Culture
2020.06.19

その理由に涙。黒田長政が処刑前の石田三成に陣羽織を着せる「恩返し」をしたワケ

この記事を書いた人

「恩返し」といえば……「鶴」?
合言葉のように、誰もが思い浮かべる連想ワード。確かに、辞書の『大辞林(第三版)』には、「恩返し」の用例に「鶴の―」という記述があるほど。

ただ、よくよく探してみると。じつは、鶴以外の動物のバージョンも数多く存在する。その方法は、驚くばかりの手練手管。結婚したり、お金を置いたり。なんなら、城を守ってくれるようなものまで。バラエティーに富んだ想像力には、本当に脱帽する。この「動物報恩譚(ほうおんたん)」は、いまや、昔話の一分野として確固たる地位を築いている。

一方、人間だって負けてはいられない。
書物や口伝でひっそりと語り継がれる人情物語。その裏側には、知られざるドラマが誕生していることも。もちろん、地域おこしのネタになるほど知名度の高いモノもあれば、そのまま注目されずに消えていく場合もある。

今回の主役も、恩返しとは無縁のタイプ。
どちらかというと、勢いばかりの逸話が目立つ。心優しいというよりは、猛将の部類に属する御仁。

その名も「黒田長政」。
福岡藩52万石の初代藩主となった人物である。

さて、そんな長政が行った「恩返し」。誰に対してかというと。相手は、あの「石田三成」というではないか。一体、衝突ばかりしていたはずの二人が、なぜ?

しかし、いざ探ってみれば。謎多き裏側には、まさかのドラマがあったのだ。

今回は、そんな「黒田長政の恩返し」について、じっくりとお伝えしたい。
まずは、この経緯から話そうではないか。

黒田長政が石田三成に頭が上がらない事情

「恩返し」は、もちろん「受けた恩」があってこそ成立する。言い換えれば、黒田長政はどこかしらで、石田三成に「恩」を受けたというコトだ。

はて?
石田三成と黒田長政に、そんな接点があったのだろうか。どちからといえば、その逆。豊臣秀吉の下で、文治派の三成と武断派の長政がやり合っている図しか思い浮かばないのだが。

それでは、時代を少し遡ろう。
黒田長政が、まだ幼き頃。当時、11歳の少年だった「松寿丸(しょうじゅまる)」の時代である。長政の父は、言わずと知れたあの人。名軍師と名高い「黒田孝高(よしたか)」通称「官兵衛(かんべえ)」である。じつは、受けた「恩」には、この父が関係してくるのである。

織田信長、そして豊臣秀吉に重用された黒田孝高。彼の人生は、一見、順調そうに思われる。しかし、意外にも、孝高は苦労人。その最たる例が、織田信長を裏切った荒木村重による幽閉だ。1年もの間、人知れず地下牢で暮らす羽目になり、その後遺症で歩行に杖が必要になったほど。

さて。
どうして、黒田孝高は幽閉されるに至ったのか。
そもそも、荒木村重が謀反の疑いをかけられたのは、天正6(1578)年10月。これに対して、主君である織田信長は意外にも、明智光秀や豊臣秀吉などを数回派遣。弁明の機会を与え、考え直すよう説得も行われた。

そして、この交渉役の1人が、父・黒田孝高だったのである。頭脳明晰、交渉力に長けた孝高だからと、誰もが朗報を期待して待ちわびた。しかし、待てど暮らせど、孝高は一向に戻って来ず。そのため、織田信長は、孝高も荒木村重側に寝返ったと思い込み、激怒。なんと、裏切りの証拠もないまま、人質として出されていた松寿丸(のちの長政)の処刑を命じたのである。

これを救ったのが、当時、孝高と共に「二兵衛」として呼ばれていた「竹中重治(しげはる)」、通称「半兵衛(はんべえ)」である。

あの黒田孝高が裏切るとは思えない。そう信じていた竹中重治は、自分の身も顧みず、松寿丸を密かに匿う。そして、ちょうど亡くなった全く別の少年の首を証拠として提出したのである。

歌川国芳-「太平記英勇伝-建中官兵衛重治-竹中半兵衛」

さて、ここまでは有名な話。
やはり「二兵衛」といわれるだけあるよね的な。誰もが、そうそう、二人の間の友情ってスゴイよねと、感心する。

しかし、忘れていないだろうか。
いくらお役所仕事だからって、書類じゃないんだから。首の提出で「ハイ、完了」というわけにはならない。当人の首か、確認する作業が必要となってくる。

本当に、別人の首を提出しても、バレないものなのだろうか。

確かに、全身で判断するとなれば、身長や体型などで即刻発覚する可能性も。しかし、なんといっても首だけである。目を閉じていれば個人の識別はしづらいかも。髪型を似せて、年齢だけ同じくらいであれば。って、そんなワケあるかいな。それで通るのであれば、処刑逃れなど、したい放題だろう。

じつは、ここにも、黒田孝高を信じていた人物が。

それが、あの「石田三成」、秀吉の家臣として、当時がむしゃらに働いていた彼だったのである。
三成は、届けられた首を見て、別人だと知りつつ、秀吉に取り次いだという。彼もまた、黒田孝高の無実を信じていたのである。

つまり、今回の「見せかけの処刑」がうまくいったのは、2つの偶然があったから。

1つは、秀吉が松寿丸の処刑を竹中重治に一任したコト。友の手で解釈するのがせめてもの情けと、判断されたからだという。そして、もう1つは、秀吉の取り次ぎ側に、同じ思いの人物がいたというコト。石田三成もまた、自分の身を顧みずに、黒田孝高を信じたのであった。

この2人の意図せぬ連携プレイで、松寿丸こと、のちの黒田長政は生き長らえたのである。

城門前にさらされた石田三成の姿

豊臣秀吉の死後の政権争いは「関ヶ原の戦い」で決めることに。慶長5(1600)年9月15日に始まった戦いは長引くことなく。たった1日で勝敗が決した。

200通をも超える書状の勧誘、地道な寝返り作戦の誘導が功を奏し、勝ったのは東軍。徳川家康側の勝利であった。

一方、この戦いの敗者である西軍側の戦国武将たち。その1人が石田三成である。

石田三成の旗指物「大一大万大吉」

三成は、有力家臣の死を聞いて戦場より敗走。大坂城に戻って再起を図る前に、逃げ切れず捕縛。ただ、その場所は残された資料によって異なる。『田中興廃記』によれば、井口村(滋賀県長浜市)から古橋村(同上)に移動し捕縛されたという。一方、『寛政重修諸家譜』によれば、草野(滋賀県長浜市、米原市)で拘束されたのだとか。

こうして身柄を拘束された三成だが、家康はすぐに処刑しなかった。いったん、近江国大津城まで護送。その城門前で晒し者にしたあと、再度、大坂へと護送したのである。

なお、処刑されたのは、石田三成だけではない。共に戦った小西行長や安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らも捕縛された。3人は、共に堺(大阪府)と洛中を「大罪人」として引き回される。三成といえば、少し前までは天下に手が届く距離にいた男である。多くの戦国武将やその妻女、一族らを引き回す側であった。それが、まさかの事態。よもや、自分の立場が逆転するとは、思いもしなかったに違いない。

なお、引き回しの間、三成は毅然とした態度で、頭を下げることはなかったという。

石田三成、享年41歳。
同年9月28日に市中引き回しのうえ、10月1日に京都の六条河原で斬首。敗者ゆえの運命を回避することはできなかった。

さて『名将言行録』には、三成に対する周りの反応をこのように記録している。

「この役で(関ヶ原の戦いのこと)石田三成がとりこになった。諸将は争って、三成に腹いせした」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

これまでの三成は、五奉行として、秀吉から一手に行政的な役を任されていた。戦場で危険な目に遭わずとも重用される。秀吉への取り次ぎや行政的な役割を安穏とこなしているだけなのに、好待遇。態度もデカいというのが、周りの武将からは我慢ならなかったのだろう。

実際に豊臣恩顧の武将たちも、「関ヶ原の戦い」では、三成憎しと、家康側へ加担。武断派であった福島正則、加藤清正らが次々と離れていく。そうして迎えた「関ヶ原の戦い」。これまでなかなか手も出せなかったあの三成が、敗れて晒し者に。その惨めな姿をわざわざ見物し、嘲る者もいたのだとか。なんとも、敗者には厳しい現実が待っていたようだ。

実録!これが黒田長政の恩返しの瞬間!

窮地に立たされてこそ、人の真価が分かるもの。嘲笑う者たちがいる一方、石田三成に対して情けをかける武将もいる。

例えば、徳川家康のいとこ、福山藩初代藩主の水野勝成(みずのかつなり)。彼は、市中引き回しの最中に、三成に編笠をさしかけている。そのあまりの落差に、武士として見過ごせないものがあったのだろう。少しの間、休めるようにとの気遣いが表れている。

そして、今回の主役、黒田長政である。

「関ヶ原の戦い」での黒田長政/関ケ原笹尾山交流館

石田三成からすれば、黒田長政は許せない相手である。なんといっても、「関ヶ原の戦い」の勝敗に最も影響した小早川秀秋(こばやかわひであき)を、家康の東軍へと寝返らせた張本人なのだから。いや、それだけではない。「関ヶ原の戦い」の前には、黒田長政ら7武将に襲撃された三成。そういう意味では、両者はとっても痛い間柄。

そんな因縁の二人が、この状況で出会うわけである。
城門の前。遠くから黒田長政の姿をとらえた三成。また自分を嘲笑いに来たと、そう思ったのだろうか。そんな三成に、長政は少し手前で下馬してから、ゆっくりと歩み寄る。
そうして、次のように語りかけた。

「勝敗は兵家の常とはいえ、五奉行筆頭の貴殿が、このような境遇になろうとは……。さぞやご無念でござろう」
(歴史の謎研究会編『刀剣・兜で知る戦国武将40話』より一部抜粋)

長政は、自ら羽織っていた陣羽織を、そっと三成に着せたという。

この時ばかりは、長政も11歳の少年に戻ったのだろうか。
一歩間違えれば、あのとき、自分がこのような惨めな姿となっていたはず。竹中重治、そして、目の前の石田三成、この2人が救ってくれたからこそ、今も生きることができるのだ。その実感を静かに噛みしめたに違いない。

なお、それまで顔を上げて堂々としていた三成だが、長政に陣羽織を着せられた折には、思わず涙を流したという。家康に咎められる覚悟で情けを見せた長政の情が 心底、沁みたのだろう。

武断派と文治派。
その考え方は大きく違ったかもしれない。
しかし、目指すものは、そこまで離れていなかったように思う。人としての情け、武士としての矜持。

それにしても、あの日から随分と長かった。
命を助けてもらったご恩。

黒田長政は、ようやく肩の荷が下ろせたはずだ。
遅くはなったが、今ようやく「恩」を返せたのだから。

参考文献
『刀剣・兜で知る戦国武将40話』 歴史の謎研究会編 青春出版社 2017年11月
『1人で100人分の成果を出す軍師の戦略』 皆木和義著 クロスメディア・パブリッシング  2014年4月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『戦国 忠義と裏切りの作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2019年12月
『戦国合戦地図集』 佐藤香澄編 学習研究社 2008年9月

書いた人

文筆家。生まれ育った京都を飛び出し、現在は日本各地を移住して執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。