ありますか?』って電話が来たんですよ」
いきなり電話で、見ず知らずの方に質問されたらしい。
光俊和尚は、古い方で第五世だったと説明されたところ、ああと言って、すぐに電話を切られたという。その後、何日かして再び電話が鳴った。
「この前はすいませんでしたって。実はって、言ってからね。その人、霊感が強い人で。体が悪くて病院の診察を受ける時に、必ず夢に出てこられたお坊さんがいて。何回かそんなことが続いて。お坊さんに名前は何ておっしゃるんですかって訊くと。夢の中でですよ。したら『祐遍』とおっしゃったって。『祐遍』ってどんな人なんだろうって思ってたんですって」
偶然にも、息子さんが宮崎に来られたときに「赤面法印」の話を知り、母親に教えたという。そして、願成就寺に先ほどの電話がかかってきたというワケだ。
「その方は(ここには)来られなかったんだけども。でも、ガンで病んで、ここに来るといい方に向かう。いいことがあるって言われてて」
それだけではない。
祐遍和尚の祥月命日である8月3日には、毎年、飫肥周辺を流れる酒谷川にて「灯籠(とうろう)流し」が行われるのだとか。もちろん、祐遍和尚の追善供養という意味も兼ねているが。そこには、とあるからくりが。
「祐遍さんは、1つだけ願いを叶えようってされてるから、願い事を書くんですよ。灯籠に。亡くなった誰かの供養のためじゃなくて、祐遍さんに願いを1つだけ書く。だから『精霊流し』じゃなくて『灯籠流し』なんです」
願い事は自分で書くこともできるし、申し込みをすれば願成就寺で書いてもらえるという。
ゆっくりと流れる灯籠。
それはもう幻想的で、飫肥の夏の風物詩にもなっているとか。毎年、灯籠は250台近くを超え、多くの方が参加されるようだ。
さらにさらに。
祐遍和尚にまつわる不思議な話は尽きない。
「毎年1月3日に護摩を焚くんですけど。大正の頃はですよ。皆さん、その時には、新しく竹で作った火を起こす道具を持って上がって、ご祈祷してもらって、また持って帰ってそれを1年間使う。火の用心でね。祐遍さんは『火伏(ひぶせ)の法』をされてたから」
最初にご紹介した祐遍和尚の経歴。
確か「真言密教の奥を究め」となっていたはずだ。その奥義が「火伏の法」なるものなのか。
これに関しては、祐遍和尚の逸話が残されている。
とある日の願成就寺での出来事だとか。晴天であるにもかかわらず、祐遍和尚は境内で弟子らに水を運べと言われ、庭に水を撒かれたという。ただならぬ様子に、周囲の人たちは祐遍和尚がおかしくなったと思ったのだとか。すると、後日、京都の本山より連絡があって、お陰で火事が収まったと。そこで初めて、祐遍和尚が「火伏の法」で本山の大火を消していたことが分かったのだという。
「今は道具とか使わなくて、ガスとかね。だから、2月の節分の時に皆さんに『火の用心』っていう紙を差し上げてるんです。これも本当に祐遍さんの『火伏の法』から始まってて。他にも井戸の水脈を当てたりとかね、すごい方なんですよ」
そんな祐遍和尚の「法力」話を聞きながらの帰り道。
願成就寺へと再び戻るところで、まさかのカメラマンからの質問が。
光俊和尚:「(祐遍堂に)初めて行く人は『あんなに高いところ(にあるの)?』って驚かれて。(行くのに)慣れてると、普通(のことのよう)に思うけどな」
ダイソン:「いやあ、皆さんが驚くの分かります」
光俊和尚:「あの場所に白い煙を立ててな」
ダイソン:「ええ」
カメラマン:「あの……それって。その煙は……ご本人が自分で焚いたってことなんですかね?」
予想外の質問に、光俊和尚とダイソン、共に言葉に詰まる。
だが、光俊和尚が優しく解説。
「じゃなくて、祐遍和尚はもう出て行かれてるから、だから『法力』ですよ」
カメラマンが、なるほどと一言。
この瞬間に、先ほどから話されている「法力」話を、カメラマンはずっと理解できていなかったんだろうなと。遅ればせながら、記事を書く際には気をつけようと心して、一連の取材が終了した。
取材後記
「つい、この先月に分かったことなんですけど。昔の資料から、江戸時代、願成就寺の御本尊様は『不空羂索観世音菩薩(ふくうけんさくかんぜのんぼさつ)』っていう観音様だったと。だから、うわーすごいって。本当に今まで分からなかった。で、廃仏毀釈になって、ご縁があって、お大師様を迎えることができたんですけど」と光俊和尚。
不空羂索観世音菩薩とは六観音の1つで、人々の煩悩を「羂索」をもって漏らさずに救うと誓いを立てた観音様である。「羂」は網、「索」は魚の釣り糸を表し、網で鳥をとらえ、糸を垂れて魚を釣るが如く、漏らさずに人々を救われるという。東大寺法華堂の御本尊などが有名である。
「願成就寺」と「不空羂索観世音菩薩」。
そして、「赤面法印」こと祐遍和尚と「一願成就」。
並べてみて、驚いた。
すべて「願いが叶う」という共通項がある。なんとも、不思議な繋がりだ。
なお、コチラの願成就寺には、不思議な御守りがあるという。
その名も「一願祐遍御守」。
「祐遍さんの御守りはですね、木の札なんですよ。で、その木の札が割れたりした時には、また取り替えますから持ってきてくださいっていう内容が、お札の紙に書いてあるんですね。」
木が割れる?
一体、どういうコトだ。
「(実際に)割れたのを持ってこられると。『何かありましたか?』と言うとね、『隣まで火事が来てうちで火事が止まったんですよ』って。その時に何かに当たってお守りが割れてるから、あら、割れてると思って持ってきましたっておっしゃって。そういうのを聞かされて、こっちがびっくりするんですよ。本当に『ええっ』ていうことがあります」
悪いことなど何かがある場合に、御守りの木の札に異変があるという。
せっかくなので、いただくことに。
光俊和尚からは、時々、御守りを触って、異変がないか確認してねと言われた。割れた場合は、すぐに願成就寺まで送るようにとも。
それにしても、である。
じつに「不思議な繋がり」は、これだけではない。
光俊和尚のかすかなイントネーション。
どうにも聞き覚えがあると思っていたが。聞くと、光俊和尚は修行の期間も含めて20年ほど京都で暮らされていたというではないか。まさか九州で京都弁を聞くことになろうとは。京都出身の身としては、嬉しい限りである。
「祐遍さんも京都の修行だから。だから。京都で托鉢して、京都の街を歩いておられたわけですよね。祐遍さんも(私もあなたも)。今日は3人が京都繋がり」
確かに、京都繋がりだ。
だが、じつをいうと、全く予想外のところで。
私は、光俊和尚と個人的な繋がりを感じていた。
じつは最後まで。
ご本人には、言い出せなかったのだが。
信じられないほど、光俊和尚が私の母とそっくりなのである。年齢を考慮すると、「若い頃の母」となるのだろうか。
お会いして、いっぺんで魅了されと書いたが。
お人柄はもちろん、顔立ちと京都弁が相まって、母と話をしている錯覚にしばしば陥ったのである。
最近、忙しくて実家に帰れず。母に会いたいという気持ちが、そう感じさせたのだろうか。
光俊和尚の言葉を思い出す。
「人に言っても分かってもらえないような不思議なことってありますな。本当に。でも、それだけ見守ってもらってるっていうか、それは自分がそう思ってたらいいわけだから」
世の中には、理解できないような不思議なコトがある。
取材を通してだが、今回の出会いもまさしくそうだ。
これも祐遍和尚の粋な計らいなのか。
「だって、400年以上の前の方ですよ。こうして皆さんが慕ってくださって。どれだけの手法というか、ずっとこうやって皆さんを導いてくださってると思うと、本当にすごい方ですよね」
まさに光俊和尚の言葉が。
身に沁みた瞬間であった。
撮影/大村健太
基本情報
名称:願成就寺
住所:宮崎県日南市今町1丁目5番35号
公式webサイト:https://youhen.jimdofree.com/