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2020.06.29

蔦屋重三郎とは?TSUTAYAの名前の由来になった浮世絵の版元!その人生を追う!

この記事を書いた人

つたじゅう、の名前を聞いたことがあるでしょうか? いえいえ、夏においしい「うな重」ではありません。
蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)、江戸時代の版元であり、プロデューサーの役割も果たしていた、浮世絵におけるキーパーソンです。

現在、レンタルビデオ・書店大手企業の1つである「TSUTAYA」は、創業者の祖父が営んでいた屋号が「蔦屋」だったことに加え、写楽など有名絵師を世に送り出した蔦屋重三郎にあやかって名付けられたともいいます。

蔦屋重三郎の人生を年表で解説!

蔦屋重三郎は、ウォルト・ディズニーのような多才さを発揮した人物でした。

蔦屋重三郎の生涯を、年表形式でご紹介いたします!

蔦屋重三郎 プロフィール

寛延3年1月7日〈1750年2月13日〉 – 寛政9年5月6日〈1797年5月31日〉
浮世絵版元・プロデューサー

第1期 吉原遊廓のなんでも屋から版元に

 ※幼くして吉原喜多川氏の養子となる

1773年(23歳)

・吉原細見(よしわらさいけん:遊郭のガイドブック)の販売権獲得(軒先を借りての販売)。このころ吉原細見の出版は鱗形屋(うろこがたや)の独占状態

1774年(24歳)

・平賀源内が吉原細見の序文を書く

1775年(25歳)

・鱗形屋出版の恋川春町(こいかわはるまち)『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』が空前の大ヒット。黄表紙誕生
・鱗形屋海賊版出版で罰金刑
・版元として吉原細見をユーザー目線に改革(価格破壊、値段別、ランク別、場所別ガイド)。序文を有名作家に書かせる(吉原細見のブランディング、有名作家との人脈づくり)。吉原細見を年二回刊行するとともに自社出版物の宣伝機能を持たせる

1776年(26歳)

・「青楼美人合姿鏡(せいろうびじんあわせすがたかがみ)」 出版 北尾重政、勝川春章

1777年頃(27歳頃)

・独自の店舗を構える
 ※錦絵の出版は27、8歳で一旦終了、本格的な出版再開は37、8歳頃
 ※廓内の流通網を掌握

1780年頃(30歳)

・鱗形屋消滅

第2期 ビジネスを拡大し一般書の版元に

1780年頃(30歳頃)

・吉原細見の出版権販売権独占によりビジネス拡大(独占は33歳頃から)
・浄瑠璃の正本(しょうほん:詞章の本)出版(27、8歳頃からスタートか?細見も正本も定期刊行物)
 ※吉原細見と正本を結びつけた(浄瑠璃に遊女の名前を織り込む)
・朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)を起用して黄表紙(大人向け小説)出版スタート
・教育書(往来物。スタートは黄表紙出版と同年。黄表紙も往来物も地本[じほん:作られた土地でのみ流通する本]問屋が中心に商う)と流行小説出版(黄表紙:大人向けの絵入り小説)。往来物は長期出版が可能な優秀コンテンツだった
 ※吉原が最先端コンテンツの発信地として機能

1781年(31歳頃)

 ※狂歌ブームが巻き起こる(1783年頃ピークを迎える)
・当時流行の最先端だった狂歌の世界に身を投じる(狂歌名:蔦唐丸[つたのからまる])
・黄表紙や洒落本(しゃれぼん)出版をハブに武士、町人など身分を超えた知のサロンをつくる。朋誠堂喜三二、大田南畝(狂名:四方赤良[よものあから])、喜多川歌麿、山東京伝など

1783年(33歳)

・日本橋に移転(流通網と製作関係の権利を購入?)

第3期 狂歌本や黄表紙で大ベストセラーを連発

1783年(33歳)

・「万戴狂歌集」(まんざいきょうかしゅう:「千載和歌集[せんざいわかしゅう]」をなぞる部立て)出版
・ピークに達していた狂歌の会で詠まれた歌の出版スタート(狂歌はそれまで詠み捨てだった)
・出版という場を狂歌に提供(出版という舞台で道化師を演じる狂歌師)
 ※出版や狂歌の会を軸に狂歌師、戯作者、歌舞伎役者がつながる(舞台は吉原)

1785年(35歳)

・狂歌本や洒落本、戯作(げさく)で大ベストセラーを次々出版。洒落本を完全に日なたのものに
・山東京伝の洒落本や黄表紙を独占的に出版
・吉原本、草双紙、洒落本の流通網を一本化する
 ※大田南畝狂歌の質の低下を嘆く

1786年(36歳)

 ※田沼意次失脚

1787年(37歳)

 ※寛政の改革による出版規制はじまる
 ※江戸が倹約ムードに包まれ吉原が不況に
 ※大田南畝が狂歌から退場
 ※武士作家が次々と戯作から退場

1788年(38歳)

・歌麿(35歳くらい?)を流行絵師に育て狂歌に絵をつけ話題に(読者から狂歌を募集)。「画本虫撰(えほんむしえらみ)」「潮干のつと(しおいのつと)」「百千鳥狂歌合(ももちどりきょうかうたあわせ)」。歌麿の真価を狂歌絵本に見る専門家は多い
・狂歌本の出版体制が版元主導に変わる
・このころ錦絵の出版に本格参入
・歌麿の春画「歌まくら」

1788年(38歳)

・田沼意次失脚など政治風刺黄表紙が大ヒット(製本する時間がないため紙と糸がばらばらのまま小売に運ばれた。人口100万人の江戸で1万5千〜2万部売れた)

1790年(40歳)

・歌麿の美人画大首絵(人物の上半身や顔を大きく描いた浮世絵)が大ヒット

1791年(41歳)

・洒落本の出版点数20点

第4期 浮世絵出版と流通革命

※(第3期より)松平定信による寛政の改革で出版取締

1791年(41歳)

・山東京伝の洒落本出版により財産一部没収(山東京伝は手鎖50日の刑)。資本力低下
・書物(かきもの)問屋加入(草双紙不況、学問ブームと全国への流通網獲得)
 ※書物と地本の違いは単行本と雑誌の違いにちょっと似ている

1793年(43歳)

 ※浮世絵界の美人画ブームがピークに
・相撲絵、役者絵に進出(勝川派起用)

1794年(44歳)

・写楽の大首絵出版

1795年(45歳)

・本居宣長を訪問し「手まくら」江戸売出版。本居宣長は蔦重より20歳年上
・草紙・書物類の全国展開を図る

1797年(47歳)

・死去
 ※若手作家(曲亭馬琴、十返舎一九など)の大成

アイキャッチ画像:「亀山人家妖(きさんじんいえのばけもの)」 朋誠堂喜三二 (ほうせいどうきさんじ)作 蔦屋重三郎 天明7 (1787)年 国立国会図書館デジタルコレクション 蔦屋重三郎が喜三二に正月の挨拶で来年の正月の絵本を依頼するシーン。

書いた人

人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。