滋賀県大津市坂本にある西教寺は、明智光秀とその妻・煕子(ひろこ)をはじめ、一族ならびに配下の武士たちの菩提寺として知られています。
坂本や西教寺は、元亀2(1571)年の比叡山焼き討ち事件のときに大きな被害に遭った場所のひとつです。そして光秀は、比叡山焼き討ち事件において中心的な役割を果たした人物のひとりでした。
比叡山を焼き討ちした光秀と、自分が焼き討ちした町や寺を復興し、菩提寺とした光秀。光秀が持つこの2つの顔について、彼と西教寺・坂本との関わりを交えて紹介します。
比叡山と深い関わりがある町・坂本
まず、西教寺がある坂本がどういう町かを簡単に紹介しましょう。坂本は、比叡山延暦寺とのつながりが非常に強い地域なのですが、その理由を3つのポイントから説明します。
1.伝教大師最澄の出身地
最初のポイントは、坂本は延暦寺を開いた僧侶・伝教大師最澄の出身地であるということ。坂本にある生源寺(せいげんじ)という寺には、最澄が使った産湯の井戸が今でも残っています。
2.比叡山の僧たちの隠居「里坊(さとぼう)」の町
坂本の街を歩くと、お寺が多いことに気がつきます。これは「里坊(さとぼう)」と呼ばれる建物で、高齢などで山での勤めが厳しくなった比叡山延暦寺の僧が隠居するために作った住まいのことです。またこのほかにも、天台宗の宗務庁や天台宗系の学校などが坂本には集まっていて、今でもこの地域が延暦寺と強く関わっていることが伺えます。
3.比叡山と延暦寺の守護神社である「日吉大社」がある町
坂本にある日吉大社という神社も、比叡山との結びつきを感じさせる場所でしょう。ここの祭神は、比叡山の地主神である大山咋神(おおやまくいのかみ)。最澄は、大山咋神を比叡山だけでなく延暦寺の守護神としても大切にしました。その結果、延暦寺と日吉大社は強く結びつくようになります。
たとえば、延暦寺の僧兵が平安時代からたびたび起こしていた「強訴(ごうそ)」では、僧兵たちは日吉大社の神輿を担ぎ出し、その神威(しんい=神様の威光や威厳、威力)をかざしてさまざまな要求を行っています。また現在でも、日吉大社の祭りである日吉山王祭には、延暦寺から天台座主をはじめとする僧侶がやってきて、参拝を行います。
戒律・念仏の道場である西教寺
では、こんな坂本の町にある西教寺とはどのようなお寺なのでしょうか。
西教寺の歴史は古く、その縁起によると618年に聖徳太子がその恩師のために創建したとされています。その後は一旦荒廃したものの、文明18(1486)年に延暦寺から真盛(しんぜい)上人が入寺したことをきっかけに不断念仏の道場として再興され、今に至っています。
不断念仏というのは、絶えることなく念仏を唱え続けることです。西教寺には不断念仏についてこんなエピソードが伝わっています。
明応2(1493)年、坂本で債権・債務つまり借金の破棄を命じる徳政令の発布を求める徳政一揆が起こりました。このとき、この一揆の首謀者が真盛上人であると勘違いした僧兵が、西教寺に攻め込んできました。本堂から聞こえる鉦(かね)の音に、ここに真盛上人がいるに違いないと踏み込んだ僧兵が見たものは、真盛上人の代わりに鉦を叩いている手が白い猿の姿。
坂本では、猿は比叡山の神の使いとされています。鉦を叩く手白の猿の姿に、僧兵は「真盛上人の徳は神の使いにまで及ぶ」と心を動かされ、寺を立ち去ったといわれています。
皆殺しも辞さぬ苛烈な顔
このように、延暦寺との関わりが深い西教寺と坂本の町。両者はどちらも、比叡山焼き討ち事件のときに大きな被害に遭いました。続いて、比叡山焼き討ち事件における光秀の動きを少しみてみましょう。
光秀は焼き討ちに先立ち、元亀2(1571)年1月に坂本などを含む近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市・高島市の一部)を織田信長から与えられ、宇佐山城(滋賀県大津市南滋賀町)に入ります。
宇佐山城もまた、比叡山の麓にあった城でした。ここを拠点に光秀は、国衆と呼ばれる地元の有力領主たちを相手に調略をしかけ、自分たちの陣営につくように説得します。その説得に使った文章には、皆殺しを意味する「なてきり(なで切り)」という言葉が使われています。対立するものには容赦をしない苛烈な一面が見えてきます。
そして起こった、比叡山の焼き討ち。被害の規模について、織田信長の一代記である『信長公記』は数千人と述べています。比叡山も、比叡山と関係が深い坂本もすべて焼かれ、僧侶はじめ多くの人が殺されました。
信長らとともに比叡山を焼き討ったのち、光秀はその後処理を任されて坂本に入り、そこに坂本城を築きました。このことから、光秀は後処理を任せられるほどの大きな功績を挙げたのではといわれています。自分が焼き討ちした坂本を、今度は自分の城とその城下として再興することになった光秀。自分が焼け野原にした村に立ち、彼は何を思ったのでしょうか。
愛妻や下層武士まで弔う優しい顔
坂本城の城主として、坂本の町を再興しはじめた光秀。特に彼が尽力したもののひとつが、西教寺の再興といわれています。
西教寺と光秀の関わりを示すエピソードを紹介しましょう。比叡山焼き討ち事件の2年後である元亀4(1573)年2月、織田信長と室町幕府15代将軍足利義昭の対立により、今堅田・石山の戦いと呼ばれる戦が起こりました。石山も今堅田も坂本から近いため、この2つの戦いには光秀も参加します。特に今堅田の戦いにおいては、坂本から囲舟(かこいぶね)と呼ばれる軍船を出して琵琶湖上から攻撃をしているのですが、この戦いは非常に厳しいものだったようで、光秀の配下も多く命を落としました。
そこで光秀は、西教寺に対し、討ち死にした18人の配下のために供養米を寄進したのです。このときの寄進状は今でも西教寺に残っているですが、注目すべきはそこに書かれた配下の名前。なんと、名字を持たぬ「中間(ちゅうげん)」と呼ばれる低い地位の侍の名前もあるのです。地位が低い者に対してもちゃんとその菩提を弔う、そんな光秀の優しさがこの書状から感じることができます。
その後、天正4(1576)年には光秀の愛妻・煕子が亡くなります。光秀はその煕子の墓を西教寺に作り、菩提を弔いました。
光秀本人は天正10年(1582年)本能寺の変の後、山崎の戦いで豊臣秀吉に破れ敗走中に殺され、残された一族は坂本城において自害します。西教寺は、謀反人として光秀だけでなく、自害した明智一族及び妻・煕子の実家である妻木家の供養塔を境内に作り、その菩提を今に至るまで弔い続けています。また、坂本城の城門を移築し総門として今でも大切に守っています。
神仏を恐れぬ光秀、敬虔に祈る光秀
比叡山延暦寺とその里坊が多い坂本を焼き討ち、僧たちを殺した光秀。西教寺を再興し、配下や愛妻の供養を行った光秀。寺を焼き討ち僧を殺す苛烈さと、寺で大切な人たちの菩提を弔う優しさ。一見相反するように見える顔が、光秀の中に潜んでいます。これはいったい、どういうことなのでしょうか。
戦国時代、寺の中には武将に匹敵するような勢力を誇ったものがありました。延暦寺もそうですし、有名なところでは本願寺勢力もしばしば武将と対立しています。光秀も、元亀元(1570)年から天正8(1580)年にかけて行われた石山合戦では顕如(けんにょ)率いる大坂本願寺と戦っています。
また、光秀が築城した福知山城には、石垣に転用石と呼ばれる石が使われています。これは、近くの寺から五輪塔などを奪い、石垣の石として使ったものです。
しかし、だからといって光秀はけっして神仏をないがしろにしていたわけではありません。西教寺との関係をみれば、それはわかります。このほかにも光秀は当時の神道家である吉田兼見と親しく、煕子が病に倒れたときには兼見に平癒の祈祷を頼んでいます。本能寺の変の直前に京都の愛宕山にある愛宕神社の勝軍地蔵のくじを何度も引いたという話は有名ですね。
こういったことから、光秀の中には、神仏に祈り加護を求める気持ちもあったことがわかります。ただ、だからといって敵対する勢力に対しては甘く接する必要はないという判断をしていたのでしょう。この態度が、比叡山の焼き討ちと西教寺の再興に端的に表れているのではないでしょうか。
念仏の声に感じる光秀の思い
西教寺では今も、本堂で不断念仏があげられています。本堂に座って念仏を聞きながら「光秀もまたこうやって配下や愛妻をしのび、菩提を弔ったのかもしれない」と考えると、戦国時代と今がつながったような感覚にとらわれれます。寺を焼き討ち僧を殺すことをためらわなかった光秀と、静かに神仏に祈る光秀。こんな光秀の2つの顔を感じられることでしょう。