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2020.07.18

織田信長の娘婿、中川秀政の謎!朝鮮出兵での死因がなんで「鷹狩り」?その理由を探る!

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たかをくくって気を許し、注意を怠ることを「油断」という。

語源については、幾つか説があるのだとか。
その1つが「北本涅槃経(ねはんきょう)」の油鉢を巡る話から生まれたという説。王が臣下に油を持たせて、一滴でも落とせば命を断つといわれた話がベースとなっている。

他にも、比叡山延暦寺根本中堂(滋賀県)に灯される法灯という説もある。開祖最澄の頃から消さないように油を足し続けている法灯。この油が断たれることが無いよう戒めたことに由来しているのだとか。

どちらにせよ、注意を怠ればロクなことがない。油を落とせば命が断たれ、はたまた、油をつぎ足し忘れればこれまでの伝統が無に帰す。なんとも非常に辛い二択である。そんな目に陥ることがないようにと「油断」という言葉が生まれたにもかかわらず。

あっさりと注意を怠った人物がいる。
今回は、そんな「油断」から、本当にイタイ経験をした戦国武将をご紹介。

織田信長の娘婿で、25歳の若さで亡くなった「中川秀政(ひでまさ)」である。

彼は、どのような油断をしてしまったのか。早速、紹介していこう。

中川秀政って一体何者?

まず、今回の主人公である「中川秀政」について。

とかく資料が少なすぎるこの人物。正直、文献探しに苦労した。というのも、享年25歳という短い人生だったからなのか。それとも、岳父(義父のこと)の織田信長が謀反に倒れてしまったからなのか。完全に、父の中川清秀(きよひで)の方が有名である。

中川清秀といえば、天正6(1578)年、織田信長の家臣である荒木村重(あらきむらしげ)が起こした謀反の際に、信長側についた武将である。『信長公記』では、このように記されている。

「敵方茨木の城には、石田伊予・渡辺勘大夫・中川清秀の三人が立て籠っていた。十一月二十四日夜半、中川清秀が味方に転じ、織田方の軍勢を引き入れて、石田・渡辺の手勢を追放した」
(太田牛一著『信長公記』より一部抜粋)

これにより、同年11月26日に信長より黄金三十枚が贈られている。併せて、中川清秀は、11月27日に信長の陣へ挨拶に参上した。この際にも、織田家一族より好待遇を受けている。

「信長からは太刀および馬と馬具一式を拝領した。信忠(嫡男)から長船(おさふね)長光作の刀と馬、信雄(次男)から秘蔵の馬、信孝(三男)からも馬、信澄(信長の弟である信行の子、甥)から刀をそれぞれ頂戴し、中川はありがたいことと感激して帰った」
(同上より一部抜粋)

一説には、この功もあってのこと。信長は、十女(諸説あり)である鶴姫の婿に、清秀の嫡男である秀政(ひでまさ)を迎えたという。

天正6(1578)年の当時で、秀政は10歳。正室の鶴姫は12歳だったとか。どうやら姉さん女房だったようだ。それにしても、信長はある程度目を付けた人物に自分の娘を娶らせている。蒲生氏郷(がもうじさと)には冬姫を、前田利長(利家の嫡男)には永姫を。つまり、中川秀政も利発な人物だったことがうかがい知れる。

織田信長像

その後、中川清秀は、信長の下で幾つかの戦に参戦。武功を重ねる前に、その信長が、天正10(1582)年に「本能寺の変」で自刃。さぞや弔い合戦では、派手に活躍したであろうかと思いきや、まんまと豊臣秀吉に騙されてしまう。

もともと、清秀は荒木村重を見切って信長に走った男。つまり、目先の利益に目がくらむタイプなのだ。そのため、本能寺の変で信長自刃となれば、いくら嫡男の秀政が織田信長の娘婿であったとしても、その後の行動は読めなくなる。下手すれば、明智光秀に有利な条件で口説かれて、なびく可能性も。

そんな危険性を排除すべく。秀吉は虚偽の内容の手紙を中川清秀に送っている。日付は天正10(1582)年6月5日。

「さて、ただ今京より下ってきた者が確かに言った。上様(織田信長)ならびに殿様(信長の嫡男・信忠)、いずれもなんのお障りもなく明智光秀による襲撃から切り抜けなされた…(中略)…上様・殿様は何事もないとのことで、まずもってめでたく思っている」
(吉本健二著『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』より一部抜粋)

それにしても、さすが秀吉。「織田信長が生存」などと、大層なガセ情報を堂々と発信したものである。明智光秀になびかないように、また弔い合戦の先を越されないようにとの思いもあったのだろう。結果的に、中川清秀は、中国大返しで戻ってきた秀吉と合流。明智光秀と戦った「山崎合戦」では先鋒を務めるに至っている。

その後、信長の次期ポストを争った豊臣秀吉と柴田勝家(かついえ)。天正11(1583)年に両者が激突した、かの有名な「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」に、父の中川清秀は秀吉側として参戦。両軍が膠着状態に陥り、秀吉は岐阜城攻めへと向かう。この隙をついて、勝家側の佐久間盛政(さくまもりまさ)は、大岩山を攻めることに。当時、この大岩山を守っていたのが父の中川清秀。多勢に攻め込まれ、死闘を繰り広げるが最期は力尽きることに。残念ながら討死であった。「賤ヶ岳の戦い」自体は、秀吉が勝利したが、参戦した清秀は戦死となったのである。

父の死により、嫡男の秀政は、家督を継ぐ。こうして、秀政は若干15歳という若さで、摂津茨木城主(大阪府)となったのである。

今も謎?朝鮮出兵での鷹狩りの理由は何だったのか?

中川秀政は、その後も豊臣秀吉に仕え、着々と武功を挙げる。天正12(1584)年の「小牧・長久手の戦い」、天正13(1585)年の四国攻めなどである。同年、秀政は6万6,000石を与えられ、播磨三木城(兵庫県三木市)の城主となる。秀政、御年17歳。

やはり、父の中川清秀を討死させたからか。秀吉は、変なところで義理堅かったりする。こうして、秀政はトントン拍子に出世していくのである。その後も、九州討伐、小田原攻めと参加。ある意味、順調な滑り出しだといえよう。

さて、そんな秀政に運命の転機が訪れるのが、秀吉の最大の愚策ともいわれる「朝鮮出兵」である。「文禄・慶長の役」ともいわれ、秀吉が2回に渡って戦国武将らを朝鮮半島へ派兵した戦いである。

文禄元(1592)年から始まる「文禄の役」では、秀政は先発ではなかったが、3,000人の兵を率いて渡海。向かった先は「水原(スウオン)」。ちょうど京城(ソウル)から南に約30キロメートルのところにある京畿道(キョンギド)の都市である。

この「水原」に城砦(じょうさい)を構築して、戦いに備えていたという。当初は、各地で日本軍が撃破して戦況も好調だったが、文禄2(1593)年になると、次第に膠着状態に。

というのも、渡海したのは名だたる戦国武将たち。それぞれが担当したエリアで勝利し進軍するも、結果的に戦線が南北に伸び過ぎてしまう。つまり、兵站が確保できない状態となったのである。地形的にも把握しづらく、その上、現地での食料調達も難しい。敵勢の反撃もさることながら、民衆などの蜂起も頻発。そのため膠着状態に陥り、なかなか状況も打開できないまま。

そこで、中川秀政が取った行動は……。

驚くことに、なんと敵地の「水原」で、鷹狩りを始めたのである。

鷹狩りとは、戦国武将のアウトドアの娯楽の一つ。鷹を狩るのではなく、正確には「鷹を使って獲物を狩る」というものである。

ここで、1つの疑問が。
どうして、中川秀政は、あえて戦場で鷹狩りをしたのかというコト。

これには、幾つか説がある。
まずは、単なる暇つぶしで鷹狩りを行ったというもの。暇つぶしといえば、聞こえが悪いのだが。要は、戦況が膠着状態となれば、兵の士気も下がる。一方で、鷹狩りは娯楽といえど、戦の実践訓練になり、気分転換もできる。織田信長が鷹狩りで、情報伝達の指揮系統の確認をしていたのも有名な話。そういう意味では、大いに可能性のある説だといえよう。

ただ、戦況が一向に進まないといっても、目を開ければ、そこはリアルな戦場なのだ。特に、今回の戦場は異国の地。地形も詳しくはないはず。少ない人数での移動もある鷹狩りを行うには、あまりにも不注意すぎる。そこまで考えが至らなかったとは想像しにくい。

他にも、食料調達のために行ったという説もある。
当時、兵站の確保が難しく、多くの兵らが厳しい状況に追い込まれていた。戦が長引くほど、食料確保は避けられない問題だ。これを解決しようとして、秀政は鷹狩りをしたというのである。確かに、鷹狩りであれば、鳥や小動物などの獲物を狩ることも可能。戦場で危険を冒してまで、あえて鷹狩りを行う。それには、切羽詰まった事情があるはず。こう信じたいのも分からないでもない。特に、中川氏の城下町である大分県竹田市民には、このように受け入れられているのだとか。

どちらにせよ。
これで、無事に帰って来れば、鷹狩りをしても何の問題もなかったのだが。
残念なことに、秀政は帰れなかったのである。

奇しくも、文禄2(1593)年10月24日(諸説あり)。この鷹狩りの途中に伏兵に急襲され、横死(殺害や災禍で死ぬこと。不慮の死。非業の死)。享年25歳。

本来ならば、亡くなるにしても、異国の地で、華々しく敵勢と戦って散る。討死だと誰もが思うであろう。それが、戦の途中での鷹狩り。それも、待ち伏せ食らって命を落としたとあって、前代未聞。非常に取り扱いに困ったケースだったという。

なかでも、一番、慌てふためいたのは、残された者たちだろう。
同じ死でも、「討死」と「横死」では、全く違う。場合によっては、家督の相続が許されない場合も。中川秀政の重臣らはこのような処分を恐れ、陣中を巡視している途中で襲撃されて戦死したと報告(病死と報告した説もあり)したという。

文禄2(1593)年12月6日付けの秀吉朱印状には、このような記録が。

「中川右衛門大夫(秀政)事、今度無人ニ、而、番所見及ニ罷出、待伏ニ逢、手負相果候通」
(参謀本部編『日本戦史. 朝鮮役 (文書・補伝)』より一部抜粋)

どうやら、見回り中に待ち伏せにあったとの記録となっている。

ただ、のちに虚偽の報告内容だと発覚。秀吉は、もちろん激怒。
そりゃ、陣中の見回りであっても、どうしてそんな少人数で行ったのか、となるワケで。誰しもが疑問に思うもの。いうなれば、ウソは必ずバレるということだろうか。

本来ならば、このような状況では、相続できずに取り潰しになるのが一般的。だが、秀吉には中川家に借りがあった。

そう、あの「賤ヶ岳の戦い」である。
中川清秀は、秀吉不在のところを攻められて討死。その責任を感じていたのだろうか。例外的な措置で、石高は半減したものの、秀政の弟、中川秀成(ひでしげ)が無事に家督を相続。ただ、播磨三木からの転封はやむを得ず。豊後岡(大分県竹田市)にて初代藩主となったのである。

最後に。
なんせ、一番驚いたのは、本人だろう。ちょっとした油断が、こんな形で返ってくるなんて。
「終わりよければ全て良し」。この言葉が、全てを物語るとはいわないが。やはり、人生の最期は大切なんだと改めて思う。

今となっては、知る由もない鷹狩りの理由。
本人のみぞ知るというところだろうか。

じつは、朝鮮出兵の際に、中川秀政は豊臣秀吉とある約束をしているのだとか。
武功を上げた際には、さらに一国を加増すると。口約束ではあったが、秀吉は期待をしていたのだろう。だからこそ、秀政の死に対して、そこまで怒りの感情を見せたのである。

どのようにして、秀政が死に至ったかではない。秀吉にとっては、死因など関係ない。期待していた者の死。「秀政の死」それ自体が許せなかったのではないだろうか。

ちなみに、秀吉は、これに懲りたのか。
中川秀政のようなケース、つまり、不用心での戦死は家督の相続を承認しないと通達したのだとか。

これによって、1人でも武将の死が防げればいい。
そんな秀吉の願いが聞こえるような気がした。

参考文献
『あなたの知らない戦国史』 小林智広編 辰巳出版株式会社 2016年12月
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『完訳フロイス日本史5』 ルイス・フロイス 中央公論新社 2000年5月
『戦国武将 逸話の謎と真相』 川口素生著 株式会社学習研究社 2007年8月
『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』 吉本健二著 学研プラス 2008年5月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。