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2020.08.25

栄光から転落へ。大事件で13年間身の潔白を主張し続けた徳川家康の側近、本多正純の人生

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相手の隙をついて失敗させることを、俗に「足をすくわれる」という。

あれ?
それって「足元をすくわれる」じゃないのと思った方。ちなみに、その言葉は誤用です。平成28(2016)年度の文化庁の調査では、約6割の人が、間違って「足元をすくわれる」と思い込んでいるのだとか。

そもそも、「すくう」を漢字にすれば「掬う」に。これには「払う」や「払いのける」の意味がある。つまり、足を払いのけられて支えを失う様子を指して、このような表現になったというのである。

さて、歴史上、足をすくわれた方は数知れず。
今回取り上げる方も、本当に足を払いのけられ、中途半端に起き上がるくらいならと、そのまま転ぶことを選んだ人物。後世では、徳川家康の謀臣と伝えられている「本多正純(ほんだまさずみ)」である。

徳川家康の側近として、親子で家康から信頼されていたというのに。なぜか最後は横田城(秋田県)の一角で不遇のまま晩年を過ごす。

栄光から転落へ。
どうして、彼の人生は、下り坂を一気に転がり落ちることになったのか。様々な思惑が重なった一連の流れを紹介しよう。

冒頭の画像は「東京開化名勝ノ[内]」「徳川秀忠公」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります

あの宇都宮城に釣天井は存在しなかった?

天下人となった徳川家康が築いた江戸幕府。その礎をより盤石にしたのが、2代将軍の秀忠(ひでただ)、3代将軍の家光(いえみつ)である。

家康は、まず慶長5(1600)年の「関ヶ原の戦い」で、敵方の西軍についた多くの戦国大名らの改易(かいえき)を行った。改易とは、武士の身分を剥奪し、家禄や屋敷、領地などを没収する処分のこと。この戦後処理で改易となった大名は88名。領地替えである転封なども含め没収した石高は、632万4194石だという。なんともえげつない粛正である。

これにとどまらず。
家康には、どうしても決着をつけねばならぬ相手がいた。それが、前の天下人、豊臣秀吉の遺児である秀頼(ひでより)。先代が亡くなったあとの豊臣家の崩壊を目の当たりにし、二の舞は踏むものかと心に誓ったのだろう。自身が存命している間に、徳川家最大の脅威ともいえる豊臣方を「大坂の陣」で滅亡させたのである。

ただ、これで全て決着がついたというワケでもない。
じつは、転封(領地を替えること)させても、まだまだ力ある戦国大名らは生き残っていたのである。たとえ「関ヶ原の戦い」で東軍に与したとしても、心から家康に忠誠を誓った者もいれば、そうでない者も。特に、豊臣恩顧の大名ら。彼らは、単に、石田三成が憎いという事情の下、消去法で東軍に参戦した。

そんな彼らを、バッタバッタと理由をつけ、「改易」にしてなぎ倒したのが、2代秀忠、3代家光の治世の頃。ちなみに、既に天下統一が果たされた当時は、戦後処理を理由とする改易ができない。

では、どうしたのか。
元和元(1615)年に制定された「一国一城令」や「武家諸法度(ぶけしょはっと)」。これらに対する法令違反を理由に、処分を行ったのである。なお、2代秀忠の治世では、実弟の松平忠輝(まつだいらただてる)を筆頭に、41家を改易としている。家康よりも冷酷さが増す将軍である。

さて、そのうちの1つ。
父・本多正信(ほんだまさのぶ)と共に家康の側近であり、家康死後も、重臣として権勢を誇っていた本多正純(ほんだまさずみ)。

驚くことに、彼も改易処分に。

理由は、居城である宇都宮城(栃木県)の無断修理である。他にも鉄砲の秘密製造など、多くの嫌疑がかけられてのこと。

宇都宮城

一体、この嫌疑がどこで変化したのやら。
宇都宮城に宿泊予定だった2代将軍秀忠の寝室に、釣天井(つりてんじょう)を仕掛けたのでは、なんて話も。天井を落として、恐れ多くも将軍・秀忠を圧死させる目論見(もくろみ)だというのである。真偽はどうであれ、内容が内容なだけに、世間の注目の的に。

当時、本多正純は江戸幕府の「老中」の役職に就いていた。つまり、幕政の中心人物であり、それも「超大物」。そんな正純が、まさかの改易処分となるワケで。これまで言い渡す側だったはずが、一夜にして処分を受ける側となるのだ。この凋落ぶり。他人の不幸は蜜の味的な興味を抱かせるのは、仕方のないコト。

この改易騒動は、のちに、「宇都宮釣天井(うつのみやつりてんじょう)事件」と呼ばれ、一大スキャンダルとなる。講談や歌舞伎の演目にもなるほどの盛り上がりよう。結果、多くの尾ひれがつく始末。なかには、釣天井を細工した大工が殺されたなど、とんでもない話に発展したモノも。世間の関心は、想像以上に大きく膨らんでしまったのである。

本多正信・正純父子の栄枯盛衰

ここで、嫌疑をかけられた本多正純に話を戻そう。
徳川家康の家臣団といえば、忠義に厚く結束が固い。そんな三河(愛知県)武士集団のイメージが強い。俗にいう「徳川四天王」や12武将を加えた「徳川十六神将」など。家康のためなら、決然と命をも惜しまない武将たち。

しかし、一方で、武断派の彼らとは一線を画する家臣らもいた。
文治派と呼ばれ、行政の能力に長けた官僚的な家臣である。その筆頭は、家康から「友」のような扱いを受けていた本多正信(まさのぶ)。今回、失脚する正純の父である。

さて、この正信の生まれた本多家は、家康が「松平」と称していた時代から、代々、鷹匠(たかしょう)として仕えてきた家。ちなみに、鷹匠とは、鷹狩りで使用する鷹の調教のみならず、鷹狩りの際にもお供をする仕事である。

大の鷹狩り好きで有名な家康。正信は、そんな家康よりも4歳年上で、幼い頃から仕えていたという。永禄6(1563)年、のちに「家康の人生の三大危機」の1つとされる「三河一向一揆」が勃発。今川義元から独立を果たしたばかりの家康に対して、一向宗門徒が蜂起したのである。諸説あるも、強引な年貢の徴収が引き金ともいわれている。

家康の家臣の中にも一向宗門徒は多く、この一揆で、なんと家臣団が二分に。
そして、正信はというと。
家康ではなく、一揆側の方へ。じつは、家康に敵対してしまうのである。

年が明け、一揆は収束。家康は、一向一揆側についた家臣らを許すのだが。なぜか正信は、三河を離れ出奔。流浪の身となる。一説には、松永久秀(まつながひさひで)のもとに、しばらく身を寄せていたとも。このときに、どうやら茶の湯などの文化にも触れたと考えられている。

それにしても、正信は、やはり有能な人物だったようだ。松永久秀からも重用され、評価も上々。ただ、長く仕えることなく、松永久秀のもとからも去ったという。その後の正信が、どこで何をしていたかは定かでない。

天正10(1582)年、本能寺の変により、織田信長が自刃。この少し前、家康から正信に対して、帰参の声がかかっていたようである。それを受け、正信が家康の元へと向かうところで、ちょうど、明智光秀の謀反が起きたようだ。

当時、家康は京都や堺を遊覧。畿内にいたため、信長と同様、狙われる危険性があった。血眼になって探す明智光秀軍らの捜索網をかいくぐり、伊賀路(三重県)を抜けて三河(愛知県)へ。この危機は「神君伊賀越え」と呼ばれ、のちに「家康の三大危機」の2つ目となる。実際に、二手に分かれた片方の穴山梅雪(あなやまばいせつ)らは、帰れずに惨殺されている。

この相当厳しい状況のなか、力を発揮したのが本多正信。彼の働きもあり、無事に家康一行は三河へと到着。こうして19年ぶりに、正信は三河へ、そして家康の元へと帰参するのであった。

「家康公肖像」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

帰参後の正信はというと。
徐々に地位を上げ、天正18(1590)年には、関東総奉行に。もともと、有能な人物だったが、適材適所の結果であろうか。実力を発揮できる場所が与えられ、メキメキと頭角を現していく。

時に、本多正信は、「家康の知恵袋」と評されることがある。
家康の意図を正確に理解できるのは、正信より他にはいなかったのだろう。そんな2人の関係性は、信頼以上のモノ。世間で流行った「雁殿、佐渡殿、お六殿」とは、家康のお気に入りを指す言葉である。「雁殿」は鷹匠のコト、「佐渡殿」とは佐渡守、つまり、正信のコト。「お六殿」とは、当時家康の寵愛を受けた側室の名である。

これほどまでに、家康から重用され、世間的にも有名だった本多正信。家康が将軍職を秀忠に譲ったあとも、正信は、江戸に残って幕政を取り仕切ることに。一方、家康は「大御所」として、駿府(静岡県)に移り、引き続き政治を行うのであった。

そして、家康の側近として、共に駿府へと移ったのが。
本多正信の嫡男、正純(まさずみ)。

正純は、家康が駿府で決定した政策を、江戸へと伝える連絡係であった。なお、政策の実行は、もちろん、江戸で秀忠を輔佐しながら幕政を仕切っていた父の正信。離れていても、正信は、家康の意図など完全にお見通しだったとか。

こうして、2代続いて家康に信頼される本多父子。
その絶大な権力ゆえに、周囲からの嫉妬も多かったという。それゆえ、正信は、どれほど加増を持ちかけられても、固辞。断固として、受け取ることはなかった。実際に江戸幕府の中枢として働いた正信だったが、生涯、その石高は2万2,000石。あまりにも少ない家禄といえるだろう。

本多正純をハメたのは一体誰か?

本多父子の権勢に全く納得できないのが、徳川四天王をはじめとする武断派の家臣たち。彼らは「三河一向一揆」でも、一度も裏切ることなく、なんなら宗旨替えまでした者も。その傍ら、正信は一度、家康を裏切っている。さらに、命を張って戦うワケでもないのに好待遇。腹立つ気持ちも分からなくもない。

そんなやっかみを分かってか。
正信は、息子の正純に、必ず加増を持ちかけられても断るようにと忠告をしていたという。ただでさえ、権力があるのだ。だからこそ石高は少なめに。このバランスが非常に重要であった。
「絶対に、3万石を超えてはならぬ」
これが父・正信の教えであった。

しかし、である。
じつは、正純が改易処分を受けた当時の石高はというと、宇都宮15万5,000石。父の忠告も空しく、石高は7倍以上に増えていたのである。そして、法令違反の嫌疑をかけられるまでに。

どうして、このようなことになってしまったのか。

まず、1つに。
正純の絶大なバックであった家康の死、加えて、頭のキレる父・正信もこの世にいなかったことが挙げられる。
元和2(1616)年4月に家康死去。そして、この2か月後、あとを追うように、父の正信もこの世を去る。

家康亡き今、駿府にとどまる理由はない。そのため、本多正純は、江戸へと戻ることに。ここから、2代秀忠に仕えるわけなのだが。なにしろ、秀忠の側近は、既に新しい官僚で占められていた。そして、最大のバックであった家康の力も借りれず。今更戻ったところでという話。正直なところ、江戸にもはや正純の居場所などなかったのである。

この理由以外にも。そもそも、正純は周囲から反感を買っていたということも指摘されている。じつは、嫉妬以上の「恨み」を抱く者も多かったとか。例えば、「加納(かのう)の方」。コチラは、徳川家康の長女、亀姫のことである。ちなみに、彼女は2代将軍秀忠の姉。そして、正純の転封先の宇都宮城の前城主、奥平忠昌(おくだいらただまさ)の祖母でもあった。

ただでさえ、宇都宮城から古河(茨城県)に転封させられるのだが。それだけではない。「加納の方」の四女は、大久保忠隣(ただちか)の息子に嫁いでいた。この大久保忠隣は、本多正信とツートップで、江戸幕府初期の幕政を取り仕切っていた人物。武断派出身で、文治派の正信とは合わず。結果、本多正信の策略で大久保忠隣は失脚。この時の恨みもあってのこと。実際に、宇都宮城が怪しいと密告したのは、「加納の方」といわれている。

これを唆したのが、秀忠の側近となっていた新しい官僚たち。土井利勝や酒井忠世(さかいただよ)などの面々である。彼らも、家康存命の旧体制で活躍した本多正純の存在が、疎ましかったとか。そのため、今回の一連の事件は、彼らの策略だとの見方も強い。

ただ、やはり。
どう画策しても、組織のトップが頷かない限り、こんな結末は迎えられないだろう。

もちろん、忘れてはならないのが、コチラのお方。暗殺計画の被害者でもある、2代将軍「徳川秀忠」、その人である。

「東京開化名勝ノ[内]」「徳川秀忠公」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

だって、そうでしょうよ。
ようやく、やっと。あの偉大な父である家康から解放されたのである。これで、他人の顔色を窺わずに、自分の政治ができると思った矢先。まさか、本多正純が戻ってくるとは。家臣であるのに、一目置かねばならないような人物を、誰が喜んで迎えるだろうか。

じつに、秀忠が推し進めた、豊臣恩顧の大名である福島正則(ふくしままさのり)の改易処分。これに、正純は、真っ向から異を唱えたともいわれている。本多正純の策略で失脚したと思われがちだが、経緯はどうあれ、実際は改易処分に反対していたという。一切臆することなく意見する正純は、秀忠からすれば、相当厄介な存在だったのだろう。

そうして、事件は起こる。
元和8(1622)年。
徳川秀忠は、同年4月17日に日光東照宮への社参を行うことに。父・家康の七回忌ゆえのこと。18日には中禅寺(栃木県)、そして19日に正純の居城である宇都宮城に宿泊する予定となっていた。

だが、急遽、予定を変更。
宇都宮城へは寄らず、壬生(みぶ、栃木県)へルートを変えたのである。宇都宮城の宿泊は取り止めに。これには、加納の方からの密告があったといわれている。釣天井があるとの主張ではないが、「宇都宮城の普請(工事のこと)に不備あり」という内容だったようだ。

このあと、実際に宇都宮城は検分されていることから、密告があったことは事実だろう。もちろん、釣天井は見つからず。いざという時に将軍が脱出する「抜け穴」が見つかっただけ。なんなら、宇都宮城の床が少し高いため「不審の箇条あり」との記述が、釣天井に創作された可能性がある。

なお、正純の方にも落ち度はあった。
宇都宮城へ入封した折、城の修築を行っていたのである。というのも、加納の方が転封するにあたって、城の備品を全て持ち出し、一説には石垣までも壊したからとも。さらに、正純からすれば、2代将軍秀忠が宿泊することも、視野に入れていたのだろうか。

ただ、当時は謀反防止のために、修築するには幕府へ届け出て、その許可が必要であった。これを、正純は他の幕閣の承諾を得たのみで行ったのである。つまり、厳密にいえば、城の無断修築に該当するのだ。これは、改易処分となってもおかしくない内容であった。

こうして、正純は失脚へと追い込まれていく。

同年8月18日。
正純は、山形県に出張。これは、山形藩主の最上義俊(もがみよしとし)に領地57万石の没収を伝え、その事務を行うためであった。無事に終わり、いざ、江戸へ戻るタイミングで、まさかの事態に。

皮肉にも、今度は正純が、幕府より改易と配流(遠国へ流されること)を言い渡されたのである。

これには、正純も納得できず。徹底的に潔白を主張。
もともとの処分は、出羽国由利(秋田県)5万5,000石への転封。本来ならば改易となってもおかしくないところを、減封とされたのだが。正純は断固として受け入れず。絶対に固辞。この態度に、秀忠の面目は丸潰れとなり、怒りを買う。結果、1,000石のみを与えられ、正純は、長男と共に由利へ配流されるのであった。

寛永元(1624)年。
久保田藩主の佐竹義宣(さたけよしのぶ)に預けられ、横手(秋田県)へ。当初は丁重に扱われ、外出もできていたそうだが。この待遇が幕府の知れるところとなり、より厳しい環境にせよとの注意が。その後は、横手城(秋田県)の隅で幽閉される。

寛永14(1637)年、正純死去。享年73歳。
共に配流された息子の正勝(まさかつ)は、7年前に35歳の若さでこの世を去ったという。

栄光から一転。
あれから13年もの間、生き長らえた本多正純。
江戸から遠く離れた秋田の地で過ごす晩年は、じつに寂しいものであった。

最後に。
『台徳院御実紀』には、幕府の使者よりなされた11ヵ条の糾問について、正純は明白に答えていると記されている。ただ、追加された新たな3ヵ条に対しては答えることはできなかったと。

本多正純の子孫の方は、ある取材で「宇都宮釣天井事件」について、このように話されている。

「城の修築や鉄砲の搬入はしたのだろうと思います。もちろん反逆のためではなく、忠誠心から出た行動ですが……。-(中略)-釣天井などというのは、まったくの嘘です。―(中略)-それがまことしやかに伝わるうち、史実であるかのように誤解されたのです。正純らに対する妬みなどが、それほどに大きかったのかもしれませんが、本多の子孫は悔しい思いをしましたし、傷つけられました」
(小和田哲男著『徳川家家臣団―子孫たちの証言』より一部抜粋)

この「宇都宮釣天井事件」のみならず。本多正純に対する評価も、多くの書籍でネガティブに描かれている。特に、父の正信は謙虚だが、息子の正純は傲慢であったというモノが多い。だからこそ、父の遺言も守らず、家康の遺命だと勝手に加増し、15万5,000石となったのだと。

しかし、じつのところ、正純も加増を固辞していたとの記録がある。

家康存命の頃は、父・正信の所領は2万2,000石、正純の所領は3万3,000石。なんなら、正信は、息子のみならず2代秀忠に対しても、本多の子孫が絶えないよう加増してくれるなと頼んでいたのだとか。

それなのに、今回の加増を伴う宇都宮への転封は、その2代秀忠が命じたこと。いうなれば、体のよい左遷である。正純を江戸から離して自分の政治を行いたい。そのために、正純を宇都宮へと押し込めたのである。固辞した正純に対し、将軍の命令だと強制して、受け取らざるを得ない状況にしたという。正純に対する誤解は、ことのほか多い。

人物評もそうだ。本多正純は、意外にも、大変な律義者であったとか。
礼には礼を尽くす人物で、立場に関わらず、小さな寺院の住職にさえ、御礼状をしたためていたほど。佐竹氏の横手城に入る前、半年ほど大沢へ留め置かれていた時がある。改易後の正純は、手元に何もない。しかし、1つだけ残っていた「鹿の角(漢方薬)」を世話になった名主に渡したという逸話も。

なんだか、こんな話を聞けば、石田三成を思い出す。
豊臣秀吉一筋に忠勤し、武断派の恨みを買った三成。同じ構図が、やはり徳川家でもあったようだ。行政という役割上、彼らは数多くの誤解を受け、それでも自分の忠儀を曲げなかった。二人の行く末は、同じように暗いものであったといえよう。

さて。これでホントの最後。
配流先で正純が詠んだ歌を紹介して終わりたい。先ほどの書籍より一部抜粋する。

「陽だまりを 恋しと想う うめもどき 日蔭の紅を 見る人もなく」

息子に先立たれた晩年。
それでも、江戸幕府、徳川家を恨むことなく。自分を、見る人のない「梅もどき」にたとえつつ。これまでの人生を回顧したのだろうか。

本多家の子孫の方は、「木村氏」。
本多ではなく、「木村」の姓を名乗られている。正純の孫・正好(まさよし)の遺言が、本多家では今も伝わっているからだとか。

「子孫たるもの、曾孫の代までに大名家として再興できなければ、本多の姓を用いてはならない」。

いつの日か。
「本多」姓が復姓されることを願いたい。

参考文献
『徳川家家臣団―子孫たちの証言』 小和田哲男 静岡新聞社 2015年4月
『徳川四天王』東由士編 株式会社英和出版社 2014年7月
『別冊宝島 家康の謎』 井野澄恵編 宝島社 2015年4月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。