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Culture
2020.07.22

拙者、太閤様の夢を見た…。加藤清正の夢占い。その深層心理を勝手に徹底分析

この記事を書いた人

夢は厄介だ。
夢ほど、悶々と悩まされるものはない。

一般的にいわれる吉夢や凶夢の類なら、現実に何かが起こるのではとハラハラする。かといって、現実とはほど遠いファンタジー系なら、目が覚めても疲れ果て、寝た気にならない。そんでもって、逆にリアル過ぎる夢ならば、つい、自分の隠れた願望なのではと、勘ぐってしまう。

そんな夢に振り回されるのは、今も昔も大して変わらず。

驚くなかれ。
戦国時代にも、夢を気にした武将がいた。それも、まさか。夢解析の依頼まで、お寺にちゃっかり打診済み。そんな噂の武将こそ、誰であろう、コチラの方。

「地震加藤」で有名な「加藤清正(きよまさ)」である。

なんだか、新鮮な感じ。
だって、清正っていったら「虎退治」のあの猛将。夢なんてと、笑い飛ばしそうな豪胆な戦国武将なのに。そんな繊細な依頼をしていたとは。

さて今回は、そんな加藤清正の心配をよそに。彼の見た夢を、勝手にこちらで徹底分析しようという企画。

たかが夢。されど夢。気になるものは仕方ない。
それでは、早速、「勝手に夢解析ーだいそんの小部屋ー」へご招待しよう。

「地震加藤」の理不尽な朝鮮出兵のこぼれ話

夢分析は、見た夢だけを対象にするかと思いきや。潜在的な意識を掘り出すには、その人個人のこと、要はバックグラウンドを知らなければならない。というのも、生まれた境遇、歩んできた人生、モノの考え方。これらが複雑に混ざり合って、本人の隠れた深層心理が夢という形で表れるというもの。

ということで、まずは加藤清正の人生を、さくっとおさらい。

加藤清正の出自は、豊臣秀吉の親戚筋。どうやら秀吉と清正の母親同士が、従姉妹かもしくは縁者だったという。そのため、清正は幼少より秀吉の小姓となって仕えている。天下取り目前に織田信長が「本能寺の変」で自刃すると、秀吉は家老の柴田勝家と対立。両者の直接対決となった「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」では、清正は七本槍の1人として武功を上げ、3,000石を与えられることに。

その後は、失脚した佐々成政の後任として、肥後国(熊本県)の半国19万5,000石を与えられ、大出世。ただ、朝鮮出兵の際には、和平交渉重視の石田三成や小西行長らと方向性の違いで衝突。清正が自ら「豊臣氏」と名乗って明国に書状を送ったことなどが、三成経由で秀吉に報告されてしまう。

豊臣秀吉像

加藤清正は、秀吉の子飼衆(こがいしゅう)の筆頭格。しかし、そんな家臣歴の長い清正であっても、秀吉は大激怒。清正には、強制帰国、さらには蟄居(ちっきょ、居城や一定の場所での謹慎)の厳い処分が命じられる。ちなみに、この一連の出来事は、清正の「石田三成憎し」という憎悪の出発点となる。いずれは「関ヶ原の戦い」で徳川家康の東軍へと味方する要因となってしまうのだが。ここではいったん、置いておこう。

秀吉の怒りは、なかなか冷めず。帰国しても、秀吉の謁見は許されなかったという。清正からすれば、誤解を解こうにも解けないジレンマに。大好きな秀吉に会うこともできない辛い日々であったとか。しかし、慶長元(1596)年に京都・伏見で大地震が発生。清正は謹慎の身であったが、秀吉を心配するあまり、伏見城へと駆け付ける。

『名将言行録』には、このように記されている。

「ただちに兵卒二百人をしたがえて馳せ参じ、秀吉の警護にあたった。秀吉は夫人とともに地べたに席を設けて座っていたが、清正をみるとその幼名を呼び、『阿虎(おとら)、そちは実に早くやってきたな』といわれたので、清正は進みでて自分の冤罪を訴え、詳しく地図に図示しながら語り、従軍中の働きぶりをのべた」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

翌日、秀吉は清正への怒りを解く。『名将言行録』によれば、秀吉は涙を流して、このように語ったとされている。
「阿虎よ、そちはおむつのころからわしのところで育った。だからこうしてわしに属しているのだ」

この話が元となり、のちに歌舞伎や浄瑠璃、古典落語の題目として「地震加藤」が演じられることに。こうして、意図せずとも爆発的に、清正の認知度は高くなる。清正にとってみれば、有難い話なのか、迷惑な話なのか分からないところではあるのだが。世間では「地震加藤」という言葉は、有名だったようだ。

なお、この逸話だが、残念ながら、じつは史実ではない可能性があるのだとか。というのも、慶長伏見地震の際には、清正は伏見ではなく大坂の方にいたとの別の資料が存在する。そのため「地震加藤」は、後世での創作の可能性が指摘されている。まあ、ある意味、歴史にありがちな顛末ともいえる。

太閤秀吉の夢を見た加藤清正の真意とは?

さて、こんなバックグラウンドを持つ加藤清正を理解できれば。早速、本題へ。

ご紹介したいのが、加藤清正の一通の書状。
書状の宛名は「本妙寺(ほんみょうじ)」。実際にこの書状は現存し、熊本市の日蓮宗本妙寺に所蔵されているという。

この本妙寺、もともとは摂津(大阪府)にあった加藤清正の父の菩提寺である。摂津といえば、清正の初めての所領地でもある。以前はこの場所に建立していたのだが、清正が肥後国の領地を与えられた際に、寺そのものを熊本城内に移したという。それが本妙寺である。

この本妙寺宛てに、清正から出された書状。その内容が、なんと、夢の解析依頼なのだ。

ただ、残念ながら、この書状の明確な日付は不明。ヒントとなるのは、その書状の内容である。豊臣秀吉のことを「太閤様」と表現、内容からみても秀吉死後の可能性が高いとされている。そのため、秀吉が病死した慶長3(1598)年8月18日よりあとに、出されたものと推測される。

それでは早速、清正の夢の紹介から。

「一、太閤様が御座所にあって、御機嫌良く見えました。
 一、陣立のようす―今にも出陣しようとしているように見えました。
 一、一羽の鷹が川へ風に吹き落されたので、私が取り上げ、据えて参上したのを、太閤様は御座所より御覧になって、

『暇がある顔だから、鷹を据えて来たのであろうよ』
と思われた様子に見えたので、私がとりあえず申し上げましたのは、
『一羽の鷹が川に入りまして、苦しんでいるようすなので、あまりのいたわしさに取り上げ、看病してやろうと思いまして据えてまいりました』
ということを申し上げたかと覚えております。

そのほか、死に果てた朋輩も一人や二人は見たように覚えておりますが、いずれも今にも出陣しようとしていた様子に見えました」
吉本健二著『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』 

さて。
簡単に、夢の流れをまずは掴もう。

最初はご機嫌な豊臣秀吉。出陣前の様子。
そこに鷹登場。清正が助けると、秀吉は不機嫌に。で、言い訳を1つ。夢には死んだ戦国武将も出陣しようとしていた。こんな感じだろうか。

最初に注目したいのは「鷹」。
正月に見たい初夢の代表的なものが、「一富士二鷹三茄子(なすび)」。この2番目にランクインしているのが「鷹」である。

雪村周継筆『松鷹図』 東京国立博物館所蔵 出典:ColBase(httpscolbase.nich_.go_.jp

ただ、この順位は駿河国(静岡県)の名物を挙げたとも。そうであれば、鷹は「足高山」のことになる。一方で縁起の良いモノを並べたとも。鷹は「つかみ取る」という意味で縁起が良い。どちらにせよ、「鷹」の登場は、夢的にはそこまで悪くないはず。

ただ、なんとも、この鷹を巡って秀吉に誤解されるというストーリーが頂けない。出陣という場面で鷹を助けようとする心優しき清正。しかし、その行動を「暇」と断罪する秀吉。これに対して、一生懸命、自分の行動の意味を理解してもらおうと弁解する。

あれ?
なんだか、これって、「地震加藤」の流れじゃね?

朝鮮出兵で三成に報告され、そんな意図はなかったと弁解した清正。先ほどの「地震加藤」の話と「丸かぶり」の体をなすのだが。よほど、清正はあの一件に堪(こた)えたのか。秀吉の死後も、こんな夢を見るとは。案外、清正の受けた傷は深かったのかもしれない。

さらに、この夢のポイントは他にもある。
死亡した同輩たち、戦国武将がなおも出陣するというもの。つまり、この場面から秀吉の厳しさが感じ取れる。死んでもラクになれない戦国武将たち。秀吉の家臣となれば、死後も、まだ出陣に駆り出される。逆に死ぬだけでは、軍役から免除されない。それほどの切迫感が感じられる。

なお、この清正の書状の最初には、他にも依頼の内容が。じつは、清正は、ただ夢解析だけを依頼しているワケではない。熱心な日蓮宗徒であった彼は、夢が告げる意味を考える。しかし、分からず、結果的に「三十番神」に祈祷してもらうことをお願いしたのである。死後の秀吉、死んだ戦国武将たち。そんな彼らを思って、祈祷をお願いしたのだろうか。

それでは、お待たせしました。
ここでようやく。
「勝手に夢解析ーだいそんの小部屋ー」の見立てをご披露。

加藤清正の精神状態、深層心理について。
・朝鮮出兵で秀吉に誤解されたトラウマ(PTSD)。
ついでに
・ストレス過多。
この2つが認められる。
(※誤解のないよう。勝手な夢解析です。あしからず)

なぜ、このような見立てとなったのか。
全ては。
加藤清正の「妄想」だからである。

というのも、清正が鷹を助けることに対して、秀吉は実際に文句を言っていない。そんな文句がありそうな不満な様子に「見えた」のだ。完全に被害妄想である。これが、事の真相の全てを物語っている。一度、誤解をされれば、全てが疑わしく見える。清正は、そんな「猜疑心の塊地獄」へとはまってしまったのである。

おススメは、安息と休養。
そして「時間」である。気長に、時が過ぎるのを待つしかない。

最後に。
以前、実家で買っていた我が家の愛犬「ゴン」の話。一度、彼は庭で蜂に刺されたことがある。動くからちょっかいをかけたのだろう。その後、トラウマが暫く消えず。思い出したかのように、後ろを振り返り、くうーんと鳴く。まるで、蜂の攻撃から身を守るように。かなりの頻度で、夜中でも鳴いていた。

しかし、日が経ち、それも次第になくなっていった。
全ては、時間が解決してくれたのである。

「時間」とは神からの素晴らしい贈り物。
唯一、全ての者に平等で、それでいて、ゆっくりと心の傷を癒してくれる。

やはり、「時間」は偉大であったのだ。

参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『戦国武将と名城 知略と縄と呪いの秘話』 向井健祐編 株式会社晋遊舎 2012年7月
歴史道『その漢、石田三成の真実』 大谷荘太郎編 朝日新聞出版 2019年6月
『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』 吉本健二著 学研プラス 2008年5月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。