Culture
2020.06.23

今川義元のまろメイクは憧れの象徴?強力な武器にもなった戦国大名の貴族趣味

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私たちの想像する「イケてる戦国武将」といえば、やはり天下無双の武力をもつ豪気な人物でしょう。たとえば、本多忠勝や島津義弘のように。

一方、今川義元や朝倉義景といった戦国大名たちは、「貴族趣味におぼれていた軟弱者」として長らく蔑まれてきました。実際、彼らが家の衰退を招いた張本人であることは間違いなく、平安貴族のまねごとをしていた愚か者と思われてしまうのも分からなくはありません。

ところが、近年の研究で彼らを非難する際にもっぱら用いられてきた「貴族らしさ」は大名としての無能さを象徴するものではなく、むしろ人々の尊敬を集める長所であったことが判明してきました。「合理性」と「京への憧れ」が入り混じった彼らの複雑な「貴族らしさ」の実態を見ていきましょう。

信長も秀吉も無視できなかった「権威」

冒頭で紹介した「平安を引きずっている古臭い大名」である今川義元や朝倉義景に対し、「古臭い伝統にとらわれない近代的な大名」として知られてきたのが織田信長や豊臣秀吉でしょう。

しかしながら、彼らがいわゆる「貴族的な文化」から完全に脱却できたかといえば、全くそんなことはないのです。例えば、織田信長は京都へ上洛して権力を握る過程で山科言継や吉田兼見といった公家たちと親しく交流しており、財政・軍事的な面で苦しむ彼らに莫大な支援を行っています。

織田信長像

また、彼は当時の元号を「天正」にしたいという強い希望をもっていましたが、いくら信長に実権があったとはいえ公家や天皇の判断で決定されるという慣習がありました(とはいえ、当時はすでに室町幕府=武家の意向が強く反映されていましたが)。そこで信長は自身の武威をいかんなく発揮し、朝廷側にはたらきかけて天正の改元にこぎつけました。結局、なぜ信長が改元にこだわったかといえば「室町幕府を飛び越えて改元に干渉することで、天皇や朝廷に支持される武家であることを示したかった」といわれます。

信長も公家勢力は十分に重視していましたが、彼を上回るほどに貴族と親しくしていたのが秀吉でした。

豊臣秀吉像

天下を手中に収めた彼は、自分たちを含む豊臣政権の武士たちを「公家」の序列にあてはめて格付けしました。加えて、彼自身が藤原氏とその子孫である五摂家しか就くことのできなかった公家最高峰の地位「関白」になったことも重要です。彼はなし崩し的に関白に就任するのですが、公家や朝廷を軽視していたらわざわざ彼らが名誉と考える職に就くでしょうか(近年の研究では、彼の関白就任に深い意味はなかったという説もあります)。そして、何より秀吉が公家たちの「権威」を意のままに扱い、取り入れることができたのは彼の武力と財力のなせる業でした。秀吉は当時の後陽成天皇をはじめとする朝廷や公家側に信長をしのぐほどの支援を行っており、公家たちが彼に異を唱えることは不可能だったといってもよいでしょう。秀吉がここまで公家たちの世界に介入した理由は、やはり天皇や朝廷の力を借りて武家を統制するという政治的判断に基づくものだったのではないでしょうか。

このように、公家たちを支援することは戦国大名にとって欠かせない政治的な営みでした。そのことを考慮に入れておくと、「貴族的な戦国大名」に対する見方が変わってくるように思えます。

外交や内政で強力な武器となった「軟弱大名」たちの貴族趣味

では、信長や秀吉と同じ視点で今川義元や朝倉義景の姿を考えてみましょう。

まず、朝倉義景は京都との距離が非常に近いことから、とくに公家や朝廷とのかかわりが強い大名でした。もともと、彼の先祖にあたる朝倉孝景(義景の父も孝景という名を名乗っているが、これとは別人)は応仁の乱を契機に勢力を拡大しており、ある意味「都と地方のいいとこ取り」で発展してきたともいえます。孝景以降の歴代朝倉氏当主も、戦乱で荒廃した京都から多数の公家を迎え入れてきました。結果として彼らの本拠である越前一乗谷の地には多くの文化的教養がもたらされ、当代屈指の文化都市に成長したことは以前に書いた記事で触れています。

いよいよ「麒麟がくる」越前へ!なぜ朝倉義景の時代に越前の文化都市は滅ぼされたのか?

当然ながら、義景を含めて当主たちが公家を迎え入れるにふさわしい服装や所作、趣味を兼ね備えていたことは間違いないでしょう。でなければ、いくら彼らを庇護するといっても公家たちが進んで移住してくるとは思えません。

また、今川義元も似たような経緯で公家や朝廷と深くかかわり、彼らやその文化を庇護していました。今川氏自体は鎌倉時代からその系譜が続く名門の一族で、とくに室町時代には幕臣の中でも将軍の一門(つまり親族)に準ずる特別な格を有していました。そんな今川氏は義元の父である今川氏親の代に大きく発展します。軍事的な力を得た氏親は、妻として天皇の側近である中御門家に生まれた寿桂尼という女性を迎えます。彼女は今川氏の分国法として有名な「今川仮名目録」の制定に携わったと考えられているほか、今川氏の御家騒動である花蔵の乱などにも深くかかわり「女戦国大名」の異名を与えられるまでになりました。こうしたエピソードからも分かるように今川氏も公家たちとのかかわりには積極的で、彼らの本拠である駿府には一乗谷同様に多数の文化人が住んでいました。

駿府城

彼らがどのように貴族とかかわっていたかを整理したところで、そのかかわりにどのような合理的意味があったのかを考えてみます。

第一に挙げられるのが、公家たちの信任を得ることで朝廷や足利将軍家との「コネ」をつくることでしょう。実際、都で暮らしていた公家たちは都とのパイプを有しており、地方に住む大名たちが中央とコンタクトを取る際の窓口として機能していました。また、都で起こっている出来事を知る際にも、彼らの情報網が役立ったに違いありません。

次に考えられるのが、朝廷や将軍家だけでなく他の大名家や敵対する国衆、さらには家臣たちにも「格」をアピールできることです。仮にその大名家が朝廷から深く信頼されている、あるいは貴族らしく高い格と教養を有しているとなれば、いざ何かしらの勢力と敵対ないしは同盟する際にも有利に働きました。当時の人々は「武力主義」で動いていたように思われますが、信長・秀吉の例でも分かるように「格式」も極めて重要だったからです。また、教養のある振る舞いができることで、時の権力者から尊敬の念を向けられることさえありました。

さらに、公家たちが有していた「教養」そのものにも価値がありました。和歌詠みのスキルや宮中行事に関する知識は領国経営の直接的な役には立たなかったかもしれませんが、彼らの「兵学」や「法学」、「医学」などの知識には目を見張るものがあったでしょう。現代でもそうですが、政治によって国をより豊かに、より平和にするためには、単に資源や人材が豊富なだけではいけません。それをどのように運用するかが肝なのであり、言ってしまえば「田舎侍」の戦国大名たちに都で伝わる最新の「学問」が伝えられたことになります。

合理的判断だけで「貴族らしさ」を追求したわけではない?

ここまで見てきたように、戦国大名たちが貴族的な振る舞いをしたり、あるいは貴族たちを庇護することには大きな意味がありました。

しかしながら、だからといって今まで語られてきた「貴族への憧れ」や「コンプレックスの裏返し」という側面がなかったかというと、そんなことはないでしょう。現に、信長はともかく秀吉は出自を非常に気にしていた節があり、彼による貴族的権威の持ち込みは合理的判断だけでは説明がつきません。同じく、義景や義元もそうした文化を利用していた側面こそあれど、「貴族になれるものならなりたかった」のではないかと思えてなりません。

つまり、彼らが追究した貴族らしさとは、「合理的判断と自分の嗜好が入り混じった複雑なもの」だったのではないでしょうか。

最後に、現代になぞらえて分かりやすく解説してみましょう。例えば、生まれたときは貧乏だったにもかかわらず、自分一代で大金持ちになった実業家がいたとします。そんな人物が、SNSで自分がいかに裕福かを見せつけるため、高級外車や豪邸の様子をアップロードして「自分が成功者であること」を誇示したとしましょう。普通に考えれば「金持ちアピールをするいけ好かないヤツ」としか思えません。

が、この実業家が金持ちアピールをすることには確かな合理性があると思います。羽振りのよい姿を見ると「この人はスゴイ!」と憧れ、言葉や行動の一つ一つが輝いたものに見えてしまう人は少なくありません。つまり、一見いけ好かない成金アピールに見えても、それは投資的な側面があり、使った以上のお金になって戻ってきたとしても不思議はないのです。他にも、同じ実業家サロンで生きていくための「武装」であったり、あるいは節税目的で投資したりしているのかもしれません。

ただ、実態はともかくとして、私たちはこの実業家を見て「金持ちコンプレックスがない」と判断するでしょうか。確かに合理性があるといえばありますが、そんな彼らを見る目はどうしても冷ややかなものになってしまう気がします。そしてこの冷ややかな視線は、つまり当時の貴族たちが貴族化していく戦国大名を見る目に近いのではないでしょうか。「君らのやってることって、結局コンプレックスの裏返しでしょ」と。

【参考文献】
『国史大辞典』
今谷明『戦国時代の貴族』講談社、2002年
渡邊大門『逃げる公家、媚びる公家:戦国時代の貧しい公家たち』柏書房、2011年

アイキャッチ画像:ボストン美術館公式サイトより

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書いた人

学生時代から活動しているフリーライター。大学で歴史学を専攻していたため、歴史には強い。おカタい雰囲気の卒論が多い中、テーマに「野球の歴史」を取り上げ、やや悪目立ちしながらもなんとか試験に合格した。その経験から、野球記事にも挑戦している。もちろん野球観戦も好きで、DeNAファンとしてハマスタにも出没!?