「閻魔王様」
こんな書き出しで始まる一通の手紙。
既に見飽きた感が強い、異世界転生モノのラノベではない。これは、れっきとした正真正銘の手紙。それに、付け加えるなら。なんと、書かれたのは戦国時代である。もう、これだけで、なんで? 誰が? でどうした? と興味がわく。
ちなみに、「閻魔王様」はただのニックネームではない。例えば、織田信長は「第六天魔王」と売り言葉に買い言葉で、自ら手紙に署名したといわれている。しかし、今回の場合は違う。何かを揶揄してというワケではないのだ。
今回の宛名は、マジな「閻魔王様」。
れっきとした、正真正銘の地獄を牛耳る「閻魔様」のコトを指している。
うん?
でも、なんだか少し、既視感が。
だって、架空の人物に本気で手紙を出す、そんな人だっているだろう。例えば、幼い頃、サンタクロースに手紙を書いたように。純真無垢な幼少時代は怖いもの知らず。なんだってできるのだ。
そして、この手紙を書いた方も、ある意味、恐れることを知らないタイプ。なんてたって、あの「関ヶ原の戦い」のきっかけとなる有名な「直江状」を書いた主(ぬし)だからだ。
「愛」のついた兜でお馴染みの名軍師。「直江兼続(なおえかねつぐ)」である。
彼も、果たして「閻魔王」を信じていたのだろうか。
一体どのような経緯で、こんな手紙をしたためるに至ったのか。今回は、その気になる結末も併せてご紹介しよう。
見目麗しく一本筋の通ったお人柄?
今回の主人公、直江兼続(なおえかねつぐ)は、上杉景勝(かげかつ)を支える戦国時代きっての名軍師。大河ドラマ「天地人」で取り上げられたことでも有名だ。
なお、主君の上杉景勝は、のちに、豊臣秀吉政権下で五大老となった人物。与えられた会津120万石は、徳川家康に次ぐほどの大所帯。景勝は、もともと越後の虎といわれた上杉謙信の養子で、後継者争いを制して上杉家の家督を継いだ。もちろん、この争いの裏には、直江兼続の働きがあってのこと。
この上杉景勝に生涯、忠誠を誓ったのが、先からご登場の直江兼続。今回の主役である。樋口兼豊(ひぐちかねとよ)の長男として生まれ、その祖先は、木曽義仲の腹心である樋口兼光ともいわれている(諸説あり)。幼い頃にその才気が認められ、上杉景勝(当時は長尾顕景)の小姓に。のち60歳でこの世を去るまで、50年近くも景勝を支えてきた家臣の鑑(かがみ)ともいえる人物なのだ。。
『名将言行録』では、直江兼続をこのように記している。
「兼続の人となりは、背が高く容姿も美しく、ことばもはっきりしていた」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
その上、どうやら、コレと決めれば断固突き進む、一本気のある性格。
というのも、直江兼続にはこんなエピソードが残されている。
「天下の三陪臣」とは、豊臣秀吉の言葉。
天下人や将軍に直接仕える大名らを「直参(じきさん)」、一方、大名の家臣は直接ではなく大名を介して接するため「陪臣(ばいしん)」と呼ばれる。そんな陪臣でも「直江兼続」「小早川隆景」「堀直政」の3人は天下の政治も行うことができる。そんな意味を込めて、豊臣秀吉はこの3人を「天下の三陪臣」と称していたという。
この評価は、江戸時代になっても変わらず。直江兼続の官位は従五位下(じゅうごいのげ)。これは一般の大名と同じである。これに対して、江戸幕府の老中の官位は従四位下(じゅうしいのげ)となる場合が多い。つまり、分かりやすくいえば、老中の方が、官位が上。そのため、多くの大名らは、幕府の老中にへりくだって接していたという。
しかし、陪臣であり官位が下であっても、直江兼続は態度を変えず、なんなら一部の老中を呼び捨てにしていたほど。そして、老中の彼らも抗議することなく、逆に兼続に手を突いて応じていたとか。
あえて空気を読まない、剛毅な性格といえるのかもしれない。
苛烈な一面も併せ持つ名軍師
さて、そんな直江兼続が、「閻魔大王」へ手紙を出すなんて。
冷静沈着に戦況を判断して、ドンピシャの作戦を決行する。そんな彼が、閻魔王様って書いている姿は、全くもって、想像できない。冗談なのか、真面目なのか。もう、そのテンションすら不明である。
事の発端は、慶長2(1597)年に起こったある出来事。江戸時代の随筆『煙霞綺談(えんかきだん)』に記されている。
上杉家の家臣、三宝寺勝蔵(さんほうじしょうぞう)が下人を斬り殺したというのだ。ただ、書籍によっては、横田式部が奉公人を無礼討ちにしたとも。家臣の名前などは諸説あるようだ。
当時は、なんら珍しいことではない。現在は大問題になるだろうが、身分社会が確立した時代では、同じような悲劇が少なからず起きていた。だって、江戸時代には「切り捨て御免」との言葉があったくらい。
ただ、今回のケースが他と大きく異なるのは、斬り殺された遺族が黙っていなかったこと。怒りの猛抗議を行ったのである。その内容がこちら。
「生きて返して下され」
確かに、無理な要求である。「謝れ」「金払え」なら、なんとかなったかもしれない。ただ、「生きて返せ」は、さすがに実現不可能。こうして、猛抗議を受けた家臣は自分でどうすることもできず。ここは、あの人にということで、直江兼続に泣きついたのである。
そこで、兼続が間に入り、説得を試みることに。
まずは、白銀20枚を与えたという。「これで死者を弔うように」とのこと。まあ、言い方は悪いが、要は「カネ」で解決を図ったのである。
それでも、遺族は納得しなかった。確かに、大事な家族をむざむざと殺されたのである。その悲しみは大き過ぎたのだろう。一方、兼続の説得も一度きりではなく。何度も話をするのだが、埒があかない。誠心誠意、家族らと対話をしても、ただ遺族は「生きて返せ」と繰り返すばかり。
「死んだ者をどう呼び戻すのか。諦めよ」
そう兼続は諭すのだが、平行線。最後は、兼続自ら玄関にまで出て説得。それでも、言い分は変わらず。
ならば、と。
そこまでいうなら、と。
兼続はとうとう、最後の手段へ。「閻魔王」の出番である。
直江兼続は、家臣の森山舎人(とねり)に高札を作らせたのち、遺族の3人である兄、伯父、甥に対して申し渡しをする。
「このうえは仕方がない。なんとしてでも呼び返してやろう。ただ残念ながら冥途(めいど)まで呼び返しにやる者がいない。大儀であるが、その者の兄と伯父と甥との三人に閻魔の庁へ行かせ、その者を受け取りにいくようにいたせ」
(同上より一部抜粋)
「えっ?」(by兄)
「ええっ?」(by伯父)
「ええええええええっー」(by甥)
きっと、聞いている遺族の3人はこんな感じだろうか。
まさかの結末。彼らは捕らえられ、閻魔王様宛の手紙を持たされて。
なんと、三人揃って首を刎ねられたという。
もう、遺族からすれば、あとの祭りである。こればかりは、彼らも一線を越えてしまったと悔やむばかりだろう。いうなれば、引き際を見誤ったのである。
それにしても、ううむと唸ってしまうオチである。成敗された遺族の3人には大変申し訳ないが、なるほど、そうくるかと、思わず膝をポンと打ってしまうほど。善悪の価値判断はひとまず置いておくとして。とにかく、直江兼続という人は、相当、思考が柔軟で頭がキレたのだろう。
なお、立てられた高札には以下のような文面が書かれていたのだとか。
「いまだご面謁の機をえませんが一筆相認めます。実は上杉家の家臣三宝寺勝蔵の家来にて何某と申す者、思わぬことにて死去いたしました。親族ども歎き悲しみ、なんとしても冥界より呼び返してくれよと申しますゆえ、この三人を迎えにつかわします。なにとぞかの死人をお返し下されたく存じます。恐々謹言。
慶長二年二月七日 直江山城守兼続(花押)
閻魔王様
獄卒の面々へもよろしく右の旨ご披露下さい」
(同上より一部抜粋)
確かに頭の回転は早いし、スゴイと思う。ただ、最後の部分が、粋な持っていき方だねって思えそうで……思えない。強烈に印象に残る、後味の悪い映画のよう。正直、少し悪趣味だと感じてしまう。
私の想像だが、このときの直江兼続は絶対、笑っていなかっただろう。大真面目で、彼らに申し渡しをしている場面が想像できる。
半分キレ気味で、「閻魔王に会ってこい」と、背中を押した感じ。
それにしても、閻魔庁ってどこよ?
果たして、無事に彼らは再会できただろうか。
きっと、互いの姿を見て驚きながら、一言。
「直江兼続、お前もか」
参考文献
『1人で100人分の成果を出す軍師の戦略』 皆木和義著 クロスメディア・パブリッシング 2014年4月
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
『戦国武将 逸話の謎と真相』 川口素生著 株式会社学習研究社 2007年8月