人を好きになる瞬間。それは後付け(あとづけ)だ。
「気になる」から「好きかも」。いや、「好きなんだ」と認めざるを得ない、この敗北感。そして、この通過儀礼を経て、ようやく検証作業に入るワケである。アタシは、一体どこで惚れちまったんだ、と。
だから、相手に惚れた理由というのは、自然と後付けになる。2人の間に横たわる事実から、説明可能な内容と共感必至のエピソードを探すのだ。それは、周囲から好印象を受けるようなものであれば、なおよいだろう。
そういう意味では、これからご紹介するパターンは、完璧かも。
肥前佐賀藩租の鍋島直茂(なべしまなおしげ)と、そのお相手である陽泰院(ようたいいん)の夫婦である。
2人の馴れ初めは、なんと「鰯(いわし)」。
それでは、バツイチ婚で幸せをつかんだ2人を、早速、ご紹介しよう。
鰯(いわし)を焼く姿に惚れました……
人の出会いほど、不思議なものはない。
結婚相手を探すために、相談所に入会する。アプリでマッチングする。知人からの紹介で……。こうみると、出会う方法を挙げればキリがない。そんな「出会い」を、あえて作り出し、自分から掴み取るのも1つ。
一方で。
全くの不用心という場合も。出会いなど求めていない、考えてもいない。出会いを意識しないからこそ、自分の姿を等身大で見せることができる。そして、そんなときこそ、気まぐれに、出会いが向こうからやってくる。
その日。
石井常延(いしいつねのぶ)の娘は、のれんの奥から、屋敷が混乱に陥っている様子を窺(うかが)っていた。この石井常延とは、「肥前の熊」こと龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の家臣である。娘は、一度、隆信の家臣に嫁いだものの、夫が戦死。そのため、実家の石井家に戻っていたのである。
さて、戦国時代初期の九州では、6ヵ国、つまり九州のほぼ2/3を大友宗麟(おおともそうりん)が掌握していた。この大友氏の力を借りたのが、肥前国(佐賀県と長崎県の一部)の龍造寺隆信。大友氏の支援を受け、少弐(しょうに)氏を撃破。次第に力をつけ台頭しつつあった。
戦乱の世、本州で起こった下剋上の波は、九州にも押し寄せる。少しずつだが、九州の勢力図に、微妙な変化が起き始めるのである。九州南部では、一度は弱体化した島津家が再興する兆しが。また、龍造寺隆信も、大友氏の支配下から脱しようと画策。
この動きに対して。
永禄12(1569)年、大友宗麟は龍造寺隆信の討伐命令を出す。これにより、数万の大軍が肥前国に侵攻。大友軍は佐賀城を取り巻いての持久戦を展開。
一方、龍造寺軍は、時に城から出てゲリラ戦を仕掛けていた。親の再婚により、龍造寺隆信の義理の弟となった鍋島直茂(当時は信昌)も同じく。そして、この日、直茂は多くの兵と共に、ゲリラ戦の帰りに、この石井の屋敷に立ち寄ったのである。
なんでも、立ち寄った理由は、大勢の兵が昼食を取るためだとか。メニューは「鰯(いわし)」。石井常延は、屋敷の女衆に鰯を焼いて兵らに出すようにと命じる。
現場は大混乱。
鰯がすぐに焼き上がればいいのだが。現在のグリルのように、上下から両面焼きとはいかない。七輪で焼き始めたものの、一向に焼けないのは、コレ、当たり前。それなのに、立ち寄る兵は多いし、さらには、腹まですかせている有様。
次第に、女衆の焦りは増幅される。気だけ急いて、早く焼けるようにとうちわで仰いでみたりする。けれども、煙だけがもくもくと天高く伸びるだけで、やはり焼き上がらない。これを見て余計にうろたえる女衆。さすれば、手元も狂うことに。もう、悪循環の連鎖である。
この状況を見て、とうとう奥から出てきたのが、石井常延の娘。
そのときの様子が『葉隠(はがくれ)』に記されている。
「陽泰院様のれんの陰より御覧なされ候が、つと御出で、大かまどの下の火を掻き出し、鰯籠(いわしかご)を打移し、大団扇にてあふぎ立て、箕(ふるい)にかすり込み、炭をひ出し、そのまま差し出され候」
(吉永正春著『九州戦国時代の女たち』より一部抜粋)
もともと手際の良い女性なのだと思う。
あまりにも兵が多すぎる。これでは、鰯を丁寧に1匹ずつ焼いても間に合わない。そのため、一気に焼き上げる方法を考えなければ。パッと見て、そう、状況判断したのだろう。
石井常延の娘が最初に行ったのは、火の調節。
まず、かまどの火を土間に掻き出させ、火を広げさせたのである。こうして、鰯を焼く面積を大幅に確保。その上に鰯を置いて、直焼きを断行。大団扇(うちわ)で仰いで、一気に焼き上げたのち。鰯についている灰を振るい落として、食膳に出したのである。
これで、多くの兵らが昼食にありつけたのであった。
なるほど。非常に合理的なやり方。そして、冷静な状況判断は見事といえる。
さて、このような鰯の焼き方について。見ている人は様々な感想を持つことだろう。
賢い人だ。
手際の良い人だ。
大胆な人だ。
機転の利く人だ。
そして、のちに佐賀藩初代藩主となる、鍋島直茂はというと。
素敵すぎる。
ようは、惚れたのである。
『葉隠』には、端的にこのように記されている。
「直茂公御覧なされ、『あの様に働きたる女房を持ちたし』と思召され、その後御かよひなされ候」
(同上より一部抜粋)
当時の鍋島直茂は32歳。石井常延の娘は29歳。
直茂は、どうやら「娘」に一目惚れ。いや、「娘の働きぶり」に一目惚れとなるのだろうか。その思いは募り、火傷必至の煮えたぎるような情熱を胸に抱くまでに。健気にも、直茂は娘のもとへと毎夜通う日々。なんなら、屋敷の者に「盗人」と間違われて、足の裏を斬られる怪我まで負っても、なお諦めず。
こうした努力の甲斐あって、ようやく2人の恋は実を結ぶ。
鍋島直茂は、晴れて石井常延の娘を継室(後妻の正室)として迎えるのである。この娘こそ、のちの「陽泰院(ようたいいん)」、その人である。
戦国時代に多い政略結婚ではなく、2人は自由恋愛のバツイチ婚。非常に熱々な夫婦として有名で、結婚生活はじつに49年にもなったというからスゴイ。晩年も夫婦円満は変わらず、直茂はいつでも「かか、かかあ」と呼んでいたのだとか。全てのことを相談するほど、信頼し、仲睦まじかった2人であった。
夫婦最大の危機。秀吉の誘惑はツッパリで封印!
2人の結婚生活は、順風満帆といって良いだろう。
しかし、じつは、一度だけ。彼らに夫婦最大の危機が訪れる。
それは、もちろん。何がどうしたと、非常に気になるところ。だって、こんなにも仲良い夫婦に危機だなんて。ただ、解説すると。彼らがどうしたという話ではない。ほぼメインは、外野(がいや)。第三者が関わる問題なのだ。
はて、外野?
誰だ。人の恋路を邪魔するヤツは?
そう。こんなおしどり夫婦の前に立ちはだかったのは、もちろん、このお方。
豊臣秀吉である。
ある程度の事情は、これだけで察するところ。
だって、あの秀吉だもの。「色」に関する話では、右に出る者はいないだろう。その好色ぶりは、イエズス会宣教師、ルイス・フロイスに言わせれば「卑劣で下品」「獣より劣ったもの」だとか。
それにしても、どうして、ここにきて豊臣秀吉なのか。非常に疑問である。鍋島直茂は、秀吉に高く評価されており、龍造寺隆信の死後は、龍造寺家から分離して大名に任じられたほど。また、距離も決して近いワケではない。だからこそ、不思議でならない。
そういえば、九州……。
秀吉は、一時期、名護屋城(佐賀県唐津市)に滞在していたことがあったではないか。あの悪名高き秀吉の政策の1つ。「朝鮮出兵」に際してのこと。じつは、秀吉は、朝鮮出兵の前半戦「文禄の役」の頃、名護屋城へと移動していた。
そして、ここで運悪く秀吉に呼ばれたのが、陽泰院。
もちろん、夫の直茂は留守。海を渡り遥か異国の地で、必死に戦っている。そんなさなかに、陽泰院は、秀吉から名護屋城へと招かれたのであった。ちなみに、陽泰院だけではない。夫が留守中の、九州の大名の奥方らも同じくご指名。彼女らも、秀吉のお招きを受けて苦渋の選択を迫られることに。
なんといっても、秀吉の好色ぶりは、九州でも有名。正直、妻の立場からすれば、これは辛い。辛すぎる。現代では社内に設置されているセクハラ相談室など、もちろん当時は存在しない。自分の貞操は自分で守らねばならないのだ。かといって、下手な対応をすれば、夫の身に危険が及ぶ。このバランス感覚は非常に大事だ。やんわりと、それでいて毅然とかわすことが重要となる。
陽泰院は必死で考えた。
まずは、一度断ってみよう。なんだかんだ理由をつけて、分からないように。うまく逃れられれば、それに越したことはない。こうして、陽泰院は、秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の側近である孝蔵主(こうぞうす)を介して、丁重にお断りの連絡を入れるのである。
しかし、そんなことでは折れない秀吉。
陽泰院がもっとも恐れていたことが現実に。孝蔵主より、再度、お目通りの催促がきたのである。
嗚呼。
そこで、陽泰院は、またもや考える。
秀吉から逃れることはできない。ことにかく、一度は秀吉の前に出なければいけないと、これではっきりした。そうであるなら、あとは……。
陽泰院は、これでもかと、考える。
アレ……か?
そうだ、アレだ。アレしかない。
こうして、陽泰院は準備を念入りに施し、覚悟を決めた。
そして、毅然とした態度で、秀吉にお目通りしたのである。
さて、陽泰院の準備とは。
なんと、「ツッパリ仕様の剃り込み」。剃り上げたのである。
『葉隠』には、このときの様子が記されている。
「御額(おんひたい)角(かく)にお作り異形の御面相にて御出でお目見えなされ候」
(同上より一部抜粋)
どうやら、額の端に剃り込みを入れ、正面から見れば四角となる面相にしたのだという。「異形の面相」とは、どのような顔に仕上がったのか。純粋に興味が沸く。
それにしても、じつに、陽泰院という女性は賢い人である。自分の外見、評判などは二の次。どんなに笑われようと、ドン引きされようと、秀吉に気に入られないことが優先事項だと考えたのだ。そして、講じた策は「異形の面相」だったのである。
こうして、鍋島直茂と陽泰院の2人は、無事に、夫婦最大の危機を乗り切ったのであった。
なお、後日談として。
豊臣秀吉からのお招きは、二度と陽泰院のところへは来ず。
さらに、この珍事以降、留守中の奥方のお目通りも自粛されたという。
何年前だろうか。いつぞや、流行った曲に、こんなタイトルのものがあった。
「愛は勝つ」
2人の愛は、まさしく勝ったのである。
こんな素敵な夫婦になる2人だが、出会いは予期せぬもの。まさか、あの「鰯」がキューピッド役だなんて。
出会いたいと思っても、なかなか出会えない。出会いなど思ってもみないところで、出会ってしまう。
そう考えれば。
「出会い」とは、結構、あまのじゃくなのかも。
参考文献
『戦国の城と59人の姫たち』 濱口和久著 並木書房 2016年12月
『戦国を生きた姫君たち』 火坂将志著 株式会社角川 2015年9月
『九州戦国時代の女たち』 吉永正春著 海鳥社 2010年12月
『完訳フロイス日本史5』 ルイス・フロイス 中央公論新社 2000年5月